Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

ほんものを見るためににせものを見ること

2008-01-08 | 芸術礼賛
 2007年11月2日、東京国立博物館資料館に「TNM&TOPPANミュージアムシアター」が開設されてしばらく経つ(関連記事はこちら)。
ここで公開された作品の第1弾は、「聖徳太子絵伝」(国宝・平安時代)のバーチャルリアリティ(※以下、VR)であった。

「聖徳太子絵伝」は、時代性を考えれば非常に良好な保存状態であり、彩色や文字がきちんと判別できる箇所が非常に多い。とはいえ如何せん平安時代の代物であるため、その実物を見ることができる期間は限られる。「特別公開」と称される1年のうち1ヶ月のみ、ガラスの向こうに小さくみっちりと描き込まれた太子の生涯を追うことは単眼鏡を用いなければ容易ではない。さらに、単眼鏡を使って細部を見るということは、障子絵全体を見ることを放棄することに繋がる。非常に悔しいことに、このように広い背景の上に詳細に描き込まれた作品においては、木を見つつもさらに森まで同時に見ることは困難で、観覧者は必ずどちらか片方の見方をするか、あるいは変わりばんこに見方を変えることを余儀なくされる。


 VRは、緻密な写真を基にしたCG画像である。簡単に言うと、本物を忠実に再現したにせものの映像である。作り手は技術と予算のある限り、かなり自由な映像を創造することが可能である。しかし、博物館に設置するVRにおいては、ファンタジーの介在を決して許さない。そして、だからこそ実現できる世界がある。

 今回の作品「聖徳太子絵伝」を例に挙げるならば、たとえば以下のようなことだ。
1) 実際は入堂不可の法隆寺東院伽藍の絵殿内部に入れること(どのようにしてあったかを見られること)
2) 現在の絵殿にある江戸時代の復元と原本を重ねることで、剥落部の絵柄を推察できること
3) 通常であれば接近できない作品の細部をアップで見られること

 さらに(研究者の確信があれば、という場合もあるが)次のようなことも可能となる。
4) 変色、剥落している部分の色や部分を画面上で復元すること
5) 書かれている文字に画面上で翻訳(仮名)を施すこと
6) 立体のもの(彫像・仏像など)を、通常では見られない角度(背後・上・内部など)から鑑賞できること
7) X線画像との合成や比較ができること
8) 環境悪化や経年変化による劣化をシミュレーションすること   などなど。


 ほんものと対峙するためににせものを見詰めることの大切さ、にせものを追求することによってほんものを理解できる可能性。
「美術館でほんものが見られるのに、なぜVRを見なくてはならないの?」
という問いに対する答えとして、わたしはそれを提示したい。

 だって、ほんものしか存在しない世界など、どこにもない。