Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

凝固と破裂。

2008-01-16 | 徒然雑記
 
 言葉がどこか身体の奥のほうで凝って、発露されない日々が続くことがある。
言葉を失わないために、わたしは文字を連ねるのではなかったか。
想うことを放棄しないために、わたしは言葉を探るのではなかったか。

 今とは違う会社に居たとき、あまりに多忙なせいで月を見上げることを忘れ、時が衣替えしてその姿や日差しをくるくると変えてゆくのを見過ごし、凍った水や枯れた花に気付かなかった。
義眼のように風景や人の心情を反射するだけの目は要らない。枯れ枝の鳴らすかりかりした神経質な音に冬の焦燥や苛立ちを聞くことができない耳、季節の訪れや湿度を感知できない鼻はやはり要らない。なにしろ、それらを引っ掛ける幾重にも分かれた細い枝を持たない自分の脳が、疎ましかった。

 人の言葉を奪うものは、ひとえに多忙とは限らない。
 想いがあり、葛藤があるのに、言葉として流れ出してくることがない日々は、それは一方で午睡を貪るような脳の怠惰を疑うが、ひとえにそればかりでもあるまい。言葉が凝ったままに固まるという現象自体がひとつの表現であるとしたならば、それもまた可とせざるを得まい。

 わたしの奥のほうで凝ったままの言葉のカタマリはいま、どんな色をしているか。目を閉じて想像する。
深い緑と、黒と見紛うほどの深い蒼がその多くを占め、入り乱れている。そして、その合間を柿色や朱の染みが埋めている。とりわけ美しいものでもないように見えるが、かといって醜いわけでもない。自ら光を発するよりもむしろ、光の悉くを吸収せんばかりのその暗い色味は、なんとなくしっくりくる。

 いまわたしの中に手を差し入れてその丸いカタマリを取り出したら、それはきっと体温よりも冷たいものだ。
役立たずの眼球の代わりに、右目にそれを嵌め込んでみたらどんな世界が見える。
まるで新しいもののように見える風景を貪欲に吸収し、暗い輝きを増してくれるに違いない。そして言葉は言葉以外の何かとなって、受容体の枠に収まりきれず、わたしの目の中で破裂するのだ。