Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

ブーツ考。

2006-11-13 | 物質偏愛
 ブーツはそもそも、フェチアイテムである。


それがいつからか、秋になると百貨店にも道端にもブーツが氾濫するようになった。なんとまあ沢山の材質とフォルムが冬の足音を待つ間もない程早くに世間にびちゃびちゃと繁殖してゆくさまを見ると、ブーツがフェチアイテムから格下げになってしまった淋しさを禁じ得ない。

そういう私も、ブーツを5足所有している。
ジャスティン社のアメリカ製本格ウエスタンブーツや、サイドゴアでロングノーズのショートブーツ、高くて太いヒールが特徴的なキャメル色のストレートブーツなど。
ご愛用であったそのうちの一足、華奢なヒールの黒皮ショートブーツがそろそろお陀仏になりそうだったので、その代わりとなる一足を探して、私は難儀した。

店頭には山程のブーツが並んでいるくせに、そいつらがからきし美しくないからである。
なぜだ。
美しくないブーツなぞになんの意味があるというのだろう。


 そこで、道を歩いてゆくお嬢さんたちの足元を観察してみることにした。

 まずひとつ、ブーツには、ウエスタンやワークブーツを筆頭に、すとんとした直線的フォルムのものがある。これは、否定できないくらいに曲線的な女性の足のラインをハードな材質とメンズライクな直線的フォルムで覆い隠すことによるアンビバレンツな美をそこに醸すためにあるものだ。よって踵は総じて低く太く、歩けばゴツゴツと音がしそうな風情が漂う。男性が身につけるのとはまた異なる色香がその「ゴツゴツ」という音から発せられることは容易に想像がつく。

 ふたつ、これはより直接的に、女性の足の曲線ラインに沿うような華奢な材質で、まるで足の形のままにぴったりと寄り添うようなものがある。これは、極端に言えば「ストッキングがブーツになった」とでも云うべきもので、筒の部分が1センチ刻みで選べたりする場合もある。自らの足に不自然なくフィットさせることにより、まるで素肌のようにブーツを纏うことによるボディコンシャスな美である。

 みっつめ。これが私にとって最も難解で、今年になって最も多く目にするタイプだ。上記両方のタイプの流れを汲むことができるようだが、くしゃくしゃとした皺をブーツの表面に与えて、ドレープのようなぐったり感を前面に押し出すものである。
「ドレープ」とは、本来ならばその脆弱で不安定な揺らぎがラグジュアリーで優雅な装飾美を提供するはずのものだ。それがブーツに与えられたからといって、皮革という材質と、複雑に縫い合わせた筒という形状の限定により、脆弱な感性すら生み出さず、儚げな揺らめきも伝えない。むしろ、「足を包むもの」としてある程度限定されてしまうフォルムを不必要に乱し、ブーツそのものの存在の美しさも、それが包む足の美しさすら損なってしまう。嘆息するよりほかはない。


 ブーツは、衣服とは異なり、あらゆる装飾が許される分野ではない。
 ブーツは、防寒や乗馬という機能美が不要になったところに生じる無駄である。
 ブーツは、無駄であるからこそ、削ぎ落とした機能美が際立って美しい。

ブーツとは、本来そういういきものだ。


長い行脚の末に入手した、ぬるりとした質感が艶かしいアンクルブーツは、これから何年私とともに居てくれるだろうか。