リッツカールトンは香りの記憶を重視する。
薄暗いヴィクトリア調のロビーに足を踏み入れた瞬間に、「あ、この香り。」と気付いたときに訪問者が感じる安堵感をよく知っているということだ。
私が奈良の駅を降りて地上に上がった瞬間につい頬を緩めるような、『帰ってきた感』。香りは、単に記憶を呼び覚まさせるだけのものではなく、以前にその香りを感じたときに記憶や感情をトリップさせる、えもいわれぬ陶酔的な効果を持っている。
それは視覚よりもずっと正確無比で、聴覚よりも直感的だ。だからややもすると、その香りを放つ本体からは最早接点もないというのに、香りそれだけを何度も何度も追体験することによって、既に幻影に過ぎない本体に対して一種異様な偏愛を抱くことだってできる。もしかしたら、私がいずれどこかで今日と同じ香りを嗅いだとき、「ああ久々にリッツに泊まりたい」とうっかり思ってしまうかもしれない。まあ、これはリッツ独自の香りであるから、その心配は基本的にないのだけれども。
クラブフロア専用のキーを指さなければフロアに止まるための灯りが点らないエレベーター。足を運べば四六時中なにかをサーブしてくれる専用のラウンジ。
それらを通り抜けると、上方に向けて奥まったところに私の部屋がある。
玄関を経て、バスルームと完全に分断された客室。ボタニカルを基調とした壁の絵に布シェードのかかったいくつものランプ、そしてその影を移す天井。会社のそれよりも大きなダークオークの机に、同色に纏められた調度。自宅のそれよりも倍くらいの高さに設えられたベッド。刺繍の施された重いカーテンと同色のソファ。
窓の外には、恐らく半分はタクシーだと思われる梅田駅付近の渋滞を眼下に望み、遠くにはまるでベルギーの絵画あたりに出てきそうな、風に吹き散らかされた雲。その少し手前を飛行機が飛ぶ音がかなり鮮明に聞こえる。多分ここが東京でなく大阪だからだろう、さしたる高層階ではないのに、ここは確かに空に近い。
私の住みたい理想の家のひとつは確実にここにある。
理想の家は、空に近いほどに垂直的に俗世と分断されてなくともよい。その分断は、壁によってでも植栽によってでもまるで構わない。ただ、これと同程度の隠遁的分断が確実に果たされるのであれば。
この空間を明日の昼までひとりで満喫できることの贅沢さよ。
この空間に粋な男のひとりでも居ないことの不便さよ。
ひとりの部屋に、エネスコの弾くバッハのヴァイオリンソナタが流れる。
眼下には笑ってしまうほどに千切れかけた夜景。
薄暗いヴィクトリア調のロビーに足を踏み入れた瞬間に、「あ、この香り。」と気付いたときに訪問者が感じる安堵感をよく知っているということだ。
私が奈良の駅を降りて地上に上がった瞬間につい頬を緩めるような、『帰ってきた感』。香りは、単に記憶を呼び覚まさせるだけのものではなく、以前にその香りを感じたときに記憶や感情をトリップさせる、えもいわれぬ陶酔的な効果を持っている。
それは視覚よりもずっと正確無比で、聴覚よりも直感的だ。だからややもすると、その香りを放つ本体からは最早接点もないというのに、香りそれだけを何度も何度も追体験することによって、既に幻影に過ぎない本体に対して一種異様な偏愛を抱くことだってできる。もしかしたら、私がいずれどこかで今日と同じ香りを嗅いだとき、「ああ久々にリッツに泊まりたい」とうっかり思ってしまうかもしれない。まあ、これはリッツ独自の香りであるから、その心配は基本的にないのだけれども。
クラブフロア専用のキーを指さなければフロアに止まるための灯りが点らないエレベーター。足を運べば四六時中なにかをサーブしてくれる専用のラウンジ。
それらを通り抜けると、上方に向けて奥まったところに私の部屋がある。
玄関を経て、バスルームと完全に分断された客室。ボタニカルを基調とした壁の絵に布シェードのかかったいくつものランプ、そしてその影を移す天井。会社のそれよりも大きなダークオークの机に、同色に纏められた調度。自宅のそれよりも倍くらいの高さに設えられたベッド。刺繍の施された重いカーテンと同色のソファ。
窓の外には、恐らく半分はタクシーだと思われる梅田駅付近の渋滞を眼下に望み、遠くにはまるでベルギーの絵画あたりに出てきそうな、風に吹き散らかされた雲。その少し手前を飛行機が飛ぶ音がかなり鮮明に聞こえる。多分ここが東京でなく大阪だからだろう、さしたる高層階ではないのに、ここは確かに空に近い。
私の住みたい理想の家のひとつは確実にここにある。
理想の家は、空に近いほどに垂直的に俗世と分断されてなくともよい。その分断は、壁によってでも植栽によってでもまるで構わない。ただ、これと同程度の隠遁的分断が確実に果たされるのであれば。
この空間を明日の昼までひとりで満喫できることの贅沢さよ。
この空間に粋な男のひとりでも居ないことの不便さよ。
ひとりの部屋に、エネスコの弾くバッハのヴァイオリンソナタが流れる。
眼下には笑ってしまうほどに千切れかけた夜景。