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CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

三島神社

2007年02月05日 05時59分35秒 | Weblog


台東区寿4丁目にある三島神社です。
近くに諏訪神社と黒船神社があります。


諏訪神社と黒船神社のTBを参照
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猫地蔵自性院 節分会 in 2007

2007年02月04日 06時23分08秒 | Weblog

上の写真は新宿の落合南長崎に「猫寺」として
有名なお寺自性院(じしょういん)のシンボルの
招き猫で寺の入り口にあります。
宗派は真言宗豊山派 山号は西光山 
フルの名称は無量寺 自性院です。
住所:東京都新宿区西落合1-11-23
TEL:03-3951-4927



寺に入ると猫地蔵の秘仏が収納され年1回の開帳の会場となっている
建物の額縁です。

上の写真は
2月3日のお開帳の秘仏で左の赤い前掛けをつけているのが
寺宝太田道灌招き猫地蔵尊です。
右手が神楽坂の鮨商売人弥平が明和4年(1767)奉納した
猫面地蔵尊厨子です。
猫地蔵と呼ばれているのは猫面地蔵尊厨子のほうです。
こちらは猫とはっきり判りますが太田道灌招き猫地蔵尊(左)
ははっきり判りませんでした。


以下御開帳の会場で配布されていた資料より引用
「道灌招ぎ猫」
文明9年(1477)の頃、当所の豊嶋城主豊嶋
佐ヱ門尉と太田道灌とが合戦した有名な江古田ヶ原
のの戦いの折、日暮れて、道に迷った道灌の前に
1匹の黒猫があらわれて、道灌を当院に案内した、
そこで道灌は一夜を明かしたため危難を免れ
大勝利を得た。これひとえにこの猫のおかげと感激
して、この猫を大切に養い、死後丁重に葬った上
1体の地蔵尊を造って盛大な供養をして、
この地蔵尊を当院に奉納した。
これが当院の猫地蔵尊の最初の縁起であります。



上の写真は護摩が始まろうとしているところです。



お楽しみの豆まき風景です。



招き猫がたくさんあります。




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黒船神社

2007年02月03日 11時12分00秒 | Weblog


上の写真は東京都台東区寿町にある黒船神社です。
有名な黒船のゆかりというより江戸時代の町名が
黒船町ということでこの名前がついたらしい。

しかしながら徳川幕府が終わりを告げるきっかけになった。
黒船来航に少し話しを変えていきます。
嘉永6年(1853)7月8日にMatthew Calbraith Perry提督
が率いる4隻の黒船が浦賀沖に現れた。
4隻の構成は以下のとおり。
1)旗艦で蒸気推進艦であるサスケハナ号
2)蒸気推進艦ミシシッピー号
3)帆船のサラトガ号
4)帆船プリマス号

この時にアメリカのフィルモア大統領からの親書を浦賀近くの
久里浜で受けた。(徳川側使者:戸田伊豆守と井戸石見守)
また次回はさらに大規模な艦隊を率いて日本に開国を求める
ことを予告して同年(1853)7月17日に浦賀沖を去った。
老中阿部正直は、攘夷派の水戸藩の徳川斉昭公を海防参与に加え
海防体制を整えるとともに開港要求にどう対処すべきか
大名、諸侯に諮問している。
阿部正直の2つの決定が徳川政権を終了させることとなった。
1)幕府の特権である幕府の一存による決定の放棄
2)大名による沿岸警備の奨励で諸大名の軍事力を制限する
  権限を弱めた


翼年の嘉永7年(1854)ペリー提督が率いる7+2隻の船団で
2月13日に現れ開港を求め結局3月8日から日米和親条約の交渉
が行われ3月31日に下田、函館の2港の開港を含む日米和親条約が
締結された。その後安政5年(1858)の5カ国との修好通商条約
により完全開国となった。
 







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諏訪神社

2007年02月02日 05時38分49秒 | Weblog


台東区の駒形どじょうの近く又はバンダイ本社近くの
諏訪神社の写真です。

台東区駒形1丁目にあります。
創設の年代は明らかではありません。
諏訪信仰が関東に広まるのは鎌倉中期。



江戸名所図会の絵(上)から江戸時代の中期当時は
現在より広い土地にあったものと推定されます。



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金龍寺と荷田在満の墓

2007年02月01日 06時13分10秒 | 東京情報



上の写真は金龍寺の本堂です。
東京都台東区寿2-10-4
臨済宗 妙心寺派

江戸時代中期の著名な国学者の荷田在満の墓がある。

寛延4年(1751)8月4日45歳で死去
本姓は羽倉氏、字は持之
荷田在満(かだのありまろ)京都伏見の稲荷神社の
神官荷田信詮の3男高惟の長男として宝永3年(1706)
に生まれる。
徳川吉宗の次男で有職故実の研究者として知られた
田安宗武に仕える。

Wikipediaによる荷田 在満の生没年は(宝永3年(1706年) - 寛延4年8月4日(1751年9月23日))

著書に「大嘗会便蒙御咎顛末」(だいじょうえべんもうおとまげてんまつ)
「令三弁」「羽倉考」擬古文学に「白猿物語」「落合物語」がある。

コトバンクでの荷田在満(かだのありまろ)の解説

荷田在満とは - コトバンク

 

関連サイト:

 東京都台東区の歴史 金龍寺 荷田在満墓所 (shinobi.jp)

 

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