
上の写真は新宿の落合南長崎に「猫寺」として
有名なお寺自性院(じしょういん)のシンボルの
招き猫で寺の入り口にあります。
宗派は真言宗豊山派 山号は西光山
フルの名称は無量寺 自性院です。
住所:東京都新宿区西落合1-11-23
TEL:03-3951-4927

寺に入ると猫地蔵の秘仏が収納され年1回の開帳の会場となっている
建物の額縁です。

上の写真は
2月3日のお開帳の秘仏で左の赤い前掛けをつけているのが
寺宝太田道灌招き猫地蔵尊です。
右手が神楽坂の鮨商売人弥平が明和4年(1767)奉納した
猫面地蔵尊厨子です。
猫地蔵と呼ばれているのは猫面地蔵尊厨子のほうです。
こちらは猫とはっきり判りますが太田道灌招き猫地蔵尊(左)
ははっきり判りませんでした。

以下御開帳の会場で配布されていた資料より引用
「道灌招ぎ猫」
文明9年(1477)の頃、当所の豊嶋城主豊嶋
佐ヱ門尉と太田道灌とが合戦した有名な江古田ヶ原
のの戦いの折、日暮れて、道に迷った道灌の前に
1匹の黒猫があらわれて、道灌を当院に案内した、
そこで道灌は一夜を明かしたため危難を免れ
大勝利を得た。これひとえにこの猫のおかげと感激
して、この猫を大切に養い、死後丁重に葬った上
1体の地蔵尊を造って盛大な供養をして、
この地蔵尊を当院に奉納した。
これが当院の猫地蔵尊の最初の縁起であります。

上の写真は護摩が始まろうとしているところです。

お楽しみの豆まき風景です。

招き猫がたくさんあります。

上の写真は東京都台東区寿町にある黒船神社です。
有名な黒船のゆかりというより江戸時代の町名が
黒船町ということでこの名前がついたらしい。
しかしながら徳川幕府が終わりを告げるきっかけになった。
黒船来航に少し話しを変えていきます。
嘉永6年(1853)7月8日にMatthew Calbraith Perry提督
が率いる4隻の黒船が浦賀沖に現れた。
4隻の構成は以下のとおり。
1)旗艦で蒸気推進艦であるサスケハナ号
2)蒸気推進艦ミシシッピー号
3)帆船のサラトガ号
4)帆船プリマス号
この時にアメリカのフィルモア大統領からの親書を浦賀近くの
久里浜で受けた。(徳川側使者:戸田伊豆守と井戸石見守)
また次回はさらに大規模な艦隊を率いて日本に開国を求める
ことを予告して同年(1853)7月17日に浦賀沖を去った。
老中阿部正直は、攘夷派の水戸藩の徳川斉昭公を海防参与に加え
海防体制を整えるとともに開港要求にどう対処すべきか
大名、諸侯に諮問している。
阿部正直の2つの決定が徳川政権を終了させることとなった。
1)幕府の特権である幕府の一存による決定の放棄
2)大名による沿岸警備の奨励で諸大名の軍事力を制限する
権限を弱めた
翼年の嘉永7年(1854)ペリー提督が率いる7+2隻の船団で
2月13日に現れ開港を求め結局3月8日から日米和親条約の交渉
が行われ3月31日に下田、函館の2港の開港を含む日米和親条約が
締結された。その後安政5年(1858)の5カ国との修好通商条約
により完全開国となった。
上の写真は金龍寺の本堂です。
東京都台東区寿2-10-4
臨済宗 妙心寺派
江戸時代中期の著名な国学者の荷田在満の墓がある。
寛延4年(1751)8月4日45歳で死去
本姓は羽倉氏、字は持之
荷田在満(かだのありまろ)京都伏見の稲荷神社の
神官荷田信詮の3男高惟の長男として宝永3年(1706)
に生まれる。
徳川吉宗の次男で有職故実の研究者として知られた
田安宗武に仕える。
Wikipediaによる荷田 在満の生没年は(宝永3年(1706年) - 寛延4年8月4日(1751年9月23日))
著書に「大嘗会便蒙御咎顛末」(だいじょうえべんもうおとまげてんまつ)
「令三弁」「羽倉考」擬古文学に「白猿物語」「落合物語」がある。
コトバンクでの荷田在満(かだのありまろ)の解説
関連サイト:
東京都台東区の歴史 金龍寺 荷田在満墓所 (shinobi.jp)