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JR安土駅周辺散策記 on 2019-3-20 その4 セミナリヨ跡

2019年05月12日 05時13分50秒 | 滋賀県情報
2019年3月20日、安土城をメイン訪問先ととしてJR安土駅周辺を散策してきました。

本日はその第4回としてセミナリヨ跡を写真紹介します。

セミナリヨは織田信長の庇護を受けた宣教師オルガンチノが建てた、日本初のカトリック
小神学校です。1582年6月の本能寺の変後、安土城とともに焼失しました。
堆定地が公園として整備されています。

セミナリヨ跡の基本情報
住所:近江八幡市安土町下豊浦2753
存在時期:天正8年(1580)~天正10年(1582)6月廃墟になる
     セミナリヨ自身は京都、高槻、大坂へ移転
     天正15年(1587)には肥前国の有馬に合併
     慶長19年(1614)に廃校


セミナリヨ跡の所在地をGoo地図で示しました。
 
      

過去の散策記:

第1回 JR安土駅周辺散策記 on 2019-3-20 その1 一須賀古墳群と渡来人の展示 in 安土城考古博物館

第2回 JR安土駅周辺散策記 on 2019-3-20 その2 相撲取りの石像

第3回 JR安土駅周辺散策記 on 2019-3-20 その3 佛立山 東南寺


上の写真は現地説明書に記載の安土のセミナリヨ推定図(左下と右)


上の写真は現地(セミナリヨ跡)の現況
𠮷村幸一さんが所有されていた土地でしたが公園として整備されています。
「セミナリヨ史跡公園」と命名されています。


上の写真はセミナリヨ趾と書かれた碑
書はカトリック大司教 白柳誠一さんにより1975年3月に作成されたようです。


上の写真は現地説明板(セミナリヨの由来)

セミナリヨの由来
かつてセミナリヨ(カトリック小神学校)のあったこの土地が、織田信長より教会建設
用地として下附されたのは、一五八〇年(天正八年)五月二十一日のことであった。
これによって、イエズス会のオルガンチーノ神父は直ちに高山右近をはじめ近在の信者
たちの熱烈な援助を受けて、ここに三階建の堂々たる住院を完成したが、その後間もなく
この建物を用いてセミナリヨが開校された。一階には茶室の付いた座敷があり、二階は
神父の居室、三階は教室と生徒の寮として使用された。授業科目には、日本文学、
キリスト教理、ラテン語、修辞学、音楽などがあり、後に日本二十六聖人の一人となった
パウロ三木をはじめ、諸国から集まった二十数名の少年たちが寄宿して勉学に励んでいた。
信長の特別の許可により、安土城と同じ水色の瓦で屋根を葺いたこの豪壮なセミナリヨには、
連日多数の貴人が訪れたが、信長自身もしばしばここに立ち寄り、ときに少年の演奏する
オルガンに聞きとれていたと伝えられる。かくして、安土はこのセミナリヨにより、
日本におけるキリスト教の一大中心地となるかにみえた。しかし、一五八二年六月信長が
本能寺の変に死するや事態は一変し、セミナリヨの壮麗な建物も明智勢の侵略により
廃墟と化した。やむなくセミナリヨは京都へ、さらに高槻、大阪へと移り、一五八七年
秀吉の禁教令に際しては肥前国(長崎県)有馬のセミナリヨに合併されたが、それも遂には
一六一四年徳川の大追放令のもとで廃校となり、その苦難の歴史を閉じることになった。


肥前(長崎県)のセミナリオ跡について紹介されたサイトへリンクさせていただきました。
 https://www.pauline.or.jp/kirishitanland/20090111_arimaseminario.php

1580年の2年後の1582年は九州のキリシタン大名の大友宗麟、大村純忠、有馬晴信
らの特使として4人の少年特使が欧州に派遣された年です。
秀吉、家康の政策でキリスト教を広めようとした人達は苦難の道をたどることになります。

関連ブログ:
 天正遣欧使節

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その4 高槻城の残影と高山右近像

 明石市船上城跡

 遥かなるルネサンス 天正遣欧少年使節がたどったイタリア (グリル十字屋でのランチ)




上の写真は日課、食事、服装が書かれた現地説明板。


上の写真は安土セミナリヨと三木パウロをテーマに書かれた現地説明板
(三木パウロの顕彰碑)
1981年5月31日に設置

安土セミナリヨと三木パウロ
 一五八〇年五月オルガンチノ神父が信長から土地を下付されて開校したセミナリヨ
(神学校)は、日本近代教育の幕あけにふさわしい充実した教育内容と、三階建の
豪華壮麗な大建築とで、遠く海外にも知られていた。このセミナリヨも、やがて
本能寺の変に続く動乱のために焼失し、安土にあったのは僅か二カ年余に過ぎなかったが、
その間日本の精神的指導者となるべき幾多の優秀な人材が育成された、阿波の士族
三木半太夫の子、三木パウロもその一人である。
彼は一五六四年頃生まれ、幼少時に授洗、セミナリヨを卒業後一五八六年イエズス会に入り、
布教活動に献身した。しかし一五九六年十二月秀吉のキリシタン弾圧にともなって
大坂で逮捕され、翌年一月他の二十五名の信者とともに陸路九州へ護送されて、
二月五日長崎西坂の丘で殉教した。一八六二年法王ピオ九世は彼ら二十六人の遺徳を
讃えて全員を聖人の位にあげ、ここに三木パウロの名は日本二十六聖人の一人として、
広く世界の人々の尊敬を集めることとなった。 今日三木パウロの遺骨をこの地に
迎えるにあたってその記念としてこれを建立するものである。
一九八一年五月三十一日


パウロ三木についてWikipediaより引用紹介します。
パウロ 三木(パウロ みき、1560年代[注 1] - 慶長元年12月19日(1597年2月5日))
は、安土桃山時代のキリシタンでイエズス会宣教師。当時の呼称では三木ポオロ。
殉教して265年後に日本二十六聖人の一人としてカトリック教会の聖人となった。
パウロは摂津国(有馬郡)の生まれというが、但馬国か阿波の徳島の出身というなど
異説[3]もある。 父の三木半太夫は『三好記』によれば三好氏に従う戦国武将であったが、
永禄11年(1568年)に上洛を果たした織田信長に随身し、功をあげて取り立てられた。[4]
同年、半太夫はキリスト教にも惹かれて洗礼を受けてハンディノを称し、自分の子供
にも洗礼を受けさせ、洗礼名「パウロ」とされたのがこの人物である。
天正8年(1580年)、12歳の時、オルガンティノ師について、安土城下に造られた日本最初の
セミナリヨ(小神学校)に第一期生として入学。2年後、本能寺の変後に城下が焼かれたため、
有馬(高槻市)の学寮に移り、イエズス会員の手で教育を受け、幅広く諸学を治めた。
成績優秀だったパウロは、父が九州平定の戦いにおいて薩摩で戦死したと知って教会に
身を捧げる覚悟をし、22歳の時にイエズス会に入会を許された。
雄弁でならして多くの聴衆を集める優れた宣教師として活躍。
教化させて入信させた者も多く、書を持って盛んに仏教徒の醜行を攻撃した。
文禄5年(1596年)10月、サン=フェリペ号事件が起こり、豊臣秀吉の命によって宣教師
およびキリシタン信徒の名簿が作られ、監視されるようになった。12月11日、秀吉は
奉行石田三成に命じてフランシスコ会のキリシタンを捕縛して誅殺するように命じた。
パウロらは大阪ゼスイト派の宣教師宅で捕らえられた。三成はイエズス会派の者を
除外するように主張したが、許されなかった。
捕縛された26人は、フィリピン外交使節と偽り禁制のキリスト教を布教したかどで
長崎で磔刑に処すと宣告され、まず証拠として耳の一部を切断された後、京都、大阪、
堺の市中を引き回され、陸路で長崎に送られ、慶長元年(1597年2月5日)、長崎の
立山で処刑された。
ルイス・フロイスの記録によれば、パウロ三木は十字架の上で、押しかけた群衆に向かって
「自分は罪状書きにあるようなフィリピン人でなく、れっきとした日本人である。
私はキリスト教を信じたというだけで殺されるのである。この理由のゆえに私は命を
ささげることをいとわない。私はキリストの教えに従い、自分の処刑を命じた人(豊臣秀吉)
と処刑にかかわったすべての人を許したい」と叫んだという。
1627年(寛永4年)2月14日、教皇ウルバヌス8世によって列福され、1862年(文久2年)
6月8日に教皇ピウス9世によって列聖された。
今日、パウロ三木の名前は、聖イグナチオ教会の運営を託されたイエズス会の
聖三木図書館にその名前を留めている。


注1: 永禄7年(1564年)、永禄7年(1564年)頃もしくは永禄10年(1567年)頃。




上の2枚の写真はセミナリヨ跡から繖山(きぬがさやま)観音寺山方面を臨む風景
左手は安土山
水路は現在でも西の湖に通じています。


上の写真はセミナリヨ跡に行く途中で見つけた「永楽通宝」のマンホール

Wikipediaによれば
永楽通宝(えいらくつうほう)は、中国の明朝第3代皇帝・永楽帝の代、永楽9年(1411年)
より鋳造され始めた銅製銭貨。日本では室町時代に日明貿易や倭寇によって大量に輸入され、
江戸時代初頭まで流通。永楽銭、永銭などと呼ばれた。
当初は明の国内でも流通していたのだが信用が低かった(中国では新銭よりも、流通の実績の
ある宋銭や開元通宝などが好まれた)ことから15世紀後半には明では次第に使用が忌避される
ようになり、室町時代後期に大量に輸入された。


楽市楽座(商工業者に税などを免除させ、自由な商工業を発展させること)で永楽銭が流通
している姿が思い浮かびます。


上の写真の右手に安土城跡の標識と共に朝鮮人街道の表記があります。
朝鮮通信使がこの街道を利用して江戸に参府していたことが連想されます。


キリスト教の布教関連の記事ということでセミナリヨ跡に行く途中で見つけた安土教会
写真を添付しておきます。

安土教会の所在地は近江八幡市安土町上豊浦1633 TEL:0748-46-2251
創立は1912年7月3日だそうです。




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