CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その4 高槻城の残影と高山右近像

2015年11月07日 06時27分48秒 | 大阪情報
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 シリーズの第4回目です。
今回は高槻城の残影と高山右近像をお送りします。

これまでの散策記

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その1 円成寺と京口町の道標

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その2 八幡大神宮

  阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その3 高槻城跡公園



上の写真はAR高槻城の看板です。
最近はスマホで見れるこのようなサービスが普及してきていると感じます。


上の写真は高槻城の配置図。


上の写真は歴史民俗資料館です10時からの開館で早く来すぎた為
入場できず。


上の写真は池と復興された天守台。
実際に当時天守があったのはこの場所ではなく現高校の敷地内とのこと。






上の3枚の写真は高山右近像。

Wikipediaより高山右近(1552-1615)について引用紹介します。
キリスト教の最大の理解者であったのは、高槻城主の高山父子であるが、
芥川山城主であった和田惟政もよき理解者で宣教師を迎え入れたり、城内に
教会を建設しようとしたが白井河原の戦いで戦死し頓挫した。
その後高山友照・右近父子が城主となって天正4年(1576年)に念願であった
教会を建設、天正11年(1583年)には修学寮も建設し、領内には20ヶ所の教会、
当時の高槻領人口の60%以上、1万8千人もの人々がキリスト教徒となり、
宗教活動を活発にしていたようである。天正10年(1582年)6月に本能寺の変で
信長が討たれると、豊臣秀吉は大坂城の築城に着手し、右近は天正13年(1585)
に明石の船上城へ転封させられた


明石市の船上城については小生もブログを作成しています。下記サイト。
 船上城跡
敬虔なキリスト教徒である右近は、在任期間2年間ではあるが明石の地に多くの
教会を建設していった。
天正15年(1587) 秀吉は、キリシタン追放令を出し、さらに各大名に対しては、
11箇条の指令を出し、厳しくキリスト教取り締まる方針を出した。
その影響で高山右近は小豆島、肥後、加賀高岡、長崎、ルソン(フィリピン)
などの地を転々とした。

高山右近没後400年にあたる平成27年(2015)、日本のカトリック中央協議会は
高山右近を地位を捨てて信仰を貫いた殉教者として、福者に認定するよう
ローマ教皇庁に申請した。 2015年6月18日、教皇庁の神学調査委員会が
高山右近を手続きを始めることを了承され、遅くても、2016年1月までには
認定される模様。

詳細は日経新聞電子版  2015/6/22 12:14配信




上の写真は高槻城の現地説明版です。


上の写真は上記説明版の拡大版です。
高槻城の全体と城下町の様子が判ります。


上の写真も上記説明版の拡大版です。
八丁松原から高槻城内に向かう行列が描かれています。


上の写真は高槻城の石垣の基礎部の構造を解説
同じく上記説明版の拡大版です。


高槻市 市民憲章が掲示されていました。




上の2枚の写真は高槻城廐廊 桝形門の石垣石 第一中学校より出土品と
説明書き。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« トヨタ、人工知能に1200... | トップ | 阪急高槻駅南地区散策記 on... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

大阪情報」カテゴリの最新記事