お大師さんの9月21日に須磨寺を訪問しシベリア抑留の慰霊碑の写真を
撮ってきました紹介します。
上の写真が須磨寺の シベリア抑留の慰霊碑の全景です。
向かって左のクマさんの頭を撫でると一弦琴(須磨琴)の演奏で 「異国の丘」が流れます
上の写真は慰霊碑の内容を記載した説明板 By シベリア雪の同窓会
上の写真は慰霊碑の建立趣旨が書かれた現地説明板
昭和57年(1982)シベリア雪の同窓会によって建立されました。
上の写真は慰霊碑の奥に描かれたシベリアの森林と抑留者の強制労働
及び当時のソ連の地図
以下シベリア抑留について主に10月2日に放送のBSTBS 関口宏のもう一度!近現代史
よりの写真をメインに記載していきます。
シベリア抑留
ソ連は昭和20年(1945)8月8日に対日宣戦布告をした後、8月9日にはソ連軍が満州に
進攻してきた。8月16日以降は天皇陛下が大本営に即時停戦命令を下命されていたため
関東軍は静謐。8月18日 日本(関東軍司令官)・ソ連(極東軍司令官)停戦交渉開始
8月23日 ソ蓮の最高指導者スターリンは日本人のソ連移送・強制労働を決定。
満州にいた関東軍の将兵57万5千人(70万弱ともいわれる)がシベリアの他、各地の
ソ連領内に連行され強制労働させられた。
上の写真はソ連領内における収容所の配置と規模
上の5枚の写真は強制労働の実態を描いたもので極寒の中、1日1食か2食で駅舎、飛行場
劇場、民間住宅などの建設工事などに従事した。背景としてソ連は第2次世界大戦で
軍人約1,450万人、民間人約700万人が亡くなっていたため、労働力不足の状態であった。
過酷な労働のため約6万人が死亡したと言われています。
当初、日本政府はこの事実を知らなかった。昭和20年(1945)11月になってやっと
政府が強制連行の情報を始めて得ることとなります。
政府がアメリカを通じソ連との交渉を開始したのは昭和21年(1946)5月
昭和21年(1946)12月 「日本人抑留者の帰国に関する米ソ協定」が成立し
昭和21年(1946)12月8日 ソ連からの引揚第一船(大久丸、恵山丸)舞鶴に入港
以降も引き揚げ事業は昭和31年(1956)まで続きます。
このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に反するものであった。ロシアのエリツィン大統領は1993年(平成5年)10月に訪日した際、「非人間的な行為」として謝罪の意を表した。ただし、ロシア側は、移送した日本軍将兵は戦闘継続中に合法的に拘束した「捕虜」であり、戦争終結後に不当に留め置いた「抑留者」には該当しないとしている。
上の写真はエリツィン大統領
以上はWikipediaより引用
ソ連の日本領南樺太へ侵攻と千島列島への侵攻
昭和20年(1945)8月11日 ソ蓮、日本領の南樺太へ侵攻
上の写真は南樺太を進軍するソ連軍 多くの民間日本人に悲劇が・・・・
日本人の悲劇の例として8月20日、ソ連軍が西海岸の真岡に上陸を開始、混乱の中
業務のため疎開せずに残った真岡郵便局の電話交換手の女性9名が自決
8月22日、樺太から疎開・引揚船がソ連軍の潜水艦に攻撃され2隻が沈没、1隻が大破
1,708人以上が犠牲になったとされる
昭和20年(1945)8月18日 ソ蓮、日本領の千島列島へ侵攻、日本兵を武装解除
させながら南下
昭和20年(1945)8月21日、日本軍は降伏し停戦が成立
8月28日以降、ソ連軍、さらに「北方領土」に侵攻
8月28日:択捉島に上陸、9月1日:国後島・色丹島に上陸 さらに降伏文書調印の
9月2日以降の9月3日:歯舞群島に上陸へと続いた
各島で日本兵の武装解除を行い9月5日までに無血占領
ソ連の共産党史には9月2日までに北方4島への侵攻は終了と記載されており、北方領土が
ロシアに帰属するとの主張の根拠としている。
現在も日本はロシアとの平和条約が締結されておらず、北方領土の線引きが終わっていない。
シベリア抑留関連年表
昭和20年(1945)4月5日 ソ蓮、日本に対し日ソ中立条約の廃棄を通告(通告から一年後に条約失効)
昭和20年(1945)8月8日 ソ蓮、対日宣戦布告(4月5日の通告から一年未満)
昭和20年(1945)8月11日 ソ蓮、日本領の南樺太へ侵攻
昭和20年(1945)8月16日 天皇陛下が大本営に即時停戦命令を下命
昭和20年(1945)8月18日 日本(関東軍司令官)・ソ連(極東軍司令官)停戦交渉開始
昭和20年(1945)8月18日 ソ蓮、日本領の千島列島へ侵攻
昭和20年(1945)8月23日 ソ蓮、日本人のソ連移送・強制労働を決定
昭和20年(1945)8月26日 日ソ間の戦闘がほぼ終結
昭和20年(1945)9月2日 ミズーリ号上で降伏文書の署名
昭和20年(1945)11月 政府が強制連行の情報を始めて得る
昭和21年(1946)5月 政府がアメリカを通じソ連との交渉を開始
昭和21年(1946)12月 「日本人抑留者の帰国に関する米ソ協定」が成立
昭和21年(1946)12月8日 ソ連からの引揚第一船(大久丸、恵山丸)舞鶴に入港
昭和23年(1948)12月5日 ソ連からの引揚が一時中断
昭和25年(1950)4月 国会で「在外抑留同胞引揚に関する決議」採択
昭和25(1950)4月 日本政府は国連へ提訴、国連は捕虜特別委員会を設置
昭和28(1953)11月19日 日ソ赤十字「日本人捕虜他、ソ連領土よりの送還関する共同コミュニケ」発表
昭和28(1953)11月30日 日、ソ連からの引揚再開、帰国第一船「興安丸」が舞鶴入港
昭和30(1955)6月1日 日ソ交渉開始、シベリア抑留者全員の即時帰国を要求
昭和31(1956)10月19日 日ソ共同宣言・通商議定書調印、抑留者全員の釈放決定
昭和31年(1956)12月26日 シベリア抑留者の最終梯団を乗せた「興安丸」が舞鶴入港
関連サイト
戦没者慰霊事業:日本人死亡者慰霊碑(ロシア)|厚生労働省 (mhlw.go.jp)
シベリア抑留 平和学習|教育旅行のご提案 (m-hikiage-museum.jp)
98歳 シベリア抑留の体験を語り続ける|島根の戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK
戦後75年 いまなお続く「シベリア抑留」(2020年8月24日)テレビ東京
「忘れられた戦争~シベリア抑留の記憶」JNNドキュメンタリー ザ・フォーカス
ドキュメント『行き先も、分からずに~20歳の初年兵、シベリア抑留の記憶~』〈福生市制作:記憶のアーカイブプロジェクトⅠ〉
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