CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

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アメリカ占領下の日本

2021年08月21日 07時11分37秒 | Weblog

本日は「アメリカを中心とする連合国軍占領下の日本」をテーマで書いていきます。

ポツダム宣言受諾(無条件降伏)後、昭和20年(1945)9月2日、日本政府代表及び

軍大本営代表は東京湾の横須賀沖に浮かぶ戦艦ミズーリの船上で、イギリス、オーストラリア、

アメリカ、オランダ、中華民国、ソ連など連合国との間で降伏文書に正式に調印した。

降伏文書の内容は下記のとおり(Wikipediaより)

その所在地に関わらず日本軍全軍へ無条件降伏布告。全指揮官はこの布告に従う
日本軍と国民へ敵対行為中止を命じ、船舶・航空機、軍用非軍用を問わず財産の

毀損を防ぎ連合国軍最高司令官及びその指示に基づき日本政府が下す要求・命令に従わせる
その所在地に関わらず、日本の支配下にある全ての国の軍隊に無条件降伏させる
公務員と陸海軍の職員は、日本降伏のために連合国軍最高司令官が実施・発する

命令・布告・その他指示に従う 非戦闘任務には引き続き服する
ポツダム宣言の履行及びそのために必要な命令を発しまた措置を取る
天皇及び日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施する為適当と認める

処置を執る連合国軍最高司令官の制限の下に置かれる
日本政府と大本営は捕虜として抑留している連合軍将兵を即時解放し必要な給養を受けさせる

下記ブログで詳細な記事を書いています。

 ミズーリー号上で降伏文書調印式 on 1945-9-2 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

以降、1951年(昭和26年)9月8日の「サンフランシスコ講和条約」(正式名:日本国との平和条約)

に調印までの間、実際には条約が発効した1952年(昭和27年)4月28日までの約7年間は

連合国による占領下の統治となります。

 

アメリカ占領下の日本」というテーマで下に添付の4つの動画をGooで共有させて

いただきました。戦後の日本の歴史を考える上で貴重な資料であると思います。

タイトルは正確には「アメリカを中心とする連合国軍占領下の日本」とした方が良い。

ビデオの冒頭にこれらのビデオは1995年にプロデューサー林良久のもとウォークプロモーション

が製作しコニービデオから販売されたものである。

製作・販売会社は既に解散し林氏も故人となり作品マスター類を託されたTTサウンドワークス

鈴木利之は東京シネマ新社の岡田一男の協力でNPO法人科学映像館によるWeb上での

無償公開を決断した。作品に使用されている映像素材は米国軍隊の撮影でパブリックドメインだが

作品自体の著作権はいまだ消滅していない。

アメリカ占領下の日本 第1巻 大日本帝国解体  企画・制作:ウォークプロモーションamericasenryoukano nihon1

アメリカ占領下の日本 第2巻 最高司令官マッカーサー 企画・制作:ウォークプロモーションamericasenryoukano nihon2

アメリカ占領下の日本 第3巻 東京裁判 企画・制作:ウォークプロモーションamericasenryoukano nihon3

アメリカ占領下の日本 第4巻 アメリカン・デモクラシー企画・制作:ウォークプロモーションamericasenryoukano nihon4

 

1945年8月15日以降、占領軍及び連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) を中心とした

動きを年譜形式で書いていきます。連合国軍最高司令部とも

GHQはGeneral Headquartersの略

SCAPは the Supreme Commander for the Allied Powersの略

 

1945年8月28日 連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてチャールズ・テンチ大佐

    率いる45機のカーチスC-47からなるアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着同基地を占領した。

1945年8月30日、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP)の総司令官として連合国の

    日本占領の指揮に当たるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も厚木基地に到着した。(下の写真)

    先遣隊とともに横浜へ移動に進駐した。最初は横浜のニューグランドホテルに逗留。

    GHQの本部は横浜ニューグランドホテルに置かれた

1945年9月2日、ミズーリー号上の降伏文書調印式

      Japanese Sign Final Surrender - 1945

  ソ連軍が国後島を占領

1945年9月3日、横浜、横須賀、鹿屋を皮切りに木更津、館山へ米軍が入る

      ソ連軍が歯舞群島を占領

   占領形態に関するエピソード(Wikipediaより)

 当時「連合国は日本本土に対して軍政を実施する」との情報があり、実際9月3日に、「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言をトルーマン大統領の言うとおりに反故にし、行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く方針を示した。公用語も英語にするとした。

これに対して重光葵外務大臣(東久邇宮内閣)は即日にダグラス・マッカーサーに面会し、「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを要求。直接物申しこれを撤回させた。その結果、占領政策は日本政府を通した間接統治となった。 一方南西諸島および小笠原諸島は停戦時にすでにアメリカ軍の占領下ないし勢力下にあり、本土復帰まで被占領の歴史を歩んだ。大陸や南方、北方の旧領土および占領地の日本軍はイギリス軍や中華民国軍、ソビエト連邦軍やフランス軍などそれぞれ現地の連合国軍に降伏し、領土および占領地の行政権は連合国軍に剥奪された(日本本土除く)。占領軍は日本の外交権を停止し、日本人の海外渡航を制限し貿易、交通を管理した。漁業活動のための航海は、「マッカーサーライン」を暫定的に引き、「サンフランシスコ講和条約」を結ぶことによる廃止がなされるまでの間その制限下に置いた。

1945年9月8日、東京へ米軍が入る

1945年9月10日、GHQの本部として「第一生命館」が正式に接収通知(日本政府)

        正式な引き渡しは9月15日

上の写真はGHQの本部として使用されていた「第一生命館」(東京 大手町)

1945年9月11日、紀伊水道の機雷を掃海後、9月23日より和歌山松江の浜に上陸後

       大阪と神戸へ4万2千人の米軍が入る

       神戸における進駐軍については別途ブログを作成する予定です。

1945年9月19日、プレスコードを設定 原爆に関する情報統制

1945年9月25日、青森(三沢、八戸)へ米軍が入る

1945年9月27日、昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問

上の写真は昭和天皇がアメリカ大使館のマッカーサーを訪問した時のもの。GHQの指令で

新聞に掲載。東久邇内閣の山崎内務大臣は新聞の発売禁止にしようとしたがGHQにより阻止。

1945年10月4日、函館への駐留開始 以降小樽、札幌への進駐も始まります

    GHQが人権指令を出す 東久邇内閣は実行できず総辞職 幣原喜重郎内閣が成立

1945年10月11日、GHQが日本民主化のための五大改革指令

 1)女性参政権の付与

 2)労働組合の結成奨励

 3)教育の自由主義的改革

 4)秘密警察などの廃止

 5)経済機構の民主化

1945年11月6日、財閥解体指令

1945年11月4日、この時点で40万人を超す連合国軍が上陸

1945年12月15日、神道指令

1946年1月1日、昭和天皇の人間宣言

1946年1月4日、公職追放令

出典:詳説日本史図録 第2版 山川出版社(2008) Page285

1946年2月17日、金融緊急措置令

1946年4月10日、戦後初の総選挙 総選挙で日本自由党が第1党となり幣原内閣は総辞職

最後に詳説日本史図録 第2版 山川出版社(2008)Page285より連合国の日本管理の

資料を添付して筆を置きます。

 


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