2014年6月8日、表題の番組が放送されました。
このブログではわれら神戸市の有馬温泉が初めて官兵衛紀行で紹介されたこともあり
有馬での黒田官兵衛の湯治と有馬温泉と秀吉などをメインテーマとして記事にします。
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第23回 半兵衛の遺言の基本情報
放送日:2014年6月8日
概略あらすじ:
天正7年(1579)11月有岡城から救出された官兵衛は、栗山善助たちが拠点としていた城下の
店(銀屋)で丸2日間深い眠りに落ちた。
以降織田信長への謁見、松寿丸との再会、有馬温泉での湯治、半兵衛の軍配受理、姫路城への帰還
三木城平井山本陣へ参陣、1年近くの幽閉で会得した情けを捨てる覚悟など成長した軍師官兵衛の
誕生などと続く。
一方、有岡城の攻防で尼崎城に逃亡後、行方をくらました荒木村重、天正7年(1579)
12月13日有岡城で捕らえられた122名が尼崎城外で磔(はりつけ)にされ
残った500人余りが家4軒に押し込められ焼き殺されるという前代未聞の成敗が
行われた。京都の妙顕寺に監禁されていただしをはじめ荒木の一族は京の六条河原で
処刑された。その中には妊婦や乳飲み子も含まれていた。
上の2枚の写真は有馬温泉での湯治の場面。
上の写真は黒田官兵衛が湯治した 伝 池坊左橘右衛門(いけのぼうさきつえもん)邸跡(官兵衛紀行の画面)
池坊左橘右衛門について黒田家譜などを紹介したブログを作成していますのでよかったら参照願います。
黒田官兵衛は有馬のどこで湯治したのか
同じく官兵衛紀行で7日で11回風呂に入ったとの文書が紹介されていました(上の写真)
晩年黒田官兵衛は黒田如水と号したが有馬温泉を非常に愛していたことが伺えます。
【史料名】 黒田如水書状 (慶長8年・1603)11月18日付け 黒田筑前守(長政)宛
文書全文は福岡市博物館のサイトで解説紹介されています。(下記アドレス)
http://museum.city.fukuoka.jp/blog/news/1680/
官兵衛紀行で紹介された有馬温泉に関する写真に若干のコメントを添えて記します。
有馬温泉への観光案内は有馬温泉観光協会へ
上の写真は有馬温泉郷の遠景。
上の写真はねね橋(赤い橋)を中心に撮った有馬温泉。
有馬川と滝川が合流して六甲川になる地点でもあります。
上の写真は有馬温泉の秀吉像。湯けむり広場の近くにあります。
上の写真は1995年の阪神淡路大震災で倒壊した極楽寺の庫裏の発掘調査の結果
見つかった「湯山御殿」の一部と考えられる泉源、岩風呂、蒸し風呂跡や茶の湯の
庭の遺構も見つかっています。
現在、遺構の資料も含め太閤の湯殿館に保存されています。
上の写真は有馬温泉に太閤豊臣秀吉が仮の旅館を建てた遺構で有馬の地を治めていた
有馬法印(則頼)が梅林寺として残したが有馬氏が三田に移封され九鬼氏に受け継がれ
心月院山門として残った。宝暦3年(1753)に再建された。 三田市西山に所在
上の写真は湯山御殿から出土の瓦と大阪城の瓦の比較で同じ型から製造との解説あり。
出典:神戸で秀吉と出会う 神戸市教育委員会、神戸市立博物館 (2010)Page32
上の写真は有馬温泉天神泉源。
上の写真は有馬温泉郷の湯本坂の風景。右端に赤い昔ながらのポストあり。
上の写真は江戸時代の有馬温泉の様子。
南側を一の湯、北側を二の湯として夫々に10坊づつに分けられ利用する温泉宿が定められていました。
有馬温泉紹介ブログ(小生のブログ)
行基、仁西上人、豊臣秀吉のことを有馬の三恩人という。
建久2年(1191)吉野の高原寺の僧、仁西上人は熊野権現のお告げに従い有馬温泉にやってきました。
仁西上人に連れてこられた人々(平家の残党とも言われる)に十二神将にちなんで十二坊を営ませた。
十二坊は下記のとおり。
池坊、奥の坊、角の坊(休所)、二階坊、尼崎坊、中蔵坊、兵衛(北の坊)、下大坊
中の坊、横の坊、上大坊、茅の坊
有馬温泉 温泉寺 石造五輪塔を中心として on 2012-11-13
行基の像と有馬温泉 温泉寺 on 2010-9-25
温泉寺の薬師如来は草津温泉の古刹光泉寺、と(山中温泉の薬師院温泉寺
あるいは城崎温泉の温泉寺、あるいは道後温泉の石手寺の中の一つ)
と共に日本の三大薬師の一つとされています。
有馬温泉 地獄谷 on 2010-9-25
「射場山(標高690m)と愛宕山との間の谷を地獄谷と呼んでいます。
ここは数十万年前の地殻変動でできた射場山断層です。
この谷には 鳥地獄 虫地獄 炭酸地獄などがあります、射場山断層の割れ目
から、たくさんの炭酸ガスが噴き出て、虫や小鳥などが死んだところに
その名の由来があります。また、この附近に湧き出ている炭酸水は、かって
その成分がわからず、町民から毒水として恐れられていました。
この毒水の湧き出ていた血の池という炭酸泉に目をつけた三田城主の
山崎家盛は慶長2年(1597)に温泉場をつくろうとしました。
これに驚いた町民は太閤さんに直訴し、その工事をやめさせました。
家盛は激怒し当地の住民を皆殺しにすると言ったという話が残っています。
明治以降に虫や小鳥が死んだのは炭酸ガスのためとわかりました。それから
炭酸泉の堀削が行われ、噴き出た炭酸水は良質のおいしい飲料水として
評判になりました。この地獄谷を訪れ、鼓ケ滝を巡るコースは古くから湯治客の
散歩道として親しまれ、鎌倉、室町時代の五山文学の詩集などにも登場
しています。」
有馬温泉 極楽泉源
有馬温泉 炭酸泉源
念仏寺
瑞宝寺公園
有馬温泉瑞宝園での正月
神戸の観光客 2012年は最多の3,282万人に
エリア別観光入込客数
合計数が一致しない(エリア間移動のため)
1位 神戸市街地 1,245万人(うち北野79万人)
2位 須磨・舞子 410万人
3位 西北神 333万人
4位 神戸港 280万人
5位 六甲・摩耶 214万人
6位 有馬温泉 152万人
このブログではわれら神戸市の有馬温泉が初めて官兵衛紀行で紹介されたこともあり
有馬での黒田官兵衛の湯治と有馬温泉と秀吉などをメインテーマとして記事にします。
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第23回 半兵衛の遺言の基本情報
放送日:2014年6月8日
概略あらすじ:
天正7年(1579)11月有岡城から救出された官兵衛は、栗山善助たちが拠点としていた城下の
店(銀屋)で丸2日間深い眠りに落ちた。
以降織田信長への謁見、松寿丸との再会、有馬温泉での湯治、半兵衛の軍配受理、姫路城への帰還
三木城平井山本陣へ参陣、1年近くの幽閉で会得した情けを捨てる覚悟など成長した軍師官兵衛の
誕生などと続く。
一方、有岡城の攻防で尼崎城に逃亡後、行方をくらました荒木村重、天正7年(1579)
12月13日有岡城で捕らえられた122名が尼崎城外で磔(はりつけ)にされ
残った500人余りが家4軒に押し込められ焼き殺されるという前代未聞の成敗が
行われた。京都の妙顕寺に監禁されていただしをはじめ荒木の一族は京の六条河原で
処刑された。その中には妊婦や乳飲み子も含まれていた。
上の2枚の写真は有馬温泉での湯治の場面。
上の写真は黒田官兵衛が湯治した 伝 池坊左橘右衛門(いけのぼうさきつえもん)邸跡(官兵衛紀行の画面)
池坊左橘右衛門について黒田家譜などを紹介したブログを作成していますのでよかったら参照願います。
黒田官兵衛は有馬のどこで湯治したのか
同じく官兵衛紀行で7日で11回風呂に入ったとの文書が紹介されていました(上の写真)
晩年黒田官兵衛は黒田如水と号したが有馬温泉を非常に愛していたことが伺えます。
【史料名】 黒田如水書状 (慶長8年・1603)11月18日付け 黒田筑前守(長政)宛
文書全文は福岡市博物館のサイトで解説紹介されています。(下記アドレス)
http://museum.city.fukuoka.jp/blog/news/1680/
官兵衛紀行で紹介された有馬温泉に関する写真に若干のコメントを添えて記します。
有馬温泉への観光案内は有馬温泉観光協会へ
上の写真は有馬温泉郷の遠景。
上の写真はねね橋(赤い橋)を中心に撮った有馬温泉。
有馬川と滝川が合流して六甲川になる地点でもあります。
上の写真は有馬温泉の秀吉像。湯けむり広場の近くにあります。
上の写真は1995年の阪神淡路大震災で倒壊した極楽寺の庫裏の発掘調査の結果
見つかった「湯山御殿」の一部と考えられる泉源、岩風呂、蒸し風呂跡や茶の湯の
庭の遺構も見つかっています。
現在、遺構の資料も含め太閤の湯殿館に保存されています。
上の写真は有馬温泉に太閤豊臣秀吉が仮の旅館を建てた遺構で有馬の地を治めていた
有馬法印(則頼)が梅林寺として残したが有馬氏が三田に移封され九鬼氏に受け継がれ
心月院山門として残った。宝暦3年(1753)に再建された。 三田市西山に所在
上の写真は湯山御殿から出土の瓦と大阪城の瓦の比較で同じ型から製造との解説あり。
出典:神戸で秀吉と出会う 神戸市教育委員会、神戸市立博物館 (2010)Page32
上の写真は有馬温泉天神泉源。
上の写真は有馬温泉郷の湯本坂の風景。右端に赤い昔ながらのポストあり。
上の写真は江戸時代の有馬温泉の様子。
南側を一の湯、北側を二の湯として夫々に10坊づつに分けられ利用する温泉宿が定められていました。
有馬温泉紹介ブログ(小生のブログ)
行基、仁西上人、豊臣秀吉のことを有馬の三恩人という。
建久2年(1191)吉野の高原寺の僧、仁西上人は熊野権現のお告げに従い有馬温泉にやってきました。
仁西上人に連れてこられた人々(平家の残党とも言われる)に十二神将にちなんで十二坊を営ませた。
十二坊は下記のとおり。
池坊、奥の坊、角の坊(休所)、二階坊、尼崎坊、中蔵坊、兵衛(北の坊)、下大坊
中の坊、横の坊、上大坊、茅の坊
有馬温泉 温泉寺 石造五輪塔を中心として on 2012-11-13
行基の像と有馬温泉 温泉寺 on 2010-9-25
温泉寺の薬師如来は草津温泉の古刹光泉寺、と(山中温泉の薬師院温泉寺
あるいは城崎温泉の温泉寺、あるいは道後温泉の石手寺の中の一つ)
と共に日本の三大薬師の一つとされています。
有馬温泉 地獄谷 on 2010-9-25
「射場山(標高690m)と愛宕山との間の谷を地獄谷と呼んでいます。
ここは数十万年前の地殻変動でできた射場山断層です。
この谷には 鳥地獄 虫地獄 炭酸地獄などがあります、射場山断層の割れ目
から、たくさんの炭酸ガスが噴き出て、虫や小鳥などが死んだところに
その名の由来があります。また、この附近に湧き出ている炭酸水は、かって
その成分がわからず、町民から毒水として恐れられていました。
この毒水の湧き出ていた血の池という炭酸泉に目をつけた三田城主の
山崎家盛は慶長2年(1597)に温泉場をつくろうとしました。
これに驚いた町民は太閤さんに直訴し、その工事をやめさせました。
家盛は激怒し当地の住民を皆殺しにすると言ったという話が残っています。
明治以降に虫や小鳥が死んだのは炭酸ガスのためとわかりました。それから
炭酸泉の堀削が行われ、噴き出た炭酸水は良質のおいしい飲料水として
評判になりました。この地獄谷を訪れ、鼓ケ滝を巡るコースは古くから湯治客の
散歩道として親しまれ、鎌倉、室町時代の五山文学の詩集などにも登場
しています。」
有馬温泉 極楽泉源
有馬温泉 炭酸泉源
念仏寺
瑞宝寺公園
有馬温泉瑞宝園での正月
神戸の観光客 2012年は最多の3,282万人に
エリア別観光入込客数
合計数が一致しない(エリア間移動のため)
1位 神戸市街地 1,245万人(うち北野79万人)
2位 須磨・舞子 410万人
3位 西北神 333万人
4位 神戸港 280万人
5位 六甲・摩耶 214万人
6位 有馬温泉 152万人
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます