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1万分の1の地図(大正15年)に見える川崎正蔵翁の須磨別荘 on 2016-1-13

2016年01月20日 13時19分04秒 | 神戸情報
須磨離宮公園(武庫離宮跡)の周辺にはかって鈴木よね邸、岡崎藤吉邸、さらに
川崎正蔵の別荘をはじめ超有名人の別荘が多く存在していました。

大正15年(1926)6月30日に発行された国土地理院の1万分の1の地図にはっきりと
川崎邸、鈴木邸、岡崎邸の名前を確認できます。(下の3枚の写真)



拡大版はこちら






神戸市立中央図書館が発行するKOBEの本棚-神戸ふるさと文庫-第76号(平成26年
11月20日発行)において須磨のお屋敷町という表題をつけて紹介されています。

今回、川崎正蔵翁の須磨別荘(現ヨハネ修道院)というテーマで
写真を中心に紹介します。

明治21年(1888)山陽鉄道(現JR西)の兵庫~明石簡が開通にしたことから明治
末期にかけて須磨は豪商など富裕層がこぞって別荘や本邸を建設され周辺の開発
も進んでいきました。

本題の川崎正蔵の須磨別荘について簡単に説明しておきます。

川崎 正蔵 (天保7年7月10日(1836年8月10日)~大正元年(1912年)12月2日)は
薩摩出身の財界人。明治維新直後から、新政府に参画した松方正義、五大友厚ら
薩摩藩出身の政治家と深くかかわり造船業の他、海運、貿易、機械、砂糖など
多角経営の事業で成功すると、明治19年(1886)4月神戸で官営兵庫造船所の
払い下げを受け川崎造船所を設立。造船、汽車などの重機械生産で巨万の富を
得て、神戸川崎重工の基礎を築いた。


明治26年(1893)川崎正蔵は大病を患い、その翌年(1894)にも体調不調を感じた
翁は第一線からの引退を考え明治29年(1897)10月川崎造船所が株式会社になった
ことを機に顧問となり引退した。
2万株(額面50円)の大株主としてその配当で富豪の生活をエンジョイするように
なり須磨別荘地(900坪)を明治31年(1899)買い入れ明治34年(1902)までの
3年をかけて川崎正蔵好みの高床式の別荘が新築されました。


その規模は不明であるが先に示した地図は大正15年時点(1926)時点では横幅約100m
の豪邸であったことが推察されます。

三島康雄著 造船王 川崎正蔵の生涯(1993)のPage272によれば新築当時
少なくとも8室あったと掲載されています。

また、同じく上記の三島康雄著 造船王 川崎正蔵の生涯(1993)によれば
布引の本宅の他に二見ノ浦、須磨、嵯峨天龍寺、静岡県興津の別荘、高輪南町に
東京別邸の5か所を有していました。


さて、川崎正蔵翁の須磨別荘が現状(2016-1-13現在)どうなっているのか写真で
紹介します。




上の写真はカトリック聖ヨハネ病院修道会 ヨハネ修道院及び社会福祉法人 
ヨハネ会 ヨハネ寮の看板が掲げられている門と施設の遠景と近景です。


カトリック聖ヨハネ病院修道会 ヨハネ修道院の基本情報
住所:神戸市須磨区奥山畑町2 TEL:078-731-0869

公式HP:http://www.yohanekai.or.jp/





上の写真は別荘の建物跡に建てられたヨハネ修道院のメインの建物群
ヨハネ修道院は昭和37年(1962)に土地などを購入し設備を整備されていった
ようです。









上の4枚の写真は川崎邸の名残りの灯籠や庭。(他にも残っているかもしれませんが・・)


上の写真はヨハネ修道院の上方から須磨の街並みを臨む景色。


川崎邸の南側の池は皿池 この地は昭和27年~昭和30年に須磨高校
(現須磨翔風高校)の創立にあわせて埋め立てられました。
須磨高校の跡地はプレジデントヒルズ須磨離宮公園前という名前の住宅団地に
なっています。

また鈴木よね邸の南側は今池と呼ばれていた池で昭和5年~昭和10年に
埋め立てられました。





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