「いっぽ」のつぶやき

健康に福祉にボランティアにと、自分らしい人生を過ごすために、一歩ずつ歩んでいる「いっぽ」のつぶやきです。

せいしょこさん

2008-02-26 07:40:32 | 日記
先日、NHKの「その時歴史は動いた」で加藤清正が取り上げられていました。
今、熊本城は築城400年のイベントが行なわれ、西南の役で消失した本丸御殿が完成しつつあります。
熊本城を築城した加藤清正は、熊本では「せいしょこさん」と呼ばれ、今でも慕われています。
断片的には知っているつもりでしたが、番組を見て、改めてその人となりがわかりました。

1562年6月24日に尾張国で生まれ、豊臣秀吉とは血縁関係にあったそうです。3歳のころ父親がなくなり、秀吉とねねが育ての親となったのです。幼名を夜叉丸といい、9歳の頃から秀吉に仕え、元服してから加藤虎之助清正を名乗りました。

賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは「七本槍」の1人に数えられ、その後も数々の武功を立てました。

1588年、清正は佐々成政が肥後統治に失敗し、処罰された後を受けて、肥後北半国を与えられ、肥後の国に入ります。入国当時の肥後は国衆と呼ばれる土豪がひしめき、長引く戦乱で国内は荒れ果てていました。
その上、川の氾濫で毎年大きな被害を受けていて、人々は貧しい暮らしを強いられていました。

入国後、清正は治山治水、新田開発などに力を入れています。菊池川、白川、緑川、球磨川、それぞれに堤防を築いたり、堰を作ったりして、その功績は今も残っています。
実際、緑川沿いにある実家の近くには、清正が作った堤防がありますし、緑川の流れが速くて堰が作れなかったところ、夢の中に鵜が並んでいる姿が現れ、その形に堰を作ったといわれる「鵜の瀬堰」が有名です。

国衆など謀反を起こしていた人たちも処罰せず、土木事業などで働いた人には男女の区別なくきちんと賃金を与え、とても感謝されたそうです。
また南蛮貿易に乗り出すなど、積極的に領地経営を進め、国はどんどん豊かになり、結果領民からは神様のように慕われるようになりました。

朝鮮征伐では虎退治をしたことで有名ですが、これも病気の秀吉に精のつく虎の肉を食べさせたかったからのようです。

秀吉の死後起きた関ヶ原の合戦では、石田三成らに反発して東軍につき、徳川家康に見方しますが、これも豊臣秀頼を護ってもらいたい一心だったようです。
その功績により、肥後南半国も与えられ、実質ともに54万石の大大名となります。

家康が力をつけてくると、豊臣家を守るためには家康に取り入るしかない、と1611年、二条城で秀頼と徳川家康を会見させ、豊臣家の存続に成功しました。

これで豊臣家も安泰と思われたのですが、清正は二条城の会見から熊本に帰る船中で発病し、熊本城で亡くなりました。享年50歳。奇しくも生まれた日と同じ6月24日でした。豊臣家も清正の没後わずか4年で大坂夏の陣に破れてしまいます。
清正が生きていれば、家康も勝手なことはできなかったかもしれません。

今復興されている熊本城本丸には、「昭君の間」というところがありますが、これは「将軍の間」の隠語ではないかという説もあり、いざとなったらそこに秀頼をかくまうつもりだったといわれています。
実際、この部屋にたどり着くには、地下通路を使わないといけないようになっていて、抜け穴なども作られていたそうです。

肥後の国を豊かにし、豊臣家を最後まで守ろうと力を尽くしたその人柄に、改めて加藤清正のすばらしさを感じました。
そういえば、その後、長い間肥後の国を治めた細川家に関してはあまり聞きませんね。
コメント
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