ちあの散歩道

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「砦に拠る」の舞台、下筌ダムへ 

2010年06月18日 | 社会

「竜一忌」に参加するため福岡空港へ降り立った私たちは「竜一忌」の前日、レンタカーを借りて一路日田方面を目指しました。松下竜一氏の著書のひとつである「砦に拠る」の舞台となった「下筌ダム」に立ち寄るためです。

 

ダムに反対した住人たちは闘い、最後まで「蜂の巣城」にろう城した室原知幸翁のことを記した「砦に拠る」。
下筌ダム」の銘板は室原氏が書いた「下筌ダム反対」の看板文字から録られたものだそうです。「蜂の巣湖」の名前の由来も下筌ダムウイキペディアに記されています。

 


ダム建設反対の当時の人々の熱気が伝わって来るような写真が下筌ダム管理支所ロビーにたくさん展示されていました。



ダムを見降ろす小高い丘の上に整備された「蜂の巣公園」の中に建てられていた「望郷志屋校の碑」には、水没した浅瀬、芋生野、志屋、小竹の4地区の水没移転者の名前が集落ごとに4つの石に刻まれています。



ここに刻まれたおひとりおひとりの名前を追いながら、碑正面の文字盤の最後に刻まれた「湖底の故郷よ 静かに眠れ」の言葉に胸を突かれました。故郷を追われた人々の悲しみが迫り来ました。
大阿蘇探検倶楽部」の2010年6月8日のブログに詳しく記されています。

そして今も各地でダム作りの正否が問われ続けています。



アーチ形をした美しいダムの橋は中央で熊本県と大分県の県境を車のナビが案内します。

 
 

ダム湖の下流に降りてみると集落のあった兆しが各所に残っていました。
川を挟んで丁寧に積まれた石垣の多さはきっとそこに家屋が建てられていたと思われます。上右の写真はタイルの跡があり、台所かお風呂場があったところなのかも知れません。彼方の二つの山の低くなったところがダムの堰です。

 


 

私たちは神社の址を探しました。
神社はきっと集落の高台にあるはずと、護岸工事をしている人たちに尋ね、見つけることが出来ました。
神社が建っているところと集落の位置関係を見ると、河川敷になっているところに集落が集中していたことが伺えます。
今は訪れる人もいない無人となった村の朽ちて行く神社の寂しさとともに、ここに多くの村人が集っていた日々のあったことを想い、当時を重ねました。
(この神社はせめてダム管理の行政の手ででも手を入れて遺産として残して欲しいと思いました)

 

神社の片隅には真新しい碑がひっそりと佇んでいました。
「灼けて居る 湖底の村に 父の声 清子」 とありました。

それにしても運転のできない松下竜一さんはこんな不便な過疎の村にどうやって取材に通ったのかその不思議にもなぞは未だ解けません。
思いはどんな不便さや不自由さも突き破って行く強靭さを併せ持っているのでしょうか。



「砦に拠る」(河出書房新社)のあとがきの一部(415p)を引きたいと思います。

~~~結局、私が足繁く日田、小国、久留米、熊本、沖縄、東京などに関係者を訪ね廻り始めたのは、一九七五年の春頃からであったろう。なぜかこの間九ヵ月分の手帳を紛失しているので正確を期せないのだが、残されている一九七五年の手帳の記述が五月三十一日(土)から始まっていて、その日現地を訪ねたことが記されている。
五月三十一日(土)
朝10時のバスで日田へ。M君の自動車で小国へ送ってもらう。穴井隆雄氏不在でマサヲさんと話す。収穫少ない。
バスで杖立へ。中鎌手で矢幡治美氏を訪ねる。収穫乏しい。
夜となり、まっくらな道を歩いて日田へ向かう。谷底からしきりにホタルが湧く。途中、開いている店があってM君へ連絡、迎えに来てもらう。西光寺泊。
人家もまして街灯などない山間の道が漆黒の闇で、そこをひとりで歩く心細さとホタルの光の美しさはいまも印象にとどめている。数多く通った取材行の中でも、忘れ難いシーンとなっている。M君は日田市在住の知人で、車を運転できない私は誰彼を頼るしかなかったのである。~~~

何だか鞭で叩かれるほどの衝撃を受けました。携帯電話もなく、道も整備されていない時代、しかもか細くて弱い体躯の松下さん。

残されたものよ、しっかり生きろ!と強くて優しい松下さんの声が響きました。


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