ちあの散歩道

輝いてアラカンヌ☆ありがとうの言葉を添えて暮らしのドアをそっと開けると今日も豊かな感動と新しい気づきが待っています。

セラフィーヌの庭

2010年08月31日 | 映画・芝居・芸術など
岩波ホールで上映中の「セラフィーヌの庭」を観ました。

やはり岩波ホールで上映される映画は手強いなと言うのが私の率直な感想です。
貧乏な女流画家と力のある画商が出逢い、画家は不幸からの脱却でハッピィな物語へと展開していく……そんなイメージを勝手に抱いていた私。家政婦をして生活費や必要最低限な画材を買うのがやっとのセラフィーヌ。
タイトルに付けられた「庭」という言葉。広大な庭が登場するけれど、それはどちらかというとただ美しいだけの庭とは違う森のような林のようなワイルドガーデンの深い味わい、そして何より心の中に庭を持っていたセラフィーヌ。
その庭を貧しい衣装を着てはだしでどこまでも歩くセラフィーヌ。よく働くセラフィーヌ。

華奢とは真反対を行くセラフィーヌは中年のおデブさんで醜いおばさんです。そのセラフィーヌがひたすら描き続ける個性的で色彩豊かな果実や花、木。
画商によって見出されたセラフィーヌは自分の絵の評価を最初は疑いながらも画商の援助を受けるけれど、貧しさへの反逆からかまるで買い物症候群に陥ったようにモノモノを買いまくり、守護天使の声に従って絵を描き生きるという大義のもとにお金を浪費し、現実とのバランスを失い、精神病院へ収容され、死に至ります。

女ゴッホと称されるセラフィーヌ・ルイの絵が売れ始めたのはセラフィーヌ没後で、絵を描くセラフィーヌとセラフィーヌの私生活は狂気を帯びて行きます。
ひたすらに一途にということはこういうふうに世間の常識とはかけ離れ均衡な感覚を失って行くことなのかと、そんな静かだけれどヒタヒタと胸の詰まるような展開。
しかし、名画に共通するのは、2時間の上映時間が退屈と言うものからはるか離れてあっという間に終わり、淡々と脳裏に深く光を照射されたように場面場面が残り続けるということでしょうか。

主人公セラフィーヌの崩れた体躯、乱れたほつれ毛、破れた毛糸の肩掛け、そのどれをとっても演技派女優ヨランド・モローの際立った個性が発揮されています。川で水浴びをするセラフィーヌの幾重にも垂れた肉が波打つ背中。引き比べて画商ウーデの紳士的で優しい物腰。セラフィーヌの絵を理解し認めながらも恐慌に巻き込まれ画商としてままならない状況に陥ってしまうなど。
そんな中で、日常の中に潜む芸術表現とは何かなど、映画が投げかけて来るものの重層さに惹き込まれ魅入りました。
恵まれた環境で絵を描けない不条理と格闘しながら貧しくても狂っても生涯を賭して取り組めるものを持っていたセルフィーヌはやはり天才といえるのでしょう。
画面の中のセラフィーヌの絵も一度観たら忘れられぬほどのインパクトで記憶に刻み込まれました。

よい映画でした。

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8月31日の歩数 9323歩



「水道の蛇口をひねるとお湯が出る!」と話した人がいました。
この暑さで、お湯のような水が出続けています。
そんな中、歩かなければいけない状況に置かれると人はかなり歩けるものなのですね。
今日はそんな感じで得た歩数です。