緊急事態宣言を受けても、幸運な事にさして生活は変わらずにいられるような。今のところは。
マスクも金もいらんから、政府にはとにかく仕事したくてもさせてもらえない人たちを救ってほしい。
311の時も思ったけど、いかに「いつもの日常」というものが有難く、またそれがいかに脆いものの上に成立しているのかという事を痛感させられる。
アフターコロニーならぬ、アフターコロナの世界はAI化がますます進むのだろう。
職場の近くに公園とはいえないまでもちょっとした広場があり、昼食を買いに出かける際にその横を通ったが、子供たちが群がってはしゃいでいる。
今は家に籠っているのが望ましいのだろうが、子供は元気に外で遊んでいた方が頑強になるのではないかと思ってしまうのは前時代的な考え方だろうか。病は気からというけれど、ことコロナに関してはそういう精神的な作用でどうにかなるものでないか。
とはいえ、もし自分があのくらいの年頃の時に同じ状況になったとして、大人しく家に閉じこもっていられただろうか。
若い世代が出歩いているニュースを見ても、自分がこの年頃だったら・・・とつい考えてしまう。
しかしもうそんな事を言っている状況でもなく、実際に多くの人が犠牲になっている。
コロナが全ての原因であるが、それによって浮き彫りになるものもある。
無関心さ。
自分さえ凌げればと他はどうでもいい、と生活用品を買い占めるのは他人への無関心さ。
自分は若いからかかっても重症化しないと出歩き、高齢者へ感染させていくのも無関心さ。
無関心さが人を殺す。
しかしそんな偉そうなことを言っていられるのは自分自身が他に守るものも、誰かに必要とされているわけでもない、根無し草のようなものだからではないだろうか。
子供がいて、愛する人がいたら、そんなこと形振り構わず自分の家族の為に我先にと生活用品を確保するのではないか?
さんざん自分だって無関心に生きてきたくせに、今さらええかっこしい事を言うなと自我が責める。
人生に対して もっと大きい信頼を寄せているなら、
おまえたちはこれほど瞬間に身を委ねる事もないだろうに
ニーチェ