goo blog サービス終了のお知らせ 

M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

「チェルト君のひとりごと」は電子ブックへ移りましたhttp://forkn.jp/book/4496

会社の昼食でワインを飲む

2018-05-06 | エッセイ


 先日、珍しくNHKのTVを見ていたら、「福沢諭吉は、ビールは酒ではない」と言っていたとの話が出た。フッとそれで思い出したことを書いてみる。

 あれは僕が30歳の時、イタリア・ミラノに駐在したときのことだ。初めての外国だったから、いろいろ、新しいことに出会って面食らったことがたくさんある。

 ミラノのオフイスが手狭になって、僕の担当部署だった製品開発製造の仕事は、ミラノから北東に20キロくらいのヴィメルカーテという郊外に新築されたサイトに移転した。僕は、ミラノのガロファロ通りのマンションから、車で通勤していた。



<ミラノ・ヴィーメルカーテ>

 驚いたのは、昼食のカフェテリアで、ワインの小瓶を出していたことだ。みんな平然として、会社のカフェテリアでワインボトルを開けて飲んでいた。ちょっと日本では考えられない光景だった。そのうち、それがイタリア流だと知って、僕も小瓶一本を飲むようになった。中には、豪快に2本以上飲んでいる人たちもいた。午後3時くらいまで、赤い顔をして仕事をしているのを見かけた。でも、それは普通だった。



 子供の頃から、家庭でワインを水で薄めて飲んで育ったわけだから、彼らにしては、当たり前だったのだ。それに、イタリアの聖餐は昼食という伝統があったから、みんなしっかり食べていた。日本のように、ラーメンとかうどん一杯で終わりとはいかない。例えば、プリモはパスタ。メインはビステッカ(牛ステーキ)、ホウレンソウのバター炒め添え。サラダやフルーツ、チーズもちゃんと取る食事だったから、ミネラルウオーターだけではもったいないと、ワインは必要だった。



<ドイツ・ジンデルフインゲン>

 ドイツでは、ワインの変わりはビールだ。やはり、スュトゥッガルトの南西18キロくらいにあるジンデルフィンゲンでも、昼間、カフェテリアでビールを出していた。大体、彼らは朝6:30くらいから働き始めるから、朝食の小休憩があった。さすがに、朝は飲んではいないけれど、昼飯にはビールをでかいグラスで、深沢諭吉の言ではないが、水のように飲み干していた。あっけにとられた。同じドイツのマインツの事業所でも、同じ光景が見られた。あまり赤い顔をした人は見たことがない。彼らは大体4時半に仕事を終える。



<ドイツのビール>

 イギリス。ロンドンから南西100キロくらいにあるハンプシャー州ハバントでは、カフェテリアにはビールは置いていなかったが、食事が終わると近くのパブに出かけて、みんなビールを飲んでいた。もう、不思議な感じはなくなっていた。



<イギリス・ハバント>


 フランスでは、言うまでもなくワインだ。南仏モンペリエでは、カフェテリアでワインを飲んでいた。ワインの無い食事は、彼らには考えられない。逆に言えば、ワインと、パンとチーズがあれば、もう立派な食事だと言えるのだ。会社にいるとはいえ、ワインなしの食事はとらない。そのころから、ラングドック・ルッションで、うまいワインが作られ始めたから、それを逃すはずもない。



<南仏・モンペリエ>

 同じく、コートダジュールのニースの近くにあったラ・ゴードでも、ワイン付きの食事を終えて、研究所長をはじめ、お偉いさんも一緒になってペタングをやって楽しんでいる昼休みが思い出される。



<パリ、ラ・デファンス>

 パリのラ・デファンスのヨーロッパ・ヘッドコーターでも、カフェテリアでワインは自由だった。かなりのフランス人が飲んでいた。僕は、ここでは遠慮しておいた。ここに来たのは、EMEA(ヨーロッパ・ミドルイースト・アフリカ)の一週間ほどの会議があって、慣れないフランス語なまりの英語での会議に参加するためだった。で、酔った状況では、会議についていけないなと自戒したからだ。しかし一度、会議の無い日、EMEA本社ビルから、みんなとIBMフランスのカフェテリアに空中歩道を渡って行ったことがある。さすがフランス。ワインの種類も選べて、僕もワインを飲んだ覚えがある。



 アメリカでは、たくさんのサイトを訪れたが、もちろんワインどころか、ビールにすらお目にかかったことはない。やはりピューリタンの国なのだ。オーストラリアでも、昼に飲んだ記憶はない。

 日本においては、昼飯にアルコールが許されるなんてことはない。大和研究所のカフェテリアが最先端のデザインでも、ビールもワインも出なかった。

 逆に、昼飯のビールを羨ましいと思った思い出は結構ある。

 あれは、藤沢のアプリケーションをやっていたころのことだ。土日、休日にはカフェテリアは当然閉まっている。仕方がないので、湘南台駅近くの中華料理屋から出前を大量に、カットオーバーに参加したグループの分を取ったことがある。でも、餃子は、べったりとなり、タンメンは伸びに伸び切ってしまったまずいものだった経験がある。

 仕方がないので、数台の車に分乗して、最寄り駅の中華屋さんに昼飯に出かけるのが常だった。そこで目にしたものは、同じ部の顔見知りが、餃子とビールをうまそうに飲んでいるのに出くわした。気持ちでは咎めそうになったけれど、待てよと考えたら、コンピューターのオペレータの部下たちが、夜勤明けに緊張から解放されて、ビールを飲んでいたのだ。この時ほど、昼間のビールと餃子に惹かれたことはない。

 やはり福沢諭吉は間違っていた。日本では、残念ながらビールは酒なのだ。


室生寺行きのアリバイ

2018-04-22 | エッセイ


 H大学時代、同じ学校の女の子とは部活以外での付き合いは全くなかった。つまり、恋人のような人はいなかった。

 クラブの中に活発で、理知的で、はきはきものを言う女の子が一人いた。Iさんと言っておこう。部室は今のH大とは似ても似つかぬ、どす黒いコンクリートの打ちっぱなしで奇妙な6角形をした物の地下にあった。



 <六角校舎>

 なんだか会話の中で、室生寺に行ってみたいと彼女が言った。僕は大阪市大に一年半ほどいたから、けっこう奈良や斑鳩の寺を歩いていた。その中には、室生寺もあった。知ってるよ、ちょっと行きにくいけど歩いたよという話をした。すると、連れてってということになった。

 僕は構わないと思ったけれど、ちょっと、二人だけで奈良まで、泊りがけで旅をするのは、まずいかもと僕は思った。Iさんは部活の中では、さっぱりした、目の涼しい女の子で、男子学生の注目を集めていた存在だということは、僕も感づいていた。二人で奈良まで旅をしたなんて話になるのは、やはりまずい。

 そこで、二人ではないというアリバイ作りが始まった。

 僕は大阪の音大に行っている高校の後輩の女の子に、室生を友達と歩くから一緒に来ないかと誘った。柔らかい関西弁で、かまへんよと、応じてくれた。Iさんの方も東京の友達に、室生に行こうと誘ってOKをもらったようだ。これで、二人だけの怪しまれそうな旅のイメージは吹っ切れると思った。



 <アリバイ作りの4人>

 奈良駅で待ち合わせたら、大阪の子も2人で来ていた。もう一人は僕の全く知らない女の子だ。東京からIさんと一緒に来た子も僕は知らない子だった。結局、5人での室生行となった。男は僕一人。女の子たちは打ち解けるのが早い。たちまち、4人でしゃべり始めていていた。

 室生大野口からバスに乗って深い偏狭な谷の道を行くと、門前の太鼓橋を渡れば、女人高野と言われる室生寺だ。変わらぬ静かな、佇まいだ。


 
 <室生寺の坂>

 僕が寺を訪ねるのは、大体は仏を見ることに目的があるのだが、室生は、そういう意味では僕の期待には応えてはくれない。運慶の木彫りが数体あるだけで、木彫の持つ優しいまなざしには会えないからだ。室生のいい所は、村と、建物と、林と、苔と、石段と静けさだろう。特に、金堂を目指して鎧坂を登るとき、室生に来たなと感じるのが、苔むした石段とそれを取り巻く木々だ。この石段は本当に美しい。

 今回、写真で見ると、台風で壊れて再建された五重塔はそれなりに美しいが、新しすぎる。周りの林の風景から、饒舌に飛び出してくる。昔の周りに溶け込んだ古い五重塔の方がいい。

 室生の本当の売りは、五重塔からの高い、細い、奥の院への石段だ。高い杉に囲まれれた深い森にいる自分を発見する。一歩一歩、石段を踏みしめながら、頭上にのぞく奥の院の舞台造りの位牌堂を目指す。僕たちを取り巻くものは、みどり色と、杉の、香りだ。

 五人もいても、息が切れて言葉は出ない。自分だけの思いを感じながら、登っていく。



 <奥の院への登り> 

 下りは楽に見えるが、今度は疲れた膝が笑う。途中の階段に座り込んで、風の音を聞いている。やはり、この階段が、室生の最大の魅力だ。



 <話し込んでる二人>

 帰りに西ノ京によって、唐招提寺をみんなで歩いた。でも、みんなが一緒な空間ではなくて、いつか、二組の女の子たちは、二手に分かれて静かに言葉を交わしていた。一人の僕は、自分の時間を過ごしていた。この寺は、何度来たかわからないが、天平の大屋根の豊かさに安らぎを感じる空間だ。



 <大阪のアリバイ、二人>

 アリバイ作りは功を奏して、部活の連中には分からなかったらしい。つまらぬ噂に
巻き込まれることもなく大学を卒業した。この旅は、二人の内緒のままだった。

 それから40年後、クラブの40周年記念の会合がボワソナードタワーで開かれた。親しい友人と、懐かしい先輩に会えると思って出席した。そこにIさんが出席していて、懐かしい再会になった。苗字は知らない苗字になっていたが、はっきりした物言いも、チャーミングな笑いも消えていなかった。少し太っていた。室生は楽しかったねと、周りを気にしながら僕が囁いたら、元気な声で、そう、すばらしかったわねと大きな声で答えが戻ってきた。でも、周りはわからない会話だった。



 <クラブの40周年記念>
 
 その後、風の便りで、Iさんが病気で亡くなったと聞いた。ちょっと残念だった。

 この話は、親しい友達にもしていない。このエッセイが初のお披露目となるが、彼らはどんな反応をするだろうか。楽しみでもある。

 僕の心臓君が文句を言うから、もう石段は禁物。二度と室生寺へは行くことはできないだろう。残ったものと言えば、確実に室生を愛する女性が4人増えたということだ。


そうだ、スキーに乗ってたんだ

2018-04-08 | エッセイ


 先日、白根山のスキー場近くで起きた水蒸気爆発のニュースを聞いた時、ああ、横手の近くだなあと思った。そうだ、僕も横手で滑ったことがあったんだと思い出した。

 志賀高原は、僕が初めてスキーを履いたところ。大学時代はバイトが忙しく、スキーをやる余裕なんて全くなかった。しかし、先日亡くなった、バイト先の石川さんに、志賀高原に女の子たちも一緒にスキーに行くから、来るかと誘われた。もう就職も決まっていて、時間は取れた。行ってみようと決めた。

 僕がスキーは初めてだと聞いて、2日ほど前に志賀高原で、スキーの練習をするのはどうかと、勧めてくれた。それが丸池スキー場だった。



 志賀高原に行くと、いつも方向感覚が変になる。普通,奥…なんて聞くと、さらに北だと思うのが普通だろう。しかし、志賀高原はトリッキーで、いちばん奥の横手山が地図で見ると一番南なのだ。湯田中からグルグル上っていくうちに、方向感覚が逆になるようだ。



<丸池>

 丸池での初練習は散々だった。今は短いスキーを履いているようだけれど、その頃は、175cmの僕は、2m以上の板を履いていた。それが、その頃は普通だった。別に板のせいにしたいわけではないが、とにかく曲がること以前に、止まることが出来なかった。

 結果、蓮池での女の子たちと一緒の日々は、散々だった。



<横手山頂>

 石川さんは、その翌日、僕をリフトに乗せて、熊の湯から横手山頂まで連れて行った。そこは完全な上級者コースだった。横手は、日本で一番高いスキースタートポイント(2000m越え)だったから、ボーゲンができるかできないかの僕にとっては、とんでもないチャレンジだった。リフトを降りると、そこは林の中の狭い坂道。右側の林の谷に落ちないようにと、怖くて重心を後ろに置くから、スキーは自然とスピードを上げる。3日程しかスキーを履いたことのなかった僕には、コントローはできない。

 ちょっと広いところに出たとき、油断したのか、転倒した。その時、ビンディングが外れて、スキーの片方が滑り落ちていった。スキーが流れた~との僕の悲鳴に、石川さんは、急斜面を僕のスキーを追っかけてくれた。幸い、他の人にぶつかったりしないで、石川さんが拾ってくれた。よかった~と本当に感謝した。



<石の湯>

 その後は、スキーを上手くなろうと、会社の契約施設だった志賀高原・石の湯に通い始めた。ここは、初心者には最適だった。まず、混まないし、緩斜面。どちらかというと、マイナーなスキー場だった。何度、幾冬、お世話になっただろうか、覚えていない。今回、調べてみたら、もう石の湯のゲレンデは無くなっていた。集客競争に負けたのだろう。

 ボーゲンができるようになって、高天ヶ原から、ゴンドラに乗って、発哺の谷を渡って一ノ瀬スキー場に滑りに行った覚えがある。ゲレンデだけだはなく、平らな林間コースの楽しさは、ここで覚えた。ストックで漕いで、スケーティングしながら、平らなところを滑ってみるのは楽しかった。

 菅平まで、会社の友達とスキースクールに、出かけた覚えがある。二人で競ってみたが、シュテム・クリスチャニアができるようにはなったが、パラレルはまだだった。でも、僕にとってスキーは、十分楽しいものになった。



<赤倉>

 会社の契約施設があった赤倉にも、何度か訪れた。ここには、忘れられない記憶がある。僕の左のすねには、今も切り傷の跡がある。何回目かの赤倉で、着いたその日に、僕はスノーボートに乗せられて麓まで運ばれた時の傷だ。斜滑降でゲレンデを横切っているところに、その日、初めてスキーを履いた男の人が直滑降で飛び込んだのだ。僕は避けきれず、脛がざっくり切れて出血した。スノーボートに乗ることになった。

 そのゲレンデでシーズン中に開けていた簡易診療所で、何針か縫ってもらった。不思議な縁で、そこの医者たちは、僕が中退した大阪市大の医学部の連中だった。その頃はもう東京にいたから、赤倉で市大の連中に助けてもらうなんて、妙なめぐり合わせだった。仕方なく着いたその日に、僕は電車に乗って新宿に帰ってきた。これは、悔しい思い出だ。脛は肉が薄く、縫ってもらった傷口は口を開けたまま治癒した。だから、今も脛に傷もつ身だ。

 あと記憶があるのは、群馬県の片品村の武尊のゲレンデで、二回ほど滑ったことがある。寒いスキーだったと記憶している。何故、沼田からバスに乗るような、不便なゲレンデまで行ったのかは思い出せない。誰かに、誘われたのだろう。

 結婚して、子供たちと行ったのが、軽井沢プリンスと万座だったと明確な記憶にある。

 スキーをやっていて一番よかったと思ったことは、僕がミラノに駐在していた時に、日本からスキー狂の友達に、どうしてもスイス・サンモリッツにスキーに連れて行けと脅迫された時だ。サンモリッツの一番高い、3千m越えのピッツネールの山頂から、サンモリッツの町まで、四苦八苦しながらダウンヒルコースに付き合うことが出来た。



<ピッツネールの出発点:アイスバーンを斜滑降で横切る>

 慣れない、ロープトーに何度も足を取られながら、5時間位かけて登っては下りる5キロほどのコースを滑り降りることが出来た。シュテムの斜滑降で、ツルツルのアイスバーンのアルプスを滑り終えたのだから、とてもいい思い出になっている。シュテムさま、さまだ。


乃木坂・新美術館 

2018-03-25 | エッセイ


乃木坂の国立新美術館は、これで三度目。東大生産技術研究所跡地に、2006年に完成した黒川紀章の最後の作品だ。

美術館に行くのには、三つほど理由がある。まずは見たい展覧会。二番目には、顔を出しておかなくてはならない展覧会。そして、その美術館そのものに惹かれてぶらりと出かけてみる、の三つの動機だ。

今回の新美術館行きは、この三つがすべて重なった珍しいケースだった。



<ビュールレコレクション>

まずはスイスの個人収集家、ビュールレのコレクション、「至上の印象派展」をみる。日本初公開の印象派の絵が多数あるので、前から行くと決めていた。ただし、5月7日までやっているから、急ぐ必要はないと思っていたが、先日、親父のお弟子さんから電話があって、3月5日まで、親父が育てたグループ展を新国立でやっていると聞いた。長く、見ていなかから、顔を出すことにした。

ビュールレ展については、個人のコレクションだから、そのコレクターの意図が、強く出る。それが受け入れられるか否かによって、印象が変わってくる。今回の展覧会は、64点の作品を陳列したものだった。

個人のコレクションだから、その家に伝わる人たちの肖像画がズラリと、第一室で観客を出迎える。中には、ドガとかルノワールの筆になるものもあったが、ほとんど遠くから眺めて、素通りに近い。次のヨーロッパの都市の部屋も、個人的には魅力はなくて、ざっと見まわし、僕のアンテナにひっかかったものだけを見る。モネもあったが、ちょろりと見ただけで通り過ぎた。19世紀のフランス絵画という部屋は、クールベ、コロー、マネなどの作品があったが、5分間の滞在でおわり。

その後に期待をかけていた、印象派の絵たちが続いた。

第4室は、マネとモネの作品の前で足を止めた。モネのジベルニーの庭は美しかった。第5室は、ドガとルノワール。ルノワールの本邦初公開の可愛いイレーヌのふさふさした髪は美しかった。第6室と第7室は、それぞれセザンヌとゴッホ。セザンヌは好きだけれど、今回の作品の中には、見るものは一点しかなかった。ゴッホは、もともとあまり好きではないので、部屋も真ん中に立って、ぐるりと見まわして終わりだ。



<ジベルニーの庭>



<ルノワールとセザンヌ>

第9室は、後期印象派の画ということで、ピカソ、ゴーギャン、ボナールなどの絵が並んでいる。ここでも彼らは、僕には訴えかけてこなかった。

この展覧会で、一番良かったのは、第10室のクロードモネの「睡蓮の池、緑の反映」の大作だった。日本では初公開だとか。



<モネ>

モネは、僕の大好きな作家のひとりで、パリのオランジュリー、マルモッタン美術館、ニューヨークのMoMAなどでたくさん見ているが、今回の絵は色鮮やかで、自己を没入して眺めていることが出来た。そして、予想しなかった収穫は、日本では初めて写真撮影が許されていたことだ。つまり、マチエールを詳細に眺めることが出来、自分の写角でカメラに収めることが出来た。こうでなくっちゃと感動した。

だいたい、日本の美術館ではフラッシュ無しでも、撮影禁止となっているところがほとんどだが、このモネの大作は可能だった。素人が写真を撮っても、ビジネスにつかえるほどのものではないのだから、ヨーロッパ並みに自由にしてほしいものだが。



<新構造東京展>

親父のお弟子さんたちがやっていたのは、上野の都美術館で毎年、公募展をやっている新構造社という美術団体の一部が、ここ5年ほど国立でやっている構造社東京展というグループ展だった。

本当は落(らく)の5日に行く予定だったが、大雨の予報が出たので、急遽3月4日に繰り上げたから、絵は見たが、お弟子さんたちの顔を見ることはできなかった。それでも、記憶の残っている名前の下に、どこか親父の絵を思い出させる要素があって、懐かしい気持ちになる。

日本の公募展は、どこでもそうだが、まるでヤクザの団体のように見える。親父がくたばった時、その20名ぐらいのグループの頭をだれにするかで議論になった。僕にもお声がかかったが、絵を描かない頭は…ということで、自分たちで決めてもらった。同じ仲間の中から、親父の後継者は決まった。よかった。きいてみると、跡目相続の問題は、東京谷中だけの問題ではなく、親父が開拓した、広島、長野のグループでも大変だったようだ。特に、他の団体から、まとめて面倒見るから、こちらに移って来ないかと声がかかったようだ。頭の下にお弟子さんが10人いれば、月々の指導料として10人分の金になる。まして本展に出品するとなったら、特別な指導料が入ってくるし、いい稼ぎにもなるのだ。つまりヤクザの島のようなものなのだ。



<オープンテラス>

新国立の薄い水色の貝殻のイメージのカーブは大好きだ。豊かな気持ちになれる。残念ながら、緑は未だで、枯れ木の中のテラスではちょっと寂しい。五月にでもなれば、緑が濃く、木造の広テラスも美しいだろう。

新国立で残念なのは、昼飯を気楽に食べられるところがないことだ。3階のポールボキューズでは、ランチで2、200円~とある。2階に降りて、サロンド テ ロンドでもムース、アイスクリーク乗せで1,400円ときた。地下のカフェテリアには庶民的な食べ物がありそうだけれど、こんなところでわざわざ地下には潜りたくはない。結局、オープンテラスで、サンドイッチとコーヒーということになる。

横浜への帰りは、乃木坂から原宿、品川経由で半日の旅を楽しんだ。やはり、外に出かけるというのは楽しいことだ。

P.S.
2018年の新構造の本展は、上野の都美術館で6月23日~30日に開催される。




新しい試みとその顛末記

2018-03-11 | エッセイ



 ネットで、講座を聞いたり、解説を読んだりして勉強しているが、やはり物足りない。

 そこで、外の新しい知識を得ようと、この数年、横浜の各大学の公開講座、授業をチェックしていたのだが、これという講座には出会わなかった。見ていたのは、横浜市大、横国大、神大、関東学院だった。やっと、昨年(2017年)の秋、おもしろそうな公開講座を見つけた。それが、建築、環境学部教授、黒田先生の「イタリア都市紀行」だった。



 <学院パンフレット>

 10月初めから、7回にわたって、今年(2018年)の1月までのコースだった。ローマ時代からあるエミリア街道に沿って、主として、エミリヤ・ロマーニャ州の7つの都市を、起源から説き起こし、都市の歴史、街並み、建物、歴史を解説して、その町を深く知るための講座だった。

 学生証に代わる公開講座受講者証を作ってもらって、楽しみに出かけた。まあ50年以上昔の大学の雰囲気を味わいたかったし、教室のベンチに座ってみたいという素朴な欲望もあった。さらには、次のイタリアへの旅の計画の参考にもしたいと考えていた。



 <キャンパス風景>

 講義の内容としては、自分の好みが入り、すべての都市が面白いわけではなかった。僕にとっては、フェラーラ、モデナ、マントヴァ、そして最後のパルマが興味の街だった。

 講義はプロジェクターを使って、うす暗い中で、先生のレーザーポインターを追いながら、もらった資料に目を通し、メモを取っていくという形になった。しかも、僕たちの教室は立派で、スクリーンに向かって、階段状に椅子が横に並び、受講者の視線が交わることはない構造だった。みんなが一点を見つめて、講義を聞くことになった。これでは、受講者同志は、無関係の関係。



 <講義風景>

 お互いの笑みだったり、顔に浮かんだ疑問符だったり、ウンウンといった頷きだとか、えぇ~という驚きだとか、面白いなぁという感情だとか、お互いにこうしたしぐさを知ることは出来なかった。つまり、その世界を共有することが全くできなかったのだ。

 勿論、講義の内容は面白かった。イタリアは150年前まで、統一された国ではなく、各都市が自分を独立国家のようにふるまい、文化も、派閥も、各々みんな違ったようだ。ローマ教皇派(キリスト教)と、ドイツ皇帝派がこのエミリア・ロマーニャ地方で覇権争いをしていて、各都市が独自に自分の属する派を決め、それに従って都市設計も、建物の作り方も、違ってくるなんてことは全く知らなかった。

 リミニ、ラヴェンナ、フェラーラ、ボローニャと、1都、1講座で講義は進んだ。



 <フェラーラの古地図>



 <フェラーラの写真>

 4回ほど、講義を受けたときに、こんなことを感じた。

  ・先生からの一方通行で、質問の時間がほとんどない
  ・受講者同士の横のつながりが全くない
  ・現役の学生も含めて、自己紹介もない
  ・したい質問もたまって、欲求不満を感じる

 そこで事務局に、先生を囲んでの「質問しよう会(仮称)」でも開いたらいかがでしょうかと、申し入れた。僕には、もう一つの期待があった。それはできれば新しい友達を作りたいということだった。年を取ると、友達は減っていく。天国に召されたり、音信不通になったりと、減る一方だ。できれば、グループを作って、同じ興味を持った人と一緒に語り合えたらいいなあという、希望さえ膨らんでいた。



 <マントヴァの古地図>



 <マントヴァの写真>

 事務局は僕の提案を受けて、積極的に動いてくれた。先生からOKを得て、学生食堂に僕たちの席を確保してくれ、職員の同席も手配してくれた。何か僕がやらなくてはと思っていたのだが、結果としては事務局が主催者になってくれて、「先生を囲んでの食事会」というメモを作成し、6回目の講義の開始時に全受講者に配布して説明し、講義後、出欠を各自に自由に決めてもらい、それを集計するということをやってくれた。結果は、40名中、15名くらいの参加が確認できたようだ。提案者の僕は、一安心。

 先生を囲む会は、最終の7回目の講義、パルマの後の時間に予定された。もちろん、僕も参加すると、記入した。

 僕は準備として、6回の講義資料を読み直し、僕自身が聞きたいことをまとめてみた。質問をするための先生を囲む会なのに、質問が出なければ、まずいと、質問をまとめてメモに残した。たとえば、「エミリア・ロマーニャ州というのは、一言でいうと、イタリアではどういう位置づけの州なのか」とか、「ポルティコという建築様式は、なぜエミリア・ロマーニャで流行ったのか」とか、5個ぐらいのオープン・クエッションを作って、楽しみにしていた。



 <パルマの写真>

 最後の7回目は、友人だったオルネッラさんの出身地、パルマ。生ハム、パルミジャーノ・レッジャーノ(固いパルメザンチーズ)、バルサミコ酢などの産地で、7回の講義の中で、一番期待していた講義だった。

 しかし前日、僕は風邪をひいて熱を出し、咳も激しかったので、仕方なく事務局に電話して、言い出しっぺが申し訳ないが欠席しますと伝えた。残念無念。

 後で事務局に連絡したら、他にも風邪での欠席が出たようだけれど、12人くらいが、先生を囲む食事会を、満足し楽しんだと聞いた。よかった。

 しかし、僕は質問も、新しい友達もできなかった。僕は舌打ちをしながら、自分自身につぶやいた、「なんてこった」と。

 春に新しい講座が開かれたら、参加して、先生と出席者たちと、事務局に謝らなければと思っている。



 P.S.

 マントヴァの写真は、BMK さんのマントヴァをお借りしました。
 クレジットは、Creative Commons 2.0です。

 パルマの写真は、Carlo Ferrari さんの パルマ をお借りしました。
 クレジットは、Creative Commons 3.0 です。