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M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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ボロボロのスケッチブック

2018-07-15 | エッセイ



 僕の親父は洋画家だった。太平洋戦争前には、都内のキリスト教会を描いて「教会の徳山」と呼ばれたという逸話がある。僕もそうした絵を探してみた。しかし、残っているのは、霊南坂教会(1935年)の写真と、テモテ教会(1934年)の実物だけだった。確かに、いい絵だと思う。



 <霊南坂教会>



 <テモテ教会>

 3月10日の東京大空襲で親父の谷中のアトリエは燃え落ちた。仕方なく、親父の血統の人たちが住んでいる鳥取との県境にある岡山の山奥で疎開生活を始めた。仕事の無い夫婦、子供3人、祖母の6人の一家は、赤貧の生活だった。

 僕も、ちいさいころから親父の絵を見ながら育ったらしく、幼稚園の頃、一人で朝早く起きて水彩絵具で山を描いてきた。僕は、親父に褒めて貰いたかったのだと思う。しかし、親父はその絵を僕が描いたとは認めなかった。僕は悔しいから、同じ構図で、同じところで、同じ山をもう一度描いてきて親父に見せた。親父はやっとその絵を僕が描いたものだと認めた。しかし、それ以降、僕は絵を描くのやめた。それが親父との、決定的な確執の始まりだった。

 僕が絵を描き始めたのは、大学に入ってからの事だ。初恋の人が女子美で洋画を勉強していて、その人との同棲生活の影響を受けて描き始めたのだ。絵の基本でもあるデッサンも勉強せず、好き勝手にエイヤっと描き飛ばしたものだった。

 手元に残るボロボロのスケッチブックを開いてみると、いくつかのことがよくわかる。

   ・人物は全く描けない
   ・色を使ったものは、塗りすぎてまずいものが多い
   ・色があっても、さっと描いているものは、まだ良さそうだ
   ・動物の絵を結構、描いている
   ・風景のスケッチは、まあ見てもらえるかもしれない

 ということだ。

 そこで見返した絵のいくつかを紹介しようと思う。僕自身の歴史でもある。お見せできるのは、風景と動物のスケッチだ。しかも色無しのものばかりだ。


 大阪の天保山に、すぐ上の姉がお袋と住んでいたから、倉庫と、貨車、船のマストに魅せられて描いた。




 <港>


 中野の三味線橋に、奇妙な3人(僕、女子美生、武蔵美生)の同棲生活をしていたことがある。神田川に流れ込む桃園川のすぐ側で、後になって南こうせつが作った「神田川」の歌詞、そのままの生活を暮らしたことがある。絵の真ん中に、二人で通った銭湯が見える。透視画法を勉強していたようだ。



 <窓からの風景>


 友達の誘いで、千葉の木下(きおろし)を訪れたことがある。土手と林の中の民家を描いている。民家は自分でも好きな方の絵だ。



 <土手>



 <林の中の民家>


 初恋の女子美生と別れて、一人で生まれた谷中に暮らしていた時期がある。その頃は、まだ不忍通りを都電が走っていた。それに乗り、上野動物園に出かけていた。動物の中でも、バイソンが気に入ったらしく、たくさん描いている。他の動物の絵は全くない。犬好きだった僕は、バイソンに動物の温かい体温を感じていたのかもしれない。



 <立っているバイソン:茶色のコンテ>



 <うずくまったバイソン>



 <バイソン>


 僕は、山歩きが好きで、アルバイト先の女性たちと三浦半島の最高峰、大楠山(241m)を按針塚から歩いて山頂へ、そして、大好きな海、荒崎まで足を延ばしたことがあった。安針塚からの大楠山は、好きな絵の一枚だ。



 <安針塚からの大楠山>



 <大楠山近景>



 <夕暮れの荒崎>


 バイト先が日比谷公園に近い所に代わって、昼休みにスケッチをしていた。今は見ることもなくなったアドバルーンが建物の上に見える。警視庁の前に小さな交番があった。調べてみると、今も健在のようだ。



 <日比谷・堀>



 <小さな交番>

 もう皆様に見ていただくに値する絵はない。I社に入社してからは、忙しくてスケッチブックを持ち出すことはなかった。イタリアでも、フランスでも、イギリスでも、すべて安直にカメラで撮っていた。



 <使いかけの当時のクレパス>

 今手元に残っているのは、ボロボロのスケッチブック3冊と、使いかけのペンテルのクレパスぐらいだ。

 こう見てみると、根っこには僕も風景画が好きだったのかもしれないと、フッと親父を思い出す。


泥んこのぬいぐるみたち

2018-07-01 | エッセイ


 なぜ、子供たちはみんな、動物のぬいぐるみが好きなのだろうか。



 <泥んこのテディベア>

 最近は、メディアを騒がすことが少なくなったが、中東からヨーロッパへの避難民の子供たちが残していったぬいぐるみの絵をたくさん見た。

 マケドニアの国境の子供たちは、泥んこになったテディベアと遊んでいる。このぬいぐるみも、何百キロも、子供たちに運ばれてきたものに違いない。避難民シェルターの生活の中でも、ぬいぐるみに触れていると、たとえ泥んこになっても顔は笑っている。厳しい境遇にもかかわらず、彼らはみんな笑顔だ。これは、このぬいぐるみの持つ力によるものに相違ない。



 <マケドニア国境のぬいぐるみ>

 この子供たちはどこへ行ってしまったのだろう…と思う絵も見た。おびただしい数の泥んこのぬいぐるみが、子供たちの手を離れて、置き去りにされている。過酷な家族での逃避行の中で、大人たちに邪魔だから置いて行けと命令されたのかもしれない。置いてきぼりにされた、ぬいぐるみたちも、悲しそうだ。持ち主の子供たちはどうしているだろう。立て掛けてあるのが、子供たちのぬいぐるみへの気持ちを現わしているのかもしれない。懐かしいぬいぐるみたちの姿だ。



 <残されたぬいぐるみたち>

 このおっきいの熊は、置いて行けと言われたに違いないと、容易に想像がつく。親も、子供も、そしてぬいぐるみも、みんなつらい思いだったろうと思う。このぬいぐるみがそんな物語を僕たちに伝えてくる。子供はつらくて泣いていただろうと思いが飛ぶ。



 <一人ぼっちのぬいぐるみ>

 発達心理学に、骨組みは同じ鉄製でも、はだかのままのミルクのサーバーと、やわらかい布地で骨格が覆われたミルクサーバーの、どちらに動物が近寄るかという有名な実験がある。動物実験でも、柔らかい布に覆われたミルクサーバーに動物は向かうというのが結論だ。

 スヌーピーの仲間のライナスが、ボロボロになったタオルを年中離さないのは、同じ行動で、「移行対象物」:Transitional Object とよばれ、「子供から大人へ」の移行期に現れる現象だそうだ。だから、みんな、子供は、汚い毛布の端切れをも大切にするのだろう。



 <子ザルの実験>

 これは、人間に限ったことではなく、他の動物にも見られるようで、いたるところに、ぬいぐるみを大切にしているワンやニャンを見ることが出来る。



 <忘れられたワン: Forgotten Dogs of 5th Ward Projectから>

 このワンは、自分も家族から見捨てられたようで、大切にしているパンダのぬいぐるみを抱いて、淋しさと戦っているのだろう。

 ワンニャンだけではない。想像もしなかったが、カンガルーだって、ぬいぐるみは大好きだ。この仔は、大きなテディベアももらって、愛しんでいるようだ。誰にもあげないという意志が見える。



 <カンガルーとぬいぐるみ>

 個人的な経験を話すと、5年前に3.11で甚大な被害を受けた宮城県石巻を訪れた。医師や看護師さんたちが命を張って、避難民を助けて有名になった旧石巻市立病院跡を訪れた。その頃には、病院の建物はもう壊されていて、かさ上げのダンプの行きかう殺伐とした、かっての住居地跡を見ているとき、小さな泥水の水たまりを見つけた。

 そしてそこに、震災から5年たったまま、水に浮いているテディベアの姿を見つけた。5年間、持ち主の子供のもとに引き取られなかったとすれば、ショッキングな話だが、持ち主の安否が気にかかる。横浜に帰って宮城の地元の新聞社に電話して、いきさつを話し、テディベアの写真を送った。もとの持ち主に戻ればいいと思ったわけだ。



 <石巻の水たまりに浮かぶテディベア>

 結果は無駄だったようだ。

 あるマンションのベランダに、洗濯され、干されているテディベアを見つけた。何か、ホッとしたあたたかさが満ちてきた。幸せなテディベアも、ちゃんと存在するのだと、心が和んだ映像だった。




悔しくて、悔しくて

2018-06-17 | エッセイ

 ことしの春は、悔しいことがいっぱい起きている。悔しくて、悔しくて仕方が無い。時間とチャンスは取り戻せないからだ、一度失うと。

 4月の初め、両足の人差し指、中指、そして薬指の3本が痺れて、冷たくなって、しかも痛みだした。歩くことも簡単ではない。掴まり立ちで、やっと移動できるという感じだ。そして、その指の冷たさが、脛に、腿にまで這いあがってくる。耐えられない感じだ。整形外科、かかりつけの心臓の専門医、血管外科、心療内科とみてもらったが、原因不明。痛いから、夜も寝むれなくて不眠が続く。

 最大の悔しさは、この10年ほど欠かさずに見てきた、初恋の女性画家(モダンアート会員)の今年の絵を見られなかったことだ。抽象的な中にも具象が潜んでいて、それを推測して意味付けることが僕の楽しみだった。しかし、上野の都美術館まで出かけることはできなかった。後で、HPに掲載された写真を見て楽しむしかない。今年はかなり色調が変わったようだ。実際に見ていないから、確証は持てない。悔しい。

 
 
 <SIさんの今年の絵>

 そのため、この都美術館からの流れで、必ず立ち寄っていた浅草の40年も通っている飲み屋さんにも、行くこともができなかった。女将さんは元気だろうかと、気になっている。



 さらに、9年間連続で見続けてきた、年一度の「イタリア映画祭」に出かけられなかった。毎年、東京と大阪で一度だけ開かれる、日本未公開のイタリア映画の秀作を見るチャンス。この映画祭は2001年から続き、何度か心臓君のせいで見られないことはあったが、今回は、全くの突然のとん挫だった。



 <イタリア映画祭2018>

 映画祭は、年一回の催しだから、毎年張り切っている僕。4月~5月連休の期間だから、タイミングを逃すと、マリオン・朝日ホールの良い席が取れない。だから、3月になると、イタリア文化センターのHPを覗く日が続く。開催のニュースが流れると、映画祭のHPの開設を、今か今かと待つ。チケットの情報が出て来たら、早速手配だ。

 HPが出たら、どの映画を見るかを決める。この数年、コメディーを選んで観てきている。楽しいし、平易なイタリア語の生活会話であれば、僕のイタリア語の勉強にもなる。



 <環状線の上の猫のように>

 今年は喜劇で、おもしろそうな「Come un gatto in tangenziale = 環状線の上の猫のように」を選んだ。

 従来は、ティケットぴあが担当していたが、昨年からセブンイレブンの扱いになっている。そこで、5月2日の映画のティケットを、3月29日には手に入れた。僕より気の早い人がいるらしく、必ずしも一番いいF列の席は取れなかったけれど、楽しみにしていた。

 過去のイタリア映画祭で見たものは、僕のHPの大切な1カテゴリーとしてまとめてある。HPから、「イタリア映画の残照」というカテゴリーだ。今年も、その続きを書く予定でもあった。

 しかし足がしびれて、有楽町まで、出かけられそうにもない。仕方なく、ティケットは、パ~となった。悔しいったらない。生のイタリア語を、楽しみながら聴けるのに、と悔しい。感想を自分のブログにあげることもできない。



 <手元に残った未使用のティケット>

 HPの梗概によると、2017年のコメディーの傑作とある。EUの高級役人のジョバンニと、娘13歳のアグネス。そしてローマの下級社会に住む、アグネスのボーイフレンド、アレッシオとその母、モニカの描き出す喜劇のようだ。若い二人は別れたらしいが、ジョバンニとモニカが、ドラマの中心になっていくらしい。


 <梗概>

 イタリアのYouTubeを探しても、断片的なお情報だけだ。この二家族のコントラストが、話を面白くしているようだが、全体像はわからない。結局、僕に残ったものは、HPの写真と梗概と、未使用のティケットだけとなった。

 この映画祭の楽しみは、マリオンだけにあるのではなく、映画を見た後の銀座を歩くことにもあるのだ。



 <鴨せいろ○○○>

 まず○○○で、裏メニューの卵焼きで一杯飲んで、うまい鴨せいろを楽しんで、昼飯が終わる。



 <ギャラリー為永>

 久しぶりの銀座だから、ギャラリー為永には必ず寄ることにしている。ここは、売り絵の専門画廊だから、金の無い僕には、画廊サイドは興味はない。僕はすばらしい絵をタダで見させてもらって、楽しんでいる。この二つの楽しみも、今年は守ることが出来なかった。悔しい。

 さらに悔しいのは、何時なくなるかわからない有楽町のガード下のもつ焼き屋で、レモンハイで、お新香とタンとハツの塩焼きを食うことがかなわなかったことだ。やはり悔しいの四乗分の悔しさだった。



 <ガード下の持つ焼き>

 足は依然として、治らない。漢方薬を飲んで、足の冷えを抑えている毎日だ。悔しい。

 P.S.
 鴨せいろの店と、モツ焼きの店の写真は、昨年撮ったものです。


久しぶりに五島の庭を歩く

2018-06-03 | エッセイ

 上野毛の五島美術館に、3月、足を運んでみた。企画展、「中国の陶磁器」展を見るためだ。



<展覧会のポスター>

 働いていたころも、横浜から第三京浜で20分だから、ふらりと出かけた場所でもある。もっと古くは僕が大学時代、自由が丘に住んでいたから、大井線で上野毛まですぐそばでもあったから、けっこうな回数を重ねている。

 五島美術館は、何しろ地形がいい。東急の祖、五島慶太が愛した多摩川を見渡せる崖の斜面を利用して作られている。館蔵品のすばらしさと、庭が劣らずすばらしい。もちろん、企画展も楽しみにしている。

 今回も、第三京浜経由でアクセスは簡単。五島美術館の長い改修工事後では、今度で二度目になる。

 率直に言って、「中国の陶磁器」は、僕はあまり好きではない。やはり、朝鮮のものが心に響く。じっと見つめていても、飽きがこない。

 まだ日本では、朝鮮磁器が一般的にハイライトを浴びる前の1980年代の初めに、韓国の利川(イチョン)を友達と訪れたことがある。印象的だったのは、その陶土の作り方と、職人さんの手間だ。出来上がった陶土を触ってみると、その滑らかさに驚き、ろくろから立ち上がる粘土の壺を魂を込めて仕上げていく職人さんのその姿、そして登り窯での大変な焼き作業を目にしていたからかもしれない。



<利川の白磁>

 朝鮮のデリケートな、優美さに比べると、どうも中国の陶磁器は、武骨で力任せに見えて仕方がない。日本人に訴えかけるデリカシーが不足していると感じるのだ。

 今回の中国陶器展にも、僕の好みの作品はほとんどなく、50点くらいの展示品の中で、南宋時代の「青磁鳳凰耳瓶」龍泉窯が、唯一の僕を引き留めた作品だった。

 この展覧会はこんなものかと感じた時は、さっと太陽の下に出ることにしている。五島翁の愛した庭への道だ。

 春がいいと言われているが、雪景色も素敵だった記憶がある。美術館を出て芝生に降りれば、そこは五島慶太の描いた庭が広がっている。見下ろすと崖の下に、黒い山門の姿を見ることが出来る。


 

 <春山荘門>

 心臓君の機嫌が悪くなってから、標高差35m位の崖を降りて、また昇ってくるのは苦痛になってしまった。仕方なく、平面な庭の上部を歩くことになる。しかし、それだけでも十分に楽しめるのがうれしい。



 <庭園案内図>

 多摩川の河岸段丘の上だから、古代の人たちも居を構えたに違いない。その証拠に、庭園の中に、稲荷丸古墳が残っている。古代人たちも、広やかな多摩川を見下ろしながら、丹沢から富士山を見ていたのだろうと想像する。その頃は、もっと豊かな時間が流れていたに違いない。少なくとも、大井町線と二子玉からの騒音はきこえてはこなかったはずだ。近くに立ち上がった高層マンション群もなく、広やかな場所だったに違いない。



 <稲荷丸古墳>

 崖の下に行くことはできないので、富士山の見える見晴台あたりを散策するにとどめた。



 <木蓮の花>

 しかし、こぶしの花が咲き、初めて意識してみたミツマタの花も、素朴な花として、慰めてくれた。



 <ミツマタの花>

 残念だったのは、下の庭の六地蔵を見ることが出来なかったことだ。ここは、それこそ崖を降りて、35mをまた昇ってくるしかない。あきらめた。



 <六地蔵>

 帰りは、紀伊国屋に寄りパンを買い、いつもの蕎麦屋で 鴨せいろ を楽しんで、横浜に戻ってきた。懐かしい思いの時間だった。

久しぶりの野毛山

2018-05-20 | エッセイ


 本当に久しぶりに、野毛山動物園に行ってみた。半日ほどの暇な時間が出来たからだ。冬には家に閉じ込められていたから、無性に出かけてみたいのだ。



 この前、野毛山に行ったのは、ちびたちと一緒だったから、40年くらいも前のことだ。その頃は、横浜の動物園と言えば、野毛山だった。ズーラシアや金沢動物公園などはずっと後になってできた動物園だったからだ。ズーラシアには、野毛山から動物が引っ越したとの記憶がある。

 野毛山での出来事は、僕ははっきり覚えている。ちびたちが覚えてかどいるかは訊いてみないと分らない。記憶、印象の中のどこかに、ひっかてっているだろう。

 その頃の野毛山のチンパンジーの檻は、山の中腹にあった。見る人は、道を登って、檻に近づく位置関係にあった。檻に近づいてみると、看板が立っていた。「サルがウンチを投げることもあるので、ご注意ください」とあった。

 頂上まで上がって、キリンを見た。キリンの檻は、僕たちと同じ高さの地面から上に高く伸びたものだった。だから、僕たちは、キリンを下から見上げる位置関係にあった。キリンに食べ物を上げることが出来たので、何かを差し出した。すると、上の方から、長い舌を出して、食べ物を巻き取って行った。その時、キリンの舌はこんなに長いのだと、驚いた記憶がある。さらに、キリンのよだれが、上から降ってきた。慌てて逃げたと覚えている。僕が下のちびは抱いて、慌てて逃げた。

 一番のお気に入りは、レッサーパンダだ。茶色のフワフワした毛の尻尾と、顔がかわいらしい。みんなでじっと見入っていた。僕は、今でもそうだけれど、ジャイアントパンダより、レッサーパンダの方が可愛いと思っている。上野に子供を連れてパンダを見に行ったのも覚えている。たった15秒間のご対面だった。それが原因ではないけれど、レッサーパンダが好きだ。それはちょうど、僕がコアラより、ウオンバットの方が気に入っているのと同じことだ。

 キリンとレッサーパンダを見て楽しんで、みんなで、帰りの坂を降っていた。すると、チンパンジーの檻の当たりが騒がしい。近づいてみると、みんながワーッと言いながら、檻から逃げていた。僕たちも檻から離れて、逃げた。確かに、彼のウンチが、檻越しに飛んできていた。危険だった。彼が、自分で僕たちにぶつけるために投げていたのだ。匂いと、剣幕に追われて逃げ下った。確かに看板に偽りはなく、危険だった。

 今回行ってみると、キリンの檻は、観客が見下ろすようにできていて、頭の上から、よだれが落ちてくるようなことは無いように設計されていた。僕も、恐れることなく、近づいてシャッターを切ることが出来た。優しい顔をしているなと、イメージが変わった。





 チンパンジーの檻は、観客から遠く離して作られていた。しかも、細かい檻が内側に、外側には普通の檻と、二重になっていて、簡単にうんちが飛んでくることの無いように考えられていた。被害者は、無くなっただろうと、思った。



 僕は心臓君の問題があるので、広くもない園内をすべて周ることはせず、今回は、キリンと、レッサーパンダに時間をかけた。



 レッサーパンダは、本当に可愛い。一頭は、小屋の中から顔を出し、僕たちを見つめていた。もう一頭は檻の周りの小道を、飽きることなく回ったり、逆回りをしたりしていた。仕草は可愛い。撫でてみたいと思ったけれど、それはかなわなかった。見飽きることはなく、かなりの時間、パンダ舎の前に僕はいた。





 今、野毛山動物園の入場料は無料だ。パンダ舎の側に募金箱があったので、500円玉をチャリンと落としておいた。もっとわかりやすい募金箱を造ったら、もっと寄付が集まるのにな…と思った。

 僕は今回、レッサーパンダと、キリンと、シマウマと、チンパンジーだけを見て、出てきた。約2時間位の短い滞在だったが、十分に楽しめた。身近にある動物園は、とてもいい。アクセスがバスだけというのは、ちょっと…だが、小さい子供たちの動物との最初の出会いとしては、十分楽しめる動物との触れ合いの場だ。頑張ってほしい。





P.S.
1.ウオンバットは、前には金沢動物公園にいたのですが、今は天国だそうです。聞いてみると、関東地方にはウオンバットはいないようです。金沢が最後のウオンバットだったわけだ。残念。
2.レッサーパンダは、ズーラアシアにもいるようです。