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M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

「チェルト君のひとりごと」は電子ブックへ移りましたhttp://forkn.jp/book/4496

イタリアで学んだ三番の世界 #2

2018-02-25 | エッセイ




 仙台でのイタリア語ボランティア

 僕の心臓君の問題は、無医村に近い伊豆高原では対応がつかなくなって、急遽、最先端の医療を求めて、東北大学病院のある仙台市に移ることになった。仙台でもイタリア語を生かしたボランティアがしたいと、仙台市の国際交流ネットワークに参加した。



 <仙台ボランティアID>

 主な活動は二つだった。

 仙台の宮城教育大学には、イタリア・ペルージア大学と定期的な交流があった。早速、大学に市瀬先生を訪ねてボランティアで出来ることはないかとお尋ねした。すると、ペルージア大学との間に短期交換留学制度があって、毎年8月の末からクリスマスまで4~5名の学生が仙台に滞在するという。この学生たちのホームステイなどに参加していただけたら…という提案をもらった。早速その年の秋、その中の一人の面倒を見ることが決まった。それがラウラという、頭の切れが良く、目の美しい、優しいピエモンテ出身のお嬢さんだった。



 <ラウラ>

 イタリアからの学生たち、オーストラリアからの留学生、イタリア・スローフード関連の人たち、仙台でイタリア語を勉強している人たちなどを招いて、マンションのバンケット・ルームで、僕はパーティを開いた。20名強の人が集まって、賑やかなパーティになった。みんなの持ち寄りの料理が並び、差し入れのワインの瓶が林立し、楽しい会になった。特に人気があったのは、僕の膝に抱かれている、ミニチュア・シュナウザーのチェルト君だった。彼は、このパーティの立派なホストだった。



 <パーティ>

 もう一つの活動は、仙台市のIVネットワークが主宰するイタリア関連の行事に参加することだった。イタリア語を勉強する日本人の市民にイタリア語を教えるクラスを開いているイタリア人のサポートだった。伊東でのイタリア語クラスのサポートがそのまま、役に立った。完全な通訳とはいかないけれど、イタリア人と日本人の間に立つことが出来た。

 仙台国際センターでペルージア大学からの留学生が開いたイタリア料理教室にも合流し、本物のイタリア人によるイタリア料理の紹介もでき、たくさんの市民に喜んでもらった。さらには東北大の国際交流クラブに友達ができ、そのイベントなんかにも参加出来て、たくさんの異民族たちの人と交流の楽しい時間を過ごすことも出来た。



 <イタリア料理教室>

 一番深い付き合いになったのは、イタリア・パルマから来たオルネッラさんとの親交だった。彼女は、ネットワークのイタリア語講座の先生だった。仙台国際交流センターで、女性を中心に月に二回の講座を開いていた。初めてのイタリア語の人もいて、日本語とイタリア語の構造的な大きなギャップに困っていた人たちへのサポートをかってでた。もちろん僕も、イタリア語に触れる機会が増えて楽しかった。



 <オルネッラさんの送別会>

 イギリス人のご主人が、東北大から京都大学へ転勤することになって、一家は仙台を離れて京都に移った。その後、京都からの足取りが分らなくなって、音信不通になってしまった。とても残念だ。パルマの名前が出ると、必ず、彼女の事を思いだしてしまう。

 その後は、僕の心臓君の機嫌が悪くなって、ボランティア活動を積極的に行うことはできなくなってしまった。でも、僕の中では、僕がミラノの冬の霧の中で温かくしてもらった時の一万分の一でも、お返しが出来ていたらな…と思っている。

 ボランティアは当事者、双方に何か形にならないものを残してくれる。自分の世界を広げてくれる楽しみがあるからだろう。こうした機会を持てたことに感謝している。
 
 横浜に帰ってからも、この種のボランティアを探しているのだが、なかなか見つからない。通訳の仕事だとか、イベントのアテンダントとかの型通りのものだけで、みんなで一緒になって何かやり遂げるといったより深い相互交流のものを探しているのだが残念、見つからない。

 横浜でもイタリア語か英語関連のボランティア活動を見つけるつもりで、アンテナを高く張っているつもりだが、なかなか。心臓君のご機嫌を伺いながらの活動になるけど、何かあったら、ご一報ください。お願いします。


イタリアで学んだ第三の世界 #1

2018-02-11 | エッセイ



 29歳で初めて赴任した僕は、ミラノで当時としては珍しい日本人だった。イタリア語はほとんど話せない僕に、土地の人はとても優しくしてくれた。マンションの管理人、お医者さん、トラトッリアのカメリエーレ(給仕)、床やさん、イタリア語の先生、会社の友達たち、町で出会った数知れない人たちなどにお世話になった。こうした人たちの優しさが、ミラノに対する好印象を僕に与えた。



 <第三の世界>

 彼らの生活をよく見てみると、仕事と家庭の他に、何か三番目の世界を持っていた。たとえば、会社ではコンピュータの組み立てをしているブルーカラーの人が、イタリア・カヌー全国協会の理事だったりして、そのギャップにビックリ。会社での自分より、地域社会における自分の方が、数段、皆に必要とされ尊敬されているわけだ。もちろん、彼も人生を楽しんでいる。

 こんな世界を、ワルツの世界と僕は例えている。日本人はどちらかというと、オイッチニ、オイッチニの二拍子(仕事⇔家庭)の世界だけれど、彼らはワルツの三拍子の世界に住んでいると感じたわけだ。

 日本人は、男はがむしゃらに仕事中心の世界にドップリ。でも退職すると何もやることがなくて、カミさんに邪魔にされるってことも…。僕の年上の部下の人にも、そんな例がいくつかあった。彼らは二拍子の一拍を失ったら、動けないのだ。三拍子のワルツなら一つを失っても、まだ二つの世界があるから自分の世界が開けるのだが…。

 僕がSEという仕事の他に、何かやろうと始めたのがTA(交流分析)の研究だった。それは単なる学びではなくて、自分自身をよりよく知り、他の人との交流の質を上げるためでもあった。おかげで、僕の交流の世界は広がった。さらには、TAがセカンドライフの僕の仕事になっていった。つまりカウンセラーという仕事の糸口は、この第三の世界から始まったわけだ。

 SEの仕事を早期退職、カウンセラーを始めた。すると、もう一つの世界がやはり欲しくなった。それが、ボランティアの世界だった。英語とイタリア語を使ったボランティアがやりたかったのだ。僕が昔ミラノで受けたイタリア人からの好意に対するお返しにでも…、と思ったからでもあった。積極的に語学関係のボランティア活動を探した。それが僕の次の第三の世界になっていった。

 ちなみに、ボランティア活動とは、ボランティア白書に次のように定義されている。

「個人が自発的に決意・選択し、人間の持っている潜在的能力や日常生活の質を高め、人間相互の連帯感を高める活動」

 伊東市とイタリア・リエティ市との交流 ボランティア1

 僕がオーストラリア移住を健康問題であきらめた時、横浜から移り住んだのが伊豆高原だった。伊東市とイタリアのリエティ市が、国際交流をしているのを僕は知った。イタリアとの交流に何かにお役にたてたら、僕がミラノで受けた恩義にわずかでもお返しが…と思ったからだ。もちろん僕自身も楽しみながら。



 <リエティの樽乗りと伊東のたらい乗り:そっくりな競技>

 ローマが州都のラッチオ州リエティ市(ローマから北東へ80㎞の町)では、昔からワイン樽を半分に切ったものに若者が乗り込み、年一度、地区対抗競争をしていたそうだ。リエティ市が偶然、伊東の「たらい乗り」を知り、そこで交流が始まったと聞く。

 僕は交流協会の会員になって、この交流に参加した。リエティ市との間では、密な関係が出来ていた。毎年の高校生による相互訪問や、リエティからの短期留学生による伊東市民を対象とするイタリア語講座の開催とか、リエティ市から寄贈されたモニュメントの設置イベントなど、さまざまだった。

 僕は、リエティからの学生がやるイタリア語講座のサポートに時間を使った。ひと夏、4週間くらいのイタリア語クラスの補助をやるのだ。イタリア語が初めての市民の方々に、全く日本語とは違うイタリア語の構造的な特質を日本語で解説し、イタリア語で質問できない事を、日本語で説明してあげるとかの役割だ。僕のイタリア語の勉強にも勿論なった。



 <イタリア年>

 2001年は「日本におけるイタリア年」だった。リエティからボランティアの6名がやって来て、オリーブオイルを絞る大きな石臼を記念碑として伊東に設置、寄贈した。この6週間の間のイタリア語によるサポートは、大きな出来事だった。



 <石臼>

 完成式典には、イタリア大使も出席され、リエティの市長をはじめ、多くのイタリア人が伊東市民に暖たかく迎えられ、巨大な石臼が伊東市の「リエティ広場」に出現した。この石臼の据え付け作業をしたチームの中に、今は亡くなったフルヴィオがいた。彼は金属加工の専門家で、ローマ・ポポロ広場に立つサンタ・マリア・デル・ポポロ教会の丸屋根の修復工事に参加した経験を持っていた。1099年頃の教会の屋根だった鉛の素材と、それを止めていた釘を、記念に僕にプレゼントしてくれた。重かったろうに。



 <屋根の鉛の板と釘>

 その2に続く

心のお袋、ミュリエルを亡くした

2018-01-28 | エッセイ

 僕の心のお袋、ミュリエル・ジェイムス博士を100歳で亡くした。この1月10日(2018年)のことだ。サンフランシスコに住む、TA(Transactional Analysis)の仲間、R子さんからのメールで知った。



 <故 Dr. ミュリエル・ジェイムス:99歳の頃>

 もう十年以上前から、ミュリエルは一人住まいだった。夫を亡くし、息子に先立たれ、恋人を亡くし、サンフランシスコ近郊のウォールナット・クリークの高級アパートで、介護付きの生活をしていた。遅かれ早かれ、いつか訃報が届くだろうと、心の準備はできていた。

 2011年の1月の手紙が、ミュリエルからの最後の便りになった。その後も、4年前までは、僕と電話で話し、僕のクリスマスカードを喜んでいてくれたのだが、その後、急速の衰えたようで、電話にもまともな応答はできなくなっていた。

 僕にも実の親父とお袋がいた。お袋は僕が小学3年の時、家を出て土佐の実家に帰って、僕の側にはいなかった。親父からは、高校入学と同時に独立した。中学までは義務教育だが、「そのあとは自分でやれ」といわれた。寝るところと食事は知人に頼んで与えてくれたが、彼は新しい妻と暮らし始めていた。その後、いろんな人の力を借りながら、独力で大学を卒業し、就職してIBMに入社した。

 これで身についたのは、「何でも、一人で、独力で頑張る」というパターンだった。一人で仕事ができる間は、問題なく順調に仕事をこなしていた。しかし、大きなプロジェクトを任された30歳過ぎからは、部下をうまくまとめられず、部下の8割からは、もう二度と僕とは仕事はしたくないという、ショッキングな評価が示された。IBMは日本ではほかに例を見ない不思議な会社で、課長以上の勤務評価は、ボスのみならず部下も評価し、それが本人にもフィードバックされる仕組みだった。

 強引に自分一人で計画を立て、部下にやらせるという仕事の進めかたは行きづまった。



 <心の親父、故 岡野先生>

 会社の管理者教育で知り合った故岡野先生に出会ったのが、僕の救いだった。渋谷の小さな研究所を訪れたのが切掛けで、先生に僕の行動をグループワークの中で客観的に見てもらい、他からどう見られているか、どう受け取られているかをフィードバックしてもらった。そんなコーチングを2年弱、続けた。同時に先生のTA研究会に入り、TAの基本を勉強し、自分の心の動きと、客観的に見える姿とのギャップを知ることを続けた。結果、先生は、僕に僕自身を発見させてくれた。彼が、僕の心の親父だった。

 岡野先生に、IBMをやめて先生のTA研究所に弟子入りしたいと申し込んだのが、僕が50歳。セカンドライフでやりたい仕事だと考えていたのだ。しかし、先生には断られた。個人の持つ経験などからできあがるカリスマ性は外からは教えられるものではないとの理由だった。確かに、属人性の資質は簡単には身につかない。

 そして岡野先生が、僕に勧めてくれたのがミュリエル博士のTAワークショップへの出席だった。それは、ミュリエルが毎年夏に開いていたカリフォルニア・タホ湖でのフィールドワークを含めたワークショップだった。



 <ミュリエルと僕>

TA(交流分析)の生みの親であるエリック・バーンの直弟子となるミュリエルの1991年のワークショップには、世界中から人種、性、国籍、言葉、宗教、職業、年齢、肌の色、そして金持ちだとか貧乏だとかの属性の違う人々が、20名くらい集まった。本当にインターナショナルなグループだった。参加者の目標も、バラバラ。TAをより深く研究するとか、TAを自己体験するとか、今持っている問題からの解放だったり、精神的な健康を取り戻すためとか、いろいろだった。



 <タホ湖とコンドウ>



 <ネブラスカのジュディー>

 ワークショップは、1テーマ、1週間のコンドミニアムでの合宿で行われた。僕は3週間いたから、3つのグループに入って合宿を体験した。一つのコンドウに、ミュリエルが選んだ5~6人が24時間、共に過ごすことになる。一日ぐらいだったら、自分を繕い、演技することも出来るが、1週間、24時間は全く無理。自ずと、自分をさらけ出すことになる。つまり、地でいくことが要求されるし、人間関係も濃密になる。



 <TAのセッション>

 ミュリエルのワークショップで学んだことは、たくさんあるが、僕自身の発見につながったフィールドワークは、タホ湖に隣接する2千m越えのシェラネヴァタ山脈の原始林で行われたフィールドワークでのことだった。

 僕の心の奥底にひっそり隠れていた淋しさを、僕は発見したのだ。

 シェラネヴァダの人気の無い原始林で、2時間ほど心を空にして一人で歩き回って過ごす。森を吹き抜ける風とその風音に身を任せ、心を空っぽにする。そしてその後、急に心を意識の世界に向ける。すると最初に目に飛び込んできたものが、僕の心で気になっているものだという。僕の心に最初に飛び込んできたものは、林の中の開けたところにあった木の切り株だった。



 <切り株:アンナ>

 その切り株は、飼っていたが、なかなか面倒を見られないでいたシュナウザー犬のアンナの姿、そのものだった。ぽつねんとうずくまっている寂しげな犬の姿を見た。それが、僕の心の奥に隠れていた心のさみしさだと、ミュリエルは解釈してくれた。まさに、かまってほしいという心を抑えて、座り込んで手が伸びて来るのを待つ犬の姿だった。

 このフィールドワークでの発見を、みんなの前で説明しているとき、目から大粒の涙がボロボロこぼれてきて、いつか僕は、大声を出して泣いていた。それを、みんなが優しい感情で見守っていてくれた。皆からのフィードバックという慰めを受けて、淋しさを表に出すことは許されるのだと、僕は確信した瞬間だった。それは、小さな子供の心が、50年も、心の底にため込んでいた感情だった。

 ミュリエルに教わったことは、自分として、自由に行動できるということだった。そして、それはほかの人に受け入れてもらえるのだから、自分の地のまま、素直に生きるということだった。感謝だった。彼女は僕に、フリー・チャイルド(無垢な子供の心理状態)で生きろと、別れ際に本にサインしてくれた。



 <代表作の本とサイン>

 これがミュリエルを、僕の心のお袋と呼ぶようになった理由だ。

 この経験がもとで、IBMを早期退職して始めた「人の性格とコミュニケーション・カウンセラー」の仕事を、セカンドライフの仕事に、僕は選んでいた。


 昨日、去年12月にミュリエルに送った、最後となったXmasカードについて、ミュリエルの友達の公認会計士・サリーさんから、ミュリエルは体調が悪いから返事は出せないでいるのよ、という手紙がきた。それには、ミュリエルがまだこの世に生きていた1月5日のオークランドの消印があった。

 なんだか、天国に召されたミュリエルが、カードに返事をくれたように感じた。ありがとう、ミュリエル。

 これで、実の両親を亡くし、さらに心の親父とお袋を亡くして、一人で自分を生きることになった。もう相談相手は、この世にはいない。


久しぶりの九品仏

2018-01-14 | エッセイ

 僕は大学3年から自由が丘に住み、卒業、就職してI社の大田区千鳥町事業所にもここから通ったから、通算6年ほどを自由が丘に住んでいたことになる。自由が丘といっても東急大井町線の南側、今は九品仏川緑道に成っているあたりに住んでいたから、正確には世田谷区奥沢町だった。



 <九品仏空撮:Google>

 九品仏は自由が丘から一駅だから、結構出かけていた。今回調べたら、九品仏浄真寺も奥沢7丁目で、僕の住んでいた5丁目からはすぐそばだった。

 僕は東京の谷中の生まれだから、谷中界隈の小さな寺や、格式ばった寛永寺に足を運んでスケッチなどをしていたから、少しは知っている。しかし、寛永寺は別にして、寺としての広がりや豊かさを感じさせてはくれない、チマチマした寺が多かった。ほかの東京の寺を歩いた記憶もあるが、確かに池上本門寺や芝の増上寺は境内も広く、チマチマしてはいなかったが、九品仏の伸びやかさにはかなわない。

 鎌倉にまで足を延ばしても、やはり、僕の大好きな奈良・西ノ京の修復前の薬師寺(今の西塔も立てた金ぴかの寺は嫌いだ)や、唐招提寺、西大寺の秋篠寺、斑鳩の中宮寺、法輪寺、法起寺、奈良の興福寺などに感じる、ゆったりとした感じの寺はない。そういう意味では、九品仏はゆったり感と静寂のある広がりがある。

 その後、僕は横浜・戸塚に家を立てて引っ越したが、姉が九品仏に住んでいたから、第三京浜を使うと30分だったから、アクセスは良く、結構九品仏には通ったことになる。



 <山門>

 残念ながらその後、九品仏は物騒になったことがあった。今から10年ほど前には、寺と右翼がらみの団体との間にトラブルが発生し、殺人事件など発展した結果、「浄真寺事件」なんて呼ばれることもあって、イメージを決定的に落とした。僕の足も、ここから遠のいていた。まぁ、今は、昔に戻っているようだ。

 久しぶりに、今年の紅葉を見たいと思って寺に電話したら、11月末が緑と黄いろと鮮やかな赤の混じり具合がベストだと聞いた。そこで、久しぶりに九品仏に行ってみた。



 <色>

 仏教では、一般的に「上品(じょうばん)」、「下品(げぼん)」と読むが、これは極楽浄土に往生を願う民衆を、能力や資質によって上・中・下の「三品」に分け、「上品」は最上、「下品」は最下位になるという。僕たちが日常使っているこの二つを、「じょうひん」と「げひん」と発音して使っている言葉だ。



 <縁起>

 有料で購入した寺の縁起を読んでみると、観無量寿経、つまり浄土宗の経典に
9種に分けられた往生の仕方で、人の階位を九品(くほん)と呼んでいるようだ。

 上品>中品>下品の階位があって、上品が最高位、下品が最下位とある。上記階位の中をさらに三つに分け、上生>中生>下生(しょう)の、合計9階位に分けている。



 <九品仏>

  ・中品下生:普通人の立派な人
  ・下品上生:悪行を重ねて懺悔することはないが 結果としては罪が消える
  ・下品中生:悪いことをして、地獄の猛火に責められる 慈悲で救われる

 僕はと見れば、いいとこ、下品上生か下品中生あたりに合致するに違いない。仏さまも、厳しく、往生時の救いを定義したものだと驚いた。

 今回、真ん中の上品からその右側に立つ中品、そして左端に立つ下品の三つのお堂を周って、修理に出ている2体を除いて七体の仏を見てきた。仏としては、あまり気に入ったものはなかったが、こうした階級があるけれど、阿弥陀仏を唱えれば凡夫も往生できると知って安心した。



 <上品>

 ちょうど、銀杏の時期の始まりの季節で、少し銀杏の実は落ちていた。あまり気をつけないで敷石を歩いていたら、知らずに踏んづけたらしい。それに気が付いたのは、境内を散策し終わって、車に乗り込んで車を走らせ始めた時だった。あの銀杏の強烈な臭い匂いが靴についていて、それが車中に広がった。慌てて九品仏商店街のはずれで、車を止めて、落ちていた木の枝で靴底の銀杏の皮をこそげ落とした。100%落ちたかは確かではない。

 久しぶりの九品仏。雰囲気は良くなっていた。お会いした僧も真摯な方で、好感が持てた。保育園の子供たちと学校の生徒たちの団体に巻き込まれなければ、もう少し静寂感を味わうことが出来ただろう。でも、いい散策だった。



 <蕎麦屋>

 帰りには、懐かしい目黒通りの蕎麦屋で、好物の鴨せいろを食べ、蕎麦湯を飲んで〆た。まあ値段もリーズナブルな蕎麦だったと思う。

 帰りは第三京を100キロ近くですっ飛ばし、日常、短距離をゆっくりしか走っていない車に鞭を入れて帰ってきた。すばらしい紅葉と、散策だった。


母方のルーツ調べ

2017-12-31 | エッセイ

 
 あなたは、あなたのお袋のルーツを知っていますか?

 いきさつ

 父方、徳山姓の600年に亘る長いルーツが確認できたとき、フッと思ったのは母方のルーツについて、僕はほとんど知らないなということだった。子供たちは母方のルーツを知ることはなく、彼らの子供たちに語ることもできないなと気がついた。

 母の実家、竹崎家は、德山家が中国山脈のど真ん中に発したのに対し、真逆の土佐の太平洋沿いの奈半利だとは知っていた。

 自由が丘に母方のいとこが住んでいるので、昔やった「いとこ会」をもう一度やってみたいねと話したのが2014年の1月。元々この会は、半血兄弟の姉、故京子が、東京いる母方のいとこたちを集めて何度か開いてくれたのが始まりだった。



 <40年前のいとこ会>

 2014年5月、竹崎のいとこたち、6名が自由が丘の和子ちゃんの家に集まった。旦那や子供たちも連れてきたから、10名の大宴会に。

ルーツ探し

 この時、僕は竹崎のルーツについて、みんなが知っていることを書き出してもらった。すると、僕の祖父、竹﨑音吉の二代前、300年前の初代竹﨑覚右衛門まで遡ることが出来た。この時、僕は和子ちゃんに竹崎家のルーツを書物して残したらどうかと提案した。6代目当主の邦博さんと相談してみるとのことだった。

 僕は、もらった資料を調べてみると、覚右衛門の子の三代目当主、才吉が事業を起こし、樟脳の生産と酒の蔵元で財を成し、奈半利の名士になったと知った。さらにその子、四代目の竹崎音吉が、竹崎家の名声の基礎を確実にした人物らしいと知った。僕にとっては祖父の音吉が、自分の長女、嘉與を僕の親父、德山巍に東京・浅草で嫁がせた人物であることが分かった。



 <竹崎音吉と寺田寅彦>

 竹崎音吉は、作家の寺田寅彦の高知中学、熊本第五高等学校(今の熊本大学)、そして東京帝国大学の同級生だった。寅彦と一緒に、五校で夏目漱石に英語を習ったと、文献「藪柑子集の研究」(高知市民図書館発行)に書かれている。音吉は東京帝国大学を卒業し、高等文官試験にパスして大蔵省に入り、外局だった専売公社でキャリアを積んだとある。超エリートの道を歩んだわけだ。



 <祖父、音吉の礼装>

 5代目、達雄(叔父)

 音吉の一人息子、僕の叔父にあたる竹﨑達雄は破天荒な人だったようで、昭和の初めの法政大学(偶然、僕の出身校)の学生の頃から、モダンな生き方をしていたようだ。1933年(昭和8年)には、法政の飛行部に入って、複葉機で東京上空を飛んでいる。


 <法政飛行部・羽田上空>


 <機上の達雄>

 達雄は大学を卒業して土佐に帰っても、進取の気性は衰えなかったようだ。家を継いだ1935年(昭和10年)頃、奈半利や室戸あたりで自動車を運転していたようだ。80年も前にマイカーだ。ぶったまげる。さらに、田舎町に映画館を建て、ガソリンスタンドを作ったりしたので、財産はどんどん減ったようだ。



 <オートバイ・カメラ>


 <自動車>

まとめてみると

 いとこ会には、達雄の5人の子供たちのうちの2人と、達雄の妹、寿子の子供3人も来ていた。つまり、竹﨑系のいとこ5人と、僕の6人のいとこが集まったわけだ。今の奈半利の竹崎家は、僕も会ったことのある、同い年の6代目、竹崎邦博さんが「高田屋」の屋号を守っている。



 <高田屋>

 竹崎家の歴史を見てみると、いくつかおもしろいことが見えてきた。

 ・女系家族だということ 
      :音吉の子、母、嘉與の兄弟は、男1人と女4人
      :母の弟、達雄の子供は、男1人と女が4人
      :母の妹(次女)の子供は、女だけ2人
      :母の妹(四女)の子供は、男2人と女1人 
      :母(長女)の子供も、女2人と男の僕
      :音吉の子供と彼の孫たちは、男5名と女13名で女が圧倒的に多い

 ・開放的な、進取の気性に満ちた、元気な発展的な、エネルギーに満ちた家族 
      :音吉は、東京帝国大学2年生の時に妻を持っている 
      :達雄は、車に乗り、飛行機を操縦し、オートバイで駆け回り、カメラを使った
 
     ・学問に投資する気風

      :音吉は東大まで寅彦と同期 達雄は法政大 
      :いとこたちも、みんな東京で勉強している

 こう見てくると、僕の中にも、先進性、開放性、発展的なエネルギッシュな竹崎の血が混じっているかなぁと、思い当たる節がいくつか浮かんでくる。

 「山の民」のしたたかさと、「海の民」の開かれた世界を合わせ持つ血が、僕の中を流れているわけだ。

P.S.
 この文を今回、UPできるのは、いとこの和子ちゃんが奈半利の六代目、邦博の協力を得て、4年かけて正統の竹崎家の一大叙事詩、「高田屋物語」を完成させたことにある。ご本家版は、家系図絵的にすべての家族を網羅して、80頁の大作になった。これを受け、僕の視点で書いた母方のルーツに関する文章も発表して構わない環境が整ったからだ。和子ちゃん、ありがとう!



 <正統・竹崎家家系「高田屋物語」2017.11版>