私は田舎育ちなのに、ほとんどの植物の名前を知らない。知らないと言うことは、要するに関心がなかったことだ。逆に妻のドルカスは田舎育ちの上、その地の利を生かして詳しい。おまけに前々回書いていた ように、ヒソップとかのハーブ類はマニアの域である。なので、樹木や花の名から犬猫の種名まで、ドルカスに教えを請うことが多い。植物辞典があっても、容易に名を特定できない私にとって、大変便利な助け手である。
教師をしていた時、確か5年生の理科で光合成を教える(光合成はイラストのような葉で行われる)。植物は光合成でCO2(二酸化炭素)を吸収しO2である酸素を出す。逆に動物はO2を取り入れ、CO2を出すことを実験する。 そんなことを教えながら、クリスチャンとして、天地創造における神の偉大さに思わずふるえる思いすらした。また植物には脳がないが、植物の存在はO2供給や動物の食物連鎖の土台部分であって、本当は動物は植物に頭が上がらないのだ。さらに知れば知るほどなかなかどうして、この全身緑色という色の秘密、種の秘密など驚くべき知恵が詰まっている。
「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ロマ1:20)」
以前の植物音痴であったわたしのように、よほど無関心で無知な者でない限り、被造物の仕組みや関連に気づけば、これらが本当に「偶然が重なり、適者生存で進化してできた」などと信じることはできないであろう。造られたもの(被造物)を通し、そこに造り手が居たこと、その意思を感じ取るからである。
考えてみて欲しい。家が建っているのを見て、「何百万年もかかったが、木や釘がぶつかって偶然この形になったのだ」などとは決して考えないだろう。だから被造物を敬虔に見ることが出来たなら、私たち人間に弁解の余地はない。神は万物の創造者であり、私たちはその方の手による被造物であることを。神の存在は確かな事実に違いない。 (ケパ)