阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

参考2)厳島神社の御鳥喰式

2019-03-18 11:22:29 | 郷土史

(「狂歌家の風」神祇の部にある貞国の鳥喰の歌の予備知識として、厳島神社の島廻りにおける御鳥喰式について、江戸時代に書かれた二つの書物の該当部分を引用しています。)

鳥喰(とぐい)とは厳島弥山に住む神烏に食事をお供えし、カラスがそれを「あぐ」食べることによって成就する神事のようだ。「あぐ」は「食ふ」の尊敬語、今の若い人の中には「おあがりなさい」と言うのは上から目線で好ましくない言い方という考えもあるようで、作った食事をありがたくいただけと恩着せがましく言われているように受け取る人もいるようだ。しかし、古語の「あぐ」は立派な敬語で神様であるカラスが食べる表現として使われている。厳島神社の島廻りにおいては、養父崎神社という厳島神社本殿や大鳥居から見ると島の裏側一番遠そうなところまで行って粢(しとぎ)と呼ばれる御鳥喰飯を海に浮かべて、弥山の神烏が来るのを待つことになる。

私も二十五年前、今の家に戻って来た時に、日本野鳥の会編「窓をあけたらキミがいる-ミニサンクチュアリ入門」という本を参考に、庭に餌台を作って冬季に野鳥に餌をやってみた。しかし最初は警戒して中々近づいてくれない。しばらくしてスズメが止まるようになってからは順調であったけれど、今度はカラスやヒヨドリが一気に餌を持っていくのに悩まされた。だからカラスに食べてもらうのはそんなに難しいことではないと思う。それでも波間に浮かべてとなると難易度がかなり高いようにも思える。弥山で日々同じものをお供えしているのも助けになっているのだろうか。もっとも、「棚守房顕覚書」に「二月以来島巡りは五ヶ度、四月にも執行すといへども、鳥喰一度も上らず」とあるように、うまく行かない事もあったようだ。

また、穢れがある人は船から降ろされると書いてあって、私はどうもその役が当たりそうであまり参加したくないような気もする。カラスを神聖なものとして食事をお供えする風習は全国にあり、「死・葬送・墓制をめぐる民俗学的研究」では数ページにわたって表にまとめてある。民俗学の題材としても面白そうではあるけれど、今は貞国の歌を読むためであるから、島廻りのあらましを読んでおけば十分ということにしたい。古式よりも少し簡略化されているものの今も御鳥喰式は行われているようで、2007年に行われた島巡りのあらましを紹介したページがあり烏が粢をくわえている写真も載っている。

それでは以下参考文献、挿絵の海に浮かべた御鳥喰飯にも注目していただきたい。厳島図会の方は四隅に紙垂(しで)が立ててあって風でひっくり返りそうな気もするのだけれど、上記の現代の写真では四隅という感じではなくてカラスが停まりやすく空けてあるようにも見える。宮島図会と同じような御鳥喰飯が次回取り上げる大頭神社の挿絵にも描いてある。舟の形も二つの本で少し違っているようだ。厳島図会には貞国に栗本軒の号を与えた芝山持豊卿の和歌がみえる。

まず元禄十五年(1702)刊、「厳島道芝記」から御島廻り養父崎の条を引用してみよう。

「御島廻第五の拝所。已の剋此所に到る。此所は濱もなく洲もなし。打よる浪の岸にくだかれ晴嵐颯々として嶺高し。いはほにたてる松の木の間に朱の玉垣拝まれさせ給ふ。をのをの心(しん)を凝(こら)し遥拝(ようはい)す御師の舩は冲中に漕出し(しとぎ)を波の上にうかへて。楽を奏す。嶺より霊鳥一双(ひとつがひ)。翅をならべ松のしげみをわけ出。御師の舩に移り。波にうかへる供御(ぐご)を雄烏(おからす)あげ給ふ。其時舩中(せんちう)跡なるも先なるも舷(ふなばた)をたゝき御烏をはやし奉る。雌烏(めからす)飛来り最前のごとくあげ給へば。猶いやましにいさみて。とよめけども中々懼(おそ)れ給はず。又雄烏来り以上三度あげ給ふ。されば御嶋廻り。一日に唯一艘(そう)にはあらず。二艘三艘多きは十艘にも餘れり。皆次第次第にあげ給ふ。障(さはり)のなき舟は。その数々あがらずといふ事なし。かくある中に。少も汚穢にふるゝ事あれは。霊鳥いでたまはず。たとへ出ますとても。中途より帰りたまふ既に御師の舩まで乗り移りたまひても。供御あげ給はぬ事あり。かくのごとくなる時は。御師舟を戻して。舩中をあらため銘々に糺ず。少も障ある人をは舟よりおろし。後の濱に残す。其後舩中修禊して新に供御を奉れはさはりなくあかりぬ。あやしさ。おそろしさ感涙袖に餘れり其奇瑞諸人親視(まのあたり)拝せる事なり。猶鳥喰飯の事は。年中行事に記す。かくて舩の中(うち)には喜悦の眉をひらき。祝盃の奥を催す。宿の主は種々の饗をなす事夥し」

 

 

 

(国立公文書館デジタルアーカイブより)

 

もうひとつ、天保13年(1842)厳島図会より(フリガナは一部省略)、

 

「養父崎神社 祭神霊烏(ごがらす) 嶋巡(しまめぐり)の時此處(こゝ)にて鳥喰(とぐひ)の式あり

凡島巡の禊(はらひ)といふは島中の七浦(なゝうら)の神社を巡拝することなりこれ三神この島に降臨(こうりん)ましまし御座所の地を定めんとて浦々を見めくらせたまひし故事によれるとかやその式は願主吉辰(きつしん)を擇(えら)び前日より潔斎をなし当日の未明大宮神前御笠濱より舩(ふね)に乗る祠官(かんぬし)の舩には四手(しで)切かけ賢木(さかき)を立て先に進む願主は真梶(まかぢ)しげぬける舩に幕など引餝(ひきかざり)水主(かこ)十二人こゑを帆にあげ洲崎の松も栄ゆくなど諷(うた)ひ立て漕出(こきいだ)す饗(まうけ)の舩には宿のあるし以下(いげ)乗れり都合舩三艘御山(みせん)を右になし廻るまづ杦(すき)の浦に着て各(おのおの)修禊(はらひ)し社頭に拝謁す祠官(かんぬし)社前に楽を奏し退出(まかんで)のときにいたりて拝殿の濱に茅の輪をたてくゞりて祓(はらひ)をなす以下浦々その式異なることなし但(たゝし)杦の浦にては別に朝餉(あさかれひ)の式ありて膳部質朴(せんぶしつぼく)なりそれより頓(やが)て舩を出し鷹巣(たかのす)腰細(こしほそ)の浦をすぎ青海苔の浦にいたる此處(このところ)にて午飯(ひるげ)を調(とゝの)ふ飯上(はんしやう)に青海苔を粉(こ)にしてかくること例なりさてその式をはりてまた舟を漕出し養父崎(やふさき)につくこの地洲濱もなく岩石かさなりてうちよする波いと清く松の木の間(ま)に朱(あけ)の玉垣みえさせたまふ祠官(しくわん)ふなはだにたち出粢(しとぎ)を海上にうかへ鳥向楽(てうかうがく)を奏すればたちまちに霊烏(れいう)一雙(いつそう)嶺よりとひ来り祠官の舩に移り波にうかへる粢を雄烏(をがらす)まづおりてあぐ次に雌烏(めがらす)また下りてあぐ其時前後の舩舷(ふなばた)を叩き歓(よろこび)の声を発してどよめくこと暫しはなりもやまずとばかりありてまた雄烏来りてあぐ凡(すへ)て三度大かた島巡(しまめぐり)の多き時は一日(ひとひ)にニ三艘より十艘におよふことありといへとも次第みなかくの如し但舩中に不浄汚穢(ふじやうをゑ)あれは霊烏(ごがらす)出ることなしもしさる事もあれば祠官(かんぬし)舩中を點検(てんけん)し聊(いさゝ)かにても障(さわ)りある人をばみな舩よりおろし跡の濱に残し其後(そのゝち)舩中を修禊(しゆけつ)し新(あら)たに粢をうかふればことなくあがる也それより山白濱(やましろはま)をすぎて洲屋の浦にいたる宿主(やとぬし)餡餅(あんひん)の饗(あるし)をなすいかなる所由(ゆゑ)といふことをしらす其所(そこ)を過て御床(みとこ)の浦にいたる各(おのおの)また修禊し石上(いしのうへ)の拝殿に蹲踞(そんこ)す祠官祝詞(のりと)をよみて茅の輪を納(をさ)め大元(おほもと)の浦に漕着(こきつ)け各舩より下(お)り神拝(じんはい)をなして後宴(ごえん)の席(むしろ)を開くさて大宮客神宮(おほみやまらうどのみや)に報賽(かへりまうし)の神楽を奉る以上島巡の梗概(おほむね)なりまた浦巡(うらめぐり)といふこともありこれはさせる潔斎などもせずただ山水逍遙(さんすゐせうえう)のためなり 霊烏(ごがらす)のこと四の巻大頭(おほがしら)大明神の件(くだり)にいふべし

     島めくりのこゝろをよめる

  なゝ浦の島めくりする舟の中のものゝ音あかす神やきくらん 中納言持豊

  いつまでもみるめはうれしいつくしまめくる浦回を面かげにして 似雲 」



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