阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

井尻又右衛門

2019-04-08 10:46:57 | 郷土史

 広島市安佐北区深川(ふかわ)にある我が家から一番近い戦国時代の山城といえば、今は亀崎中学校がある場所に亀崎城があったという。その他にも、尾和城、院内城、恵下山城、高松山城、と徒歩30分圏内に多数の城址があって、こんなに乱立していたら落ち着いて夜も眠れなかったのではないかと思ってしまう。その亀崎城は、50年近く前、私がまだ小学生の頃、山を削って学校にする時に広島県教育委員会による調査が行われている。ここに、井尻又兵衛和重という城主の名が見える。これは「郡中国郡志」に出てくる名前という。しかしネットで井尻又兵衛を検索すると、クレヨンしんちゃんの映画の登場人物ばかり出てきてこちらを探すのは困難を極める。また、探し方が悪いのかもしれないけれど、「郡中国郡志」がどこで読めるのかわからない。阿武山の蛇落地を調べた時に読んだ「黄鳥の笛」の参考文献にある「布川筋古城史」も所在の見当がつかない史料だ。井尻又兵衛についてはここで止まってしまっている。

 ところが今回、貞国の鳥喰の歌を調べるために厳島図会を読んだところ、厳島合戦の龍ヶ馬場の記述に、陰徳太平記からの引用として、井尻又右衛門の名前が出てきた。陰徳太平記では、龍ヶ馬場の条から巻をまたいだ二十八巻「陶全薑最後之事」に、

「同郎等モ主ト同道ニ成ント切テ回ケルヲ。吉川勢井尻又右衛門討テケリ」

とあり、又兵衛と似た名前の井尻又右衛門は吉川勢ということがわかる。また井尻又右衛門は、安北郡飯室(現安佐北区安佐町)の土井泉神社文書杉原次郎左衛門尉井尻又右衛門尉連署預ケ状」に名前が見える。これは天正十九年とあって先の厳島合戦からは36年後ということになる。吉川勢ということであれば、吉川氏の拠点は新庄の小倉山城で土井泉神社の飯室は近いが亀崎城との間には高松山城の熊谷氏など時代によっては敵対関係にあった豪族もはさまっている。亀崎城の井尻又兵衛は正確な年代がわからないことも話を難しくしているようだ。今のところ、井尻又兵衛と井尻又右衛門の関係については全く手掛かりがない。

残念ながら今回もここまでしか書くことがないようだ。最初に挙げたこのあたりの城跡からは阿武山が良く見える。中世末期の阿武山の観音信仰にもっと迫るためにも、各所から阿武山を眺めた人たちの心の内を知りたいものだ。しかし有効な情報を得るためには、もっと文献を探さないといけない。




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