阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

狂歌家の風(29) とくひ

2019-03-21 12:57:54 | 栗本軒貞国

栗本軒貞国詠「狂歌家の風」1801年刊、今日は神祇の部から一首、

 

      大野大頭社にて雩の祈禱に 
      鳥喰祭ありける願主の人々 
      にかはりて

  雨雲をとくひ来りてしるしあれや祈るこゝろの空しからすは 


雩は雨乞いの意味だが、読みは「あまひき」「あまごひ」の二つが出てきて決め難い。狂歌では「あまごひ」が多いけれど、神仏の祈祷では少し気取って「あまひき」と読ませた例もある。あとで引用する当時の大頭神社の宮司さんによる文書が雨乞という言葉を使っていることもあり、一応「あまごひ」で読んでおこう。「狂歌家の風」には雩が出てくる歌が秋の部に一首ある。詞書の「おなじ夜」は十五夜をさす。

 

      おなし夜雨ふりければ

  雩に感応のなき夏よりも悲しき秋のなかそらの雨 

 

「感応のなき夏」とあって雨乞いの神事の効果がないことも多かったのだろう。

次は鳥喰(とぐい)について。昨年九月、初めて「狂歌家の風」を読んだ時に最も心引かれたのがこの鳥喰祭の歌であり、江戸時代の「厳島道芝記」「厳島図会」の二つの書物を中心に調べてきた。ここに書くと長くなると考えて、①弥山神烏、②厳島神社の御鳥喰式、③大頭神社の烏喰祭、と三回に分けて書いた。しかし全部読んでいただくのは大変なので簡単に書いておこう。鳥喰とは神様である特別なカラスに御鳥喰飯をお供えして神烏がこれを「あぐ」すなわち召し上がったら吉とする神事である。カラスにお供えをして吉凶を占う行事は全国各地にあるのだけれど、厳島神社や大頭神社で鳥喰に参加する神烏は厳島の弥山に一つがい二羽住んでいて、夏に子烏を育てた後、大頭神社九月二十八日の鳥喰祭を最後に親烏は紀州熊野に帰り、翌日からは子烏二羽が厳島神社の御鳥喰式に参加する。この九月二十八日の鳥喰祭を孔子の故事にちなんで「四鳥の別れ」と呼んでいる。貞国を師匠として大野村で活動した「別鴉郷(べつあごう)連中」という狂歌連の名も、四鳥の別れにちなんだ大野の別名「別鴉の郷(べつあのさと)」からとられている。

大頭神社ではこれとは別に、詞書の雨乞いの祈祷のようなケースでも鳥喰祭が行われている。貞国の時代の大頭神社の宮司さんが書いた「松原丹宮代扣書」の寛政元年(1789)の記述に、

「六月六日より八日まで御屋敷様より雨乞御祈禱被仰付、当所、小方、戸坂村と相聞く。八日朝よりくもりかけ、鳥喰祭より雨ふり出し、その夜までふり、中雨なり。三郎左衛門、嘉兵衛代参に被参、社参の節ぞうり、かえり時分さし笠。また十一日より十二日朝まで大雨」

とあって、雨乞いの祈祷の一連の行事の中で鳥喰祭が行われていたようだ。この寛政元年は貞国の別鴉郷連中が大野村に人丸神社を勧請する前の年、狂歌家の風の刊行からみると十二年前ということになり、貞国の歌はまさにこの寛政元年六月だった可能性もある。ただ、「松原丹宮代扣書」には鳥喰が上がらなかった、雨が降らなかったという記述は見当たらなくて、うまく行った時だけ書いた可能性もあり、もちろん断定はできない。なお、大頭神社公式サイトでは、「烏喰」とカラスの字が使われていて、詞書の鳥喰は間違いの可能性もと思っていた。しかし貞国と同年代の「松原丹宮代扣書」では厳島神社と同じくトリの字になっていて天保十四年の「大頭神社縁起書」からはカラスの字が使われている。「松原丹宮代扣書」は当時の大頭神社の宮司さんの記述であるから、貞国の時代は鳥喰であったと考えて良いのではないかと思う。

大頭神社の鳥喰祭はどんな光景だったか、厳島図会の大頭大明神の挿絵に、その様子が描かれている。左下の鳥居を少し入ったところ、厳島道芝記には御田とあるから神社所有の田んぼだろうか、その中に四隅に紙垂を立てた御鳥喰飯を置いて、神職が祈祷している。カラスは四羽、鳥居の外に正座して頭を垂れているのは願主の人たちだろうか。もっとも、上記寛政元年の場合は願主は領主上田家と注釈があり(大野町編「古文書への招待」編者の注)、代参したのが庄屋格(同)、願主の領主様は鳥喰祭の現場にはいなかったことになる。奉納歌も、代参の時に届けられたのかもしれない。しかし詞書は「願主の人々」とあるから、この挿絵のような場面に貞国が参加していた可能性も残る。

詞書はこれぐらいにして、貞国の歌をみてみよう。「鳥喰来りて」には「疾く」がかけてあり、鳥喰が上がって早く雨雲をと詠んでいる。第五句に濁点をつければ「空しからずば」だろうか。夏の日照りは願主にとって深刻な問題で、雨乞いの祈祷の奉納歌もいい加減にすませて良いものではない。狂歌は天明期に江戸でブームとなり、広島でも桃縁斎貞佐の移住をきっかけに門人が増え、このような機会に貞国が歌を奉納するというのも、当時の狂歌の隆盛を示すものと言えるだろう。しかし深刻な日照りの最中の祈祷でありながら、最後にカラスを詠みこんでクスッと笑わせるところが狂歌の面目躍如といったところだろうか。

大頭神社は貞国の時代は佐伯郡大野村、今は廿日市市大野という住所で、貞国が脚布かふとしかと詠んだ妹背の滝のすぐそばにある。しかし貞国の時代は同じ大野村でも別の場所、今の社地から徒歩10分ぐらい海に向かって歩いたところにあり、先週その旧社地に行ってきた。去年の例大祭、かつて四鳥の別れが行われていた日に大頭神社を参拝したのだけれど、貞国の時代の社地を訪れなかったのはうかつな事であった。しかしとにかく、この半年ずっと頭から離れなかった鳥喰の歌、その場所に立てて感慨深いものがあった。

この旧社地には鳥居と石碑があり、残りの敷地は参拝者の臨時駐車場として利用されているようだった。

石碑には御朱印にもあった四羽の神烏の宝印のデザインの下に遷座の理由として、

周囲が田畑に変貌し神域として相応しくなくなり」

とあり、田畑なら良いではないかと思うのは現代人の感覚なのだろう。ところが百年後の「大頭神社 御遷座百年記念誌」には、「大頭神社は、大正二年に妹背の滝のほとりに社殿を遷座してきたが、これに伴い「四鳥の別れ」の神事も伝説化してしまい、現在は、日々、神社の傍らの石に烏喰飯を供えるだけである。」とあった。今の妹背の滝を背にした立地は素晴らしいと思うのだけど、ほんの1キロ山側に移動したために弥山の神烏と疎遠になってしまったようだ。旧社地も南東に丘があって弥山は見えない。そんなに条件が変わるのか、もっとも神烏は弥山から来てくれないといけなくて、北の山のカラスがひょいとくわえて行ったのではまずいのだろう。貞国の歌は、厳島でも第一の神秘といわれる鳥喰を正面から詠んでいる上に、当時の地方における狂歌の地位という点でも貴重な一首だと思う。できることならば、大頭神社に歌碑があればと思う。場所は、旧社地では見る人も少ないだろうから、今の大頭神社のどこかにお願いしたいものだ。よく考えてみると、貞国が妹背の滝を訪れたのは大野町誌のもう一首をみても明らかで、貞国は今の大頭神社のあたりには確実に行ったことがあると言えるだろう。しかしこちらの旧社地は歌を届けただけという可能性もある。殺風景なこちらで感慨にふけったのは二重にうかつな事だったかもしれない。



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