阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

阿武山(あぶさん)を語る(7) 太刀の周辺

2018-08-21 18:54:20 | 阿武山

 ヤマタノオロチの伝説は世界的にはペルセウス・アンドロメダ型神話といって、蛇の魔物を倒していけにえの姫君を助けて妻とする、という類型に分類されるようだ。そして、いけにえを定期的に求める、というのもこの型の魔物に共通するらしい。このあたりが、災厄が度々襲ってくるということで河川氾濫などを神格化したものと考えられている所以と思われる。一方阿武山の大蛇退治を考えてみると、いけにえの姫君は登場しないしそもそも神話ではない。定期的に、というところも薄いから魔物として表現すべき災害ではないような気もするが、それは今回の本題ではない。

 蛇落地の回で、蛇王池の周辺には刀山、刀川、刀納など、刀(たち)がつく苗字が多いと出てきた。陰徳太平記に出てくる太刀ノブという地名も本来蛇の首が落ちたところなのに太刀がついている。考えてみるとこの大蛇退治の眼目は太刀の奉納にあるのかもしれない。今回はこのあたりを考えてみたい。

 太平の世の中であれば、天文年間の直前にあったという土石流の抑えとして家伝の太刀を地元の八幡様に奉納というのもありだろう。しかし、当時の八木城周辺の事情を考えると武田氏の勢力圏に大内、毛利、尼子も関わってきて先行きが怪しい状態。家伝の太刀にはもっと政治的な力を発揮してもらわないと困るのではないかと思う。私が単にケチなだけかもしれないが、どうも災害の抑えだけという感じはしない。

 さらに調べていくと、太刀の奉納の一つ前、太刀を洗うという類型に注目した方がいらっしゃって、少しヒントを得た(太刀洗い型のモチーフをもつ伝承)。ここを読むと、太刀を洗うのは別に川でなくても滝でも池でも大丈夫みたいだ。それなのに勝雄が太刀を洗った池が「太刀ノブ川」という名前になったのはちょっと違和感がある。やはり、よそから持ってきたお話を当てはめたのではないかという疑念が残る。そしてこの太刀洗い型のモチーフは、上代における製鉄や鍛治の記憶と関係しているのではないか、との指摘をされている。この点について考えてみよう。

 ここですぐに思いつくのは八木の少し上流、可部の町でたたら製鉄が始まったのが16世紀、天文年間にはすでに鋳物が始まっていたという記述もある。出雲街道を通って出雲の技術が流入したと考えられるようだ(鋳物師については山陽の技術者という記述もある)。そうだとすると、大蛇退治の物語の原型が出雲からのたたら集団によってもたらされた可能性もあるかもしれない。そして、上記の太刀のつく苗字の人たちは鍛冶集団、と考えて調べてみたけれど、安芸の国ではあまり刀鍛冶は振るわず、有名な刀工というと熊谷氏が招いた三入の二王真清と瀬野川にもう一人ぐらいであったという記述がある。山陽の鉄が日本刀に向いてないという事情もあったようだ。もちろん八木で刀鍛冶が行われたという証拠も見つからなかった。鍛冶集団はちょっと短絡だった。大蛇退治の伝説をもとに、もっと後の時代に苗字がつけられた可能性の方が大きいのかもしれない。

 「黄鳥の笛」を読むと、驚いたことに勝雄の太刀は光廣神社(旧八幡社)に現存すると書いてある。戦前から取材をされたと冒頭にあるから、戦時中に供出になったか戦後の混乱で失われたのかもしれない。これは残念なことだった。ここまで書いてきて、結局太刀の奉納の性格についてはっきりさせることはできなかった。大蛇退治を記述した本当の意図もまだまだ見えてこない。中世の阿武山周辺についての知識をもっと深めないといけないと感じた。

 

(安佐南区八木、光廣神社)

 



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