阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

地方文化

2019-01-04 18:44:20 | 栗本軒貞国

 前回廣島山聖光寺で貞国の歌碑に対面した時に考えたことなのだけど、一緒に書くとうるさいかもしれないと考えて前回は碑文の解読に重点を置いた。今回はその関連ということでご理解いただきたい。

 前回も書いたように、聖光寺で貞国の歌碑を探すにあたって、「尚古」に書いてあった、梅園介庵の碑や金子霜山の墓と同じ所に建っているというくだりを手掛かりにして出かけた。しかし、ここまで郷土史の文献を読んだ限りでは、この記述は大いに意外であった。広島藩学問所一流の学者と貞国の狂歌壇はまったく異質のもので、それが同居している姿は想像しにくい。金子霜山の霜山という号は、呉娑々宇(ごさそう)山に由来するということが、小鷹狩元凱「廣島蒙求」に出ている。

「金子霜山の邸は初め学問所の構内に在り、邸中より東方遥に安芸郡府中村の山嶺を望みぬ、山の名、一に互差層といひ、一は五八霜と云ふ、(中略)霜山は勉廬と号せしが、其邸宅より日々此嶺を遠望せるを以て乃ち別に八霜山人と号せり、霜山とは又之を約めたるものなるべし」

(聖光寺にある金子霜山の墓)

広島デルタのどこからでも見える呉娑々宇山も、その語源となるとはっきりせず、この二説の他に芸藩通志に御山荘山とあることもこのあとのくだりに書いてある。話を戻すと、この小鷹狩元凱にせよ化政期の記述も多いのに、学問所の学者の文献に貞国の狂歌が出てくることはない。武家が詠んだざれ歌の記述はある。逆に貞国の門人で今のところはっきり武家だとわかる人もいないように思える。「尚古」によると貞国は水主町で加子が作った苫を役所に納める商いをして裕福であったとあり武家との接点もあったはずであるが、狂歌ということになると町人の文化だったのだろうか。

一つ不思議なのはうちの母方の先祖は広島藩士でちょうど四百年前、浅野公に従って紀州より広島入りしたと聞いている。それなのに伝わった掛け軸は学問所の学者の漢詩や和歌ではなく、町人文化の狂歌なのはどういうことか。学問所とは不仲の部署だったのだろうか。曾祖父の代に没落したというからその時手放したのだろうか。一つの可能性として、先祖の屋敷は尾長にあったといい、尾長の瑞川寺(現聖光寺)に貞国の歌碑が建ったことから、尾長に貞国の有力な門人がいて、そこが接点ではないかと推測していた。ところが歌碑を実際に見ても尾長の門人の存在は確認できなかった。歌碑は誰の手によって、どうして尾長に建てられたのか、疑問は残ったままだ。また話がそれてしまった。

話を本題の地方文化ということに移そう。私が住んでいる中国地方で地方文化といって思い出すのは、松江の不昧公であったり、山口の大内義隆公であったり、殿様由来の文化だ。広島も原爆で随分失われたけれど、頼家の学問や上田宗箇流の茶道など、浅野家ゆかりの文化の影響は大きい。逆に言えば、現代に至っても、いまだにこの殿様由来の文化から抜け出せていない、超えるものが出てきていないのではないか、とも思う。特に広島の人はその保守的ともいえる気質からあまりお上に逆らう事もなく、お上から与えられたまま受け入れる、熱しやすくて冷めやすく、新しいものは好きだが自ら新しいものを生み出す気概に欠けている傾向がある。官製文化以外長続きしないのはこの気質が影響しているとも言えるだろう。

一方、貞国の狂歌はこのお上の文化と無関係でありながら、どうやって一時代を築いたのか。発端は享保十三年(1728)、桃縁斎貞佐が芥川家を継いで広島に住んだことだ。一流の文化人が広島にやってきて、狂歌の門人も「狂歌桃のなかれ」を見てもわかるように安芸備後の広範囲に及び千人を数えたとも言われている。その中に卓越した才能を持った貞国がいて、貞佐の没後は貞国が師匠として広島の狂歌壇を牽引して行った。ただし、安永八年(1779)貞佐が死去した時、貞国は26歳または33歳(貞国の没年齢に二説ある)であって、貞国が貞佐の下で学んだのはせいぜい十年ではなかったかと思われる。貞佐の死から十年後の寛政年間にはすでに柳縁斎師と呼ばれ、また芝山持豊卿から栗本軒の軒号を得て享和元年(1801)に大阪の版元から「狂歌家の風」を刊行、郷土史上は広島の化政文化を支えたと評価されていることから、広島での活躍のピークはそのあとだろうか。京都の堂上歌人から軒号を得たというのも、出版、あるいは地方での活動を広げるために必要だったのかもしれない。

江戸時代、地方には武家という知識階級がいて、金子霜山が江戸詰めの時に講義をしたという話や、坂の上の雲などを読んでも地方の武家の知識レベルは決して低くなかったと言えるだろう。今やそのような知識層は存在せず官製文化というものは期待できない。文化の香りという点では、都会から引き離されるばかりである。もっとも、文化の前に経済が先で、食っていけなければどうにもならない。そういう面でも地方都市の未来は楽観できない。少子高齢化の中、経済成長を続けるにはシンガポール型の一極集中国家しかないという専門家もいる。若い労働力はみんな首都圏へ、という時代が来るかもしれないのだ。もしそうなったら、地方はどうなってしまうのか。我々はもっと危機感をもって、この街の未来について考えてみないといけない。我々はともすると行政や地元メディアに不満をぶつけがちであるが、我々の意識を変えないといけない部分もあると思う。

以上のような観点からも、貞佐、貞国の生涯にもっと迫ってみたいと思う。地方文化の未来のために我々にも何か出来ることがあると信じたい。聖光寺の貞国の歌碑は、実際には学問所の学者と一緒ではなく、一般の墓地の入り口にあった。これはいかなる事情かはわからないが、実にしっくりくる立ち位置だと思った。

(再掲、聖光寺にある貞国歌碑、石段左)



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