社会科塾講師☆ブログ~しゃかりき!~

元社会科塾講師が勉強方法や社会科について
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自分をすごい!と思うことは成長の妨げにはならないと思う

2019年12月30日 13時58分47秒 | 私自身のヒストリー
少し更新が滞り、失礼いたしました。

今年もあと少しなんですね。
今年は悲しい別れも、
新しい出会いもありました。

その別れと出会いを通して


自分が

何が得意で

何が好きで
何がしたいか?

しっかりわかった年でもあります。



高校生からは、

自分と似たような学力や家庭環境の
人達との交流がメインになり、
高校から大学は「生徒」&「学生」として勉強メインの生活、
仕事も塾講師や家庭教師だったので
「先生」としての勉強メインの生活
でした。


仲良くする「大人」の人々は
「勉強」するのはあたりまえの人達。
好みの違いはあるものの
文化的なもの、学術的なものを
「嗜む」「好む」のは当たり前。

彼ら彼女らは
「好きなもの」があることを自分の心を落ち着かせたり前向きになることを知っているから
他人と自分の好きなものは違えど
「相手が好きなものは、その人にとっては大切なものなんだろう。」と類推することができるため、他人の趣味を馬鹿にする、完全否定する人は少なかったんです。


私は「勉強」するのが
当たり前の世界にしか自分は
いませんでした。
だから、
「勉強」する内容が「好き」
と公言しても

「そうだよねー!」

という友達や同僚ばかりでした。

そこには、侮蔑や嫉妬はなく
ただ、「肯定」しかありませんでした。

もちろん、家族も同じ。

さも当たり前かのように

歴史の本を買っては家族で読みまわしたり、一緒に旅行するのも歴史にゆかりのあるところがメイン。
ご飯を食べながら
「近代国家における、社会権の成立とは…」みたいな話もしたり。




……それが、
今年は、いろんな層の人と出会いました。

すると、
人の好きなものを平気で小バカにする人や、相手の得意なものを無用のような言い方をする人とも多く接することになり、
「あ、そういえば、小・中学生のとき、いつもこんな感じだったわ」
と思い出しました。

高校生からもそういうタイプの人はいたけど、そうじゃないタイプ(自分と似たタイプ)もたくさんいたので、その人達とだけ仲良くしてても集団生活は成り立ってました。
仕事では、合わない人はお互いに合わないとわかってたので、仕事だけやりすごすことができました。

塾講師や家庭教師では、
価値観の違う生徒さんもおおくいらっしゃいましたが、
自分との関係性が「教える」「教えられる」の関係性だったため、生徒さんの相手の価値観を尊重しつつ、自分の価値観も相手に伝えても、自分を馬鹿にされたり無価値な生き物のように言われなかったので。

私の考えが生徒さんに受け入れられなかったら、まあしょうがないか、人それぞれ違うんだから、と
あくまで、

「自分の考え」を

「ダメなもの」
「変えなければいけないもの」

とは思わなくてすみました。



でも今年は、

そういう「私の考え」は


「ダメなもの」
「訂正すべきもの」

という考えの人達とたくさん出会いました。
しかも、
そういう人が大多数の集団で行動しなきゃいけなく、
さらに、
キツかったのは
その人達に合わせないと先に進めない、そういう生活になってしまったことでした。





それが続いた半年後

それまで次々に出ていたマンガのアイデアが出なくなったんです。

漫画を描こうとしたも、どうしても筆が進まない!

そういう状態になったんです。

漫画を描こうとすると

「こんな風にキャラに言わせたら、あの人に否定される!馬鹿にされる!」
とか
「漫画を描いているのがバレたら、漫画を描くな!とあの人に禁止される!」

みたいな、恐怖感不安感罪悪感が消しても消して出てきてしまうんです。


申し込みをすませていた、展覧会や委託販売、即売会は、なんとか、それでも、がんばって作りました。


でも、去年までは
何を作っても
楽しくて幸せだった
漫画やイラスト作成



今年は
やりたいからやってるけど
常に後ろに邪悪な誰かに見張られて
いるような気持ちで、
罪悪感不安感を抱きながら
必死でやるだけやった

という感じになってしまいました。

そのため、一応、
自分の作品」なのに
自分がつくった作品」に見えない
「他人しか存在してない作品」
になってしまいました。


それに気がついたのは

10月の名古屋コミティアで
出張漫画編集部さんに
自分の漫画を見て頂いたとき。

その半月前の3月にも出張漫画編集部さんに見て頂いたのですが、
そのときは
「独特な世界観で、面白い!(…けど、画力とかがまだまだ。)」とか
「ブラック・ユーモアがあるし、
作者として個性は感じられるから、
あとは画力と演出などを…!」

とご指摘頂きました。
画力とかは足りないけど
その作品に」という存在はあったんです。

でも、そのあと、そう4月から
自分の否定する集団に合わせるしかできなくなった後で描いた漫画を
出張漫画編集部さんにご覧いただいたら

「言いたいことは伝わるんだけど、
貴方がそこにはいない。」
と言われたんです。
さらに
「これは、自分の塾講師の経験を通して気がついたお話なんでしょ。このままだと、教科書や広報紙についている補助的な漫画という感じ。
でも、この話をあなたの視点から見た世界観で描いたほうが、読者も理解しやすく、より伝えたい内容がはっきりするよ。
と言われたとき、私はハッとしました。


私は「私を否定する人」を嫌がりながらも、その人達同様、「私を否定していた」んだ!と。

そこで、
ちゃんと「自分」を描こう!
と気持ちを入れ換えようとしたんですが

半年間、自分を否定しつづけたために
また無意識に否定し、
それをしないように気を付けて
いざ自分を出そう!としたら、

自分が何者かわからない!

と気がつきました。

ああ、これはヤバイ。どうしよう。

すごく悩みました。


そんなときに、大学時代のお友達で今は小学生のママさんである友達が
突然連絡してきて、

子供の勉強についての悩み相談をしてきました。

それで自分なりにアドバイスしたら
「すごくわかりやすかった。厳しいことも言われているのに、やさしいだけの逃げの言葉(「がんばればできる」とか)をかられるより心が救われた。やっと、自分が何をすべきかわかって、前に進めそう。ありがとう!」

と言われました。

また、娘が勉強につまづくようになり
勉強を教えると
「なんで、お母さんが教えてくれると、わかりやすいんだろう。」
と言ってくれたり、それでテストでも結果を出したりしてくれるようになりました。
娘は歴史にも興味を持ちはじめて、
色々私や他の家族にも聞いてるのですが
「なんで、お母さんが歴史の話をすると、面白くてわかりやすいんだろう。」
と言われました。


親友には
「セザールさんは、教えるのが好きなんだね!」
夫には
「子供の理解度に合わせて説明できるのは才能。俺はそれをできないし、しようと思うのはめんどくさく感じる。相手にわかりやすく伝えるのが好きなんだよ、君は!」
塾講師仲間の母には
「あんたのほうが、視点が面白い!同じ授業や作成物でも、あんたのほうが、
エンターテイメントと学術の絶妙なバランスがあるし、それに関する情熱はあんたが抜群だ。そんな塾講師や学校の先生に出会ったことない」

と言われたんです。



そのときに思いました。

私を否定する人は
「勉強」「学術的な話」がそもそも
好きでないし、理解する気がない

私を受け入れてくれる人は
「勉強」に対して、得意不得意は関係なく、少なくとも「勉強は大切」と思っている人で、「学術的な話」は好きな人、そして、何よりも「前向きに努力をしよう!」という人だということを!


そのときに、漫画を描くときに
想定する読者さんを
「勉強に負のイメージしか持ってない人やマウント用のツールとしか思ってない人」と思って描いたときと


「勉強には正も負もどちらのイメージも持ってて、勉強は楽しい面もあるし、テストの点数も自分が理解できたか?を示すための指針であり、誰より点数がよいとか満点とれたか?は二の次、もしくは、それは全く念頭にない人」
と思って書くのとでは
全然違う作品になるのだと!

前者を想定して描くと
まずは「勉強はそういうものではないよ!」という「否定」がメインになり、
さらに自分が主張したい内容も
いろんな方面から言うことで納得してもらおう!という形になり
まわりくどく、何度も同じことを言う
くどい内容になってしまいます。


でも、後者を念頭において描くと
「これって、こういう面白さがあるんだよー!!」という「肯定」がメインとなります。さらに、「私はこう思うんだ!」「こう思うことが楽しいんだー♪」という、明るくて簡潔な話になります。


だから、私は
「まずは、私を受け入れてくれる人に視点をおいて、その人に受け入れられる作品をつくることをしよう!」
と思ったのです。
でもそう言うと
「閉鎖的!」
「自分を認めてくれない人は、排除か!ワガママ!」
と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

でも、まだプロになれるかわからないときに、
先に「自分を受け入れる気がない方」向けに上手く漫画を描ける技術はありません。なぜ最初に難関に挑戦?!になってしまいます。


だから、いつかは、すべての方に!と思いますが、
「自分を受け入れる気がある方」が、私の漫画やブログで少しでも気が楽になったり、前に進めるような作品づくりができるようになりたい!それだって難しいんだぞ!
と思うのです。


それで、今はTwitter上で
ひたすら、勉強や自分の人生のふりかえりを文字でまとめています。

それを三ヶ月ほどしたら
やっと
「私ってこんなに色々考えて授業したり子育てに臨んでたのか!」
とびっくりしたり、
読み返して
「この話、面白い!はやく続きが読みたい…っていうか自分やん作者!」
とか、出てきました。


完璧じゃないから、ほめちゃいけない」
「自分ってすごい!と思った瞬間に成長はとまり、奢りや怠慢が出てくるから、自分をすごいと思ってはいけない」

と、散々、私を受け入れる気がない人に言われ続け、
常に私は

「自分はダメなやつ、と思わなければいけない」

とおもい続けてました。
でも、それは

成長したい

という気持ちがあったから。


だったら、
「成長すれば問題ないわけです!」

よね?

そのときに、
私の心がどうであったって
かまわないですよね?

「自分がすごい!」と思って、
恥をかいたり、失敗したりしても、
かまわないですよね?
結果的に成長できれば!


私は
失敗を

「恥」や「ダメなこと」
とは思いません。

その失敗を乗り越えて
「成長」できればいいじゃん。
「失敗が成長を妨げるもの」なんていう価値観は私にはありません。
それは、失敗を乗り越えてきたから。
それこそ、自信です。

それを、自分の人生をふりかえって
ノートにまとめた結果、思いました。


なので、他の人には

「成長の妨げ」「恥ずかしいもの」
であるかもしれませんが、

私は
「自分はすごい!」
「このように考える自分が好き!」
と思うことで、
失敗も批判もまるごと受け止めて、

「成長したい」

と、

この一年の様々な出会いで思いました。


ではでは今年もありがとうございました!

来年もよろしくお願いいたします。










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