たとえば100人のうち、30人の読者に伝わる詩もあれば
500人読んでも、誰一人として伝わることのない詩もある。
その場合、メジャーやマイナーという尺度は、
マーケットが付するだけのことで、作品や作者にとっては
そんな尺度はない。
詩を書き、詩を読み始めると、あるいは詩の世界にふれ
その世界に入りだすと、さまざまな詩作品と出会う。
その場合、一読したときに嫌悪を感じ、退屈だなあと感じても
数年をへて、読みなおしたときに、その深さに驚くときがある。
逆に前衛だと感じていた詩が、のちに、後衛だと思うこともある。
長い歴史の中で、いろんなところで
いろんな詩が書かれている。
同人誌活動では、同人会などで、同人という他人の詩を読む。
語り合うわけだから、深く読む。
メジャーやマイナーなどという、誰が決めたのかわからないような
尺度に頼ることなく、自分の「作品の強度」を試す。
また、他人の「作品の強度」を知る。
詩誌を他人に送り、反響をいただくというのも、
「作品の強度」を試し、知ることだと思う。
詩を書くこと、詩を読むこと、はじめは自らの作品に向けられていたのが
しだいに、他人の詩にむけられる。
同人の作品に向けられていた視線が、さらに詩史上の著名な詩人の作品
詩史からははぐれているが、すぐれた無名の詩人の作品にも
向けられる。
「作品の強度」、それはあくまでも「自らの強度」という政治的なものではなく
純粋に彼方に架けられる望みなんだけど、
その強度のために、詩以外の思想書や小説や随筆や漫画や映画や音楽などにも
貪欲に食指をのばす。
そうして、他人と出会う。
実際にリアルに会って、酒をのみ、たまにはからんで敵対もする。
いとおしさで、愛情を感じることもある。
そうしたことが、すべて善ではないが、文学体験ということだと
思う。
詩学社という詩のメディアが昨年、廃業した。
「詩学」という詩の雑誌媒体は、こうした、文学体験を交差させるだけの
媒体性を一時はもっていたように思われる。
100人のうち、30人の読者に伝わる詩も、
500人読んでも、誰一人として伝わることのない詩も
「作品の強度」という視点をもって、問題作を掲載していた。
ぼくも、詩学という媒体に掲載された作品に
憧れを抱いていた頃がある。
詩は、消費されるものではない。閲覧されるものでもない。
詩は、その強度を体験するものであり
生きる上での、かけがえのない「いのちの強度」にも寄与するものなのだ
だからこそ、1000円も2000円も3000円もする本を買ってきた。
ふたたび言うが、それは善とは言わない。時には必要悪であるかもしれない。
同人誌で、ガムテープを貼り、郵便局へ大きな荷物をもっていき
印刷屋の人と金のことで、ねぎり、同人会の出欠をとり
まだ振り込まれない同人費の心配もする。
それは、ただ必要悪であるだけなのか。
すくなくとも、詩が「消費され」「閲覧される」だけのものではない
「試され」「示される」「強度」であることを確認するための
仕事であることを意識するためのなにかなのだろう。
「作品の強度」は、「声の強度」や「演技の強度」ではない。
声や演技の技術は、作品の強度のための付随する近接メディアの
助けであり、当該のファクターではない。
それなのに、たとえば朗読をして、私にかえってくる批評は
「迫力ありました」「いい声ですね」など、朗読の巧拙の批評だったりする。
朗読会もまた、自分の「作品の強度」を試す。
また、他人の「作品の強度」を知る。そのための機会でもあるのに。
つづきはまた。
500人読んでも、誰一人として伝わることのない詩もある。
その場合、メジャーやマイナーという尺度は、
マーケットが付するだけのことで、作品や作者にとっては
そんな尺度はない。
詩を書き、詩を読み始めると、あるいは詩の世界にふれ
その世界に入りだすと、さまざまな詩作品と出会う。
その場合、一読したときに嫌悪を感じ、退屈だなあと感じても
数年をへて、読みなおしたときに、その深さに驚くときがある。
逆に前衛だと感じていた詩が、のちに、後衛だと思うこともある。
長い歴史の中で、いろんなところで
いろんな詩が書かれている。
同人誌活動では、同人会などで、同人という他人の詩を読む。
語り合うわけだから、深く読む。
メジャーやマイナーなどという、誰が決めたのかわからないような
尺度に頼ることなく、自分の「作品の強度」を試す。
また、他人の「作品の強度」を知る。
詩誌を他人に送り、反響をいただくというのも、
「作品の強度」を試し、知ることだと思う。
詩を書くこと、詩を読むこと、はじめは自らの作品に向けられていたのが
しだいに、他人の詩にむけられる。
同人の作品に向けられていた視線が、さらに詩史上の著名な詩人の作品
詩史からははぐれているが、すぐれた無名の詩人の作品にも
向けられる。
「作品の強度」、それはあくまでも「自らの強度」という政治的なものではなく
純粋に彼方に架けられる望みなんだけど、
その強度のために、詩以外の思想書や小説や随筆や漫画や映画や音楽などにも
貪欲に食指をのばす。
そうして、他人と出会う。
実際にリアルに会って、酒をのみ、たまにはからんで敵対もする。
いとおしさで、愛情を感じることもある。
そうしたことが、すべて善ではないが、文学体験ということだと
思う。
詩学社という詩のメディアが昨年、廃業した。
「詩学」という詩の雑誌媒体は、こうした、文学体験を交差させるだけの
媒体性を一時はもっていたように思われる。
100人のうち、30人の読者に伝わる詩も、
500人読んでも、誰一人として伝わることのない詩も
「作品の強度」という視点をもって、問題作を掲載していた。
ぼくも、詩学という媒体に掲載された作品に
憧れを抱いていた頃がある。
詩は、消費されるものではない。閲覧されるものでもない。
詩は、その強度を体験するものであり
生きる上での、かけがえのない「いのちの強度」にも寄与するものなのだ
だからこそ、1000円も2000円も3000円もする本を買ってきた。
ふたたび言うが、それは善とは言わない。時には必要悪であるかもしれない。
同人誌で、ガムテープを貼り、郵便局へ大きな荷物をもっていき
印刷屋の人と金のことで、ねぎり、同人会の出欠をとり
まだ振り込まれない同人費の心配もする。
それは、ただ必要悪であるだけなのか。
すくなくとも、詩が「消費され」「閲覧される」だけのものではない
「試され」「示される」「強度」であることを確認するための
仕事であることを意識するためのなにかなのだろう。
「作品の強度」は、「声の強度」や「演技の強度」ではない。
声や演技の技術は、作品の強度のための付随する近接メディアの
助けであり、当該のファクターではない。
それなのに、たとえば朗読をして、私にかえってくる批評は
「迫力ありました」「いい声ですね」など、朗読の巧拙の批評だったりする。
朗読会もまた、自分の「作品の強度」を試す。
また、他人の「作品の強度」を知る。そのための機会でもあるのに。
つづきはまた。
1980年半ばの「詩学」の投稿欄には書いて載せてもらえない空気が私にとってはありました。どうやってこんな詩がうまれるのだろうということを以前大阪に住んでいたときに、書店で読んで呆然としたことを思い出しました。
現代詩手帖や詩学の投稿欄にのっていた作品は
その当時、自分と同世代でありながら
その強い作品の有り様に畏怖していたことを
自分も思い出します。
詩の世界というのは、もうとてつもなく広くて
深くて、迂遠であえかな霧がかりの世界。
生活日記のようなものだけが詩と思っていた時に
そうした、とてつもなさに出会うのは大事ですね。
そこまで、目を広くさせていかないと
自分の詩の世界も、救われないと思ったりもしますね。
「詩学」は、あるときから、考えがあってのことだろうけど、詩の世界をかなり狭小化して見ていたように
思えるのです。
一見、時代の流れ(トレンド)にのろうとしたのでしょうが、トレンドとは単に流通や消費や閲覧の傾向であったにすぎず、「作品」ではなかったのでしょうね。
もうじき新しい同人誌創刊します。
詩という世界が、
これも性急で刹那に満ちて
「消費」と「流通」と「閲覧」に
それが当然のこととして馴らされてしまったような気がする。
そこで、なんだか、知らぬ間に
これもまた、性急で刹那に満ちた内に
「けなげさとはかなさ」という貴重なスタンスを
忘れかけていたように思います。
「書店での流通」を約束して急速に発行巻数を
伸ばした、S風舎。
詩集が書店に置かれたとしても、それは
どうしたことでもない。
「作品の強度」が磨かれたり試されたり、評価を
加速するとも思えない。
一方、鈍重で緩慢であるからこそ、深さと広さを
度量として受け入れてきた、詩のメディアが
「消費」と「流通」と「閲覧」の狂騒や渦に巻き込まれ、性急に刹那のうちに廃業したのが
S学社ではなかっただろうか。
これは、十分にやり直せるような気がする。
自分もまた、今一度、こんなこと自覚しながら
いろいろやつていきたい。
リーディングもWEBも。
そして同人誌も。