コメントのレスですが、ここにも掲載します。
「わかる」も「わかった」も、事後ですね。
書く前から「わかるも、わかった」もない。
書いてから、第一読者である作者が、はじめて諒解する。
この最初の諒解は、自由であっていいけれど
そこからは、はぐれていきます。
意味が、自分からはぐれていきます。
それから再度読んでも、はぐれたままであっても
新しく更新された、「自分のようなα」に出会うことができます。これは、作者以外の他人=読者と共有できますね。
最初から
>狙ってわかりたい人達に向けて書くことができたら、
「詩らしきもの」で商売できてしまうんだろうか
それならば、商売人が詩らしきものを書いている
ということになります。
詩人というのも、事後的です。詩を書く以前から
詩人なんて者は、どこにもいない。
上の、逡巡する諒解上だけにいる。
詩人と称しているから、詩を書いているとも限らない。
商売人が詩らしきものを書く、これはこれで否定しよう
とも思いません。
「スカッとさわやかコカコーラ」
という、惹句。
武者小路実篤の
「仲よきことはよきことかな」や
相田みつおなどと、そんなに違いません。
わかりやすくて、商売にもなっています。
でも、この主格は、コカコーラ、
あるいは、コカコーラの会社
あるいは、コカコーラの社長
かもしれません。
わかりやすくて、嘘でもないかもしれません。
どこにも、逡巡がないし、発見もありません。
うまいものは、うまいだろうし。
炭酸は、スカッとします。
★自分の
自分ではないものたとえば、「棕櫚の木」
★思ったこと、感じたこと
思いも、感じもしえないことを
★自由にのびのび
逡巡、迂回、屈折、呻吟、停止しながら
★書く
沈思する。
★は、教科書的で、★の下の文をつなげると
「棕櫚の木」が「思いも、感じもしえないこと」を
「逡巡、迂回、屈折、呻吟、停止」しながら
「沈思」する。
これが詩かもしれません。
萩原朔太郎に「死なない蛸」という世にも変な作品があります
「棕櫚の木」を「死なない蛸」にしてもいいでしょう。
★
昨日、中沢新一の「ミクロコスモス」という本をちらちら見ていて
「音楽の不死性」という言葉に目がとまりました。
「スカッとさわやか」なんかは、コカコーラが死んだら
言葉も死んでしまいます。というより、その言葉は、
大衆に浸透し、諒解された時点で、指示性が成就されて
死んでしまいます。
音楽は、すぐに記憶から消え、なんの諒解も得られないまま
生き残りつづけます。
無理矢理に、難解な言葉を書くのではなく
その故意のなかで、諒解が成就されて、その難解な詩も
即死です。
ではなく、しようがなく、事後どうしても
言葉で諒解できないけれども、身体か身体外のなにかか
どこかに留保されつづける、事後の難解は
不死かもしれません。
★
円空
芭蕉
レヴィ・ストロース
エリック・ドルフィ
ジョン・オグドンの弾く、メシアンの
「幼児イエススに注ぐ20のまなざし」→たまたま聴いていた
などのことを考えてみましょう。
彼らは、
「棕櫚の木」が「思いも、感じもしえないこと」を
「逡巡、迂回、屈折、呻吟、停止」しながら
「沈思」する。
ことを、生きた、まったき詩人です。
「死なない蛸」はすごくヘンだけど厳しく切ないですね。あれは蛸という生物が絶滅しても死なない蛸のような気がします。