なんでこんなこと書いているんだろう。
ぼくは、紙に詩の行が
一行一行あらわれて
それが、ちいさな薄い本になって
その間にいろんな煩雑な雑務をやって
郵便で送って、
いろんな、「けなげさ」が大好きだ。
そうやって、そんなこと好きになつているんだろうな。
詩のリーディングって
ぼくも、よくやっているほうだと思うけど
いつもいつもずっと違和感を感じていて
これは、「けなげ」やないねえ。
と思っている。
紙の媒体で、あんなにもしんどくはかない作業を
へて、読者や読者の反応は
当然のごとく、はかなくて
弱弱しく、薄くて
その当然のごとくが、よく自分に沁みていて
言葉を書いて、それを伝え、感応を得ることは
そこに大事なかけがえなさがあると
思っている。
けなげさ、あやふやさ、薄さ、弱弱しさというのは、
かすかな読者への距離感だろうな。
距離感があるからこそ
書かれたものは、どこかで、中空を迂回して
袋小路を行ったり来たりするわけで
この行ったり来たり、迷ったり
消えかかったりということを
信じているのだろうな。
この中空に投げ出された
迂回のほのかな点滅のような時間を
リーディングの空間でも
いっぱいみんな感応できたらいいなとも思う。
でも、肝心の距離感をあらかじめ閉じて
とってもふつうの出し物みたいな現実にしてしまったら
「けなげさ」までも
ぼくらは、捨ててしまいそうで嫌だ。
この世の中、潔くけなげなことって
まだあると信じたいし、そうしていたいね。
詩の同人誌って、まだ
なにかいっぱい、ぼくは感じなくてはいけないことが
あるような気がする。
リーディングでも、朗読は聴いてくれてはいるけれど
もちろん、けなげさもはかなさも
伝わらないと思うし、
ほんとうに、「読み」の共有が生まれるのかなあと
疑問を抱く。
だれかの詩に感応することって
すごく刹那でもあるし、とほうもなく
長い時を要すると思うし、
嫌悪感を抱くことのほうが多い。
リーディングの空間でも
なぜだか、理屈で理解できないけど
読む側も、すごく嫌悪感を抱くときがあるし
聴いている側も当然そんなときがあるだろう。
それが詩の、ほんとうのことだと思う。
そのことに自然なスタンスをとっていたい。
なくなったら、詩ではなくなってしまうのかもしれません。
何なのでしょうか。