札幌・北海道のレトロ建物大好きおぢさん日記

札幌(北海道)のレトロでモダンな建物を見たり撮影するのを趣味としています。

田上義也氏の設計探訪(未確認物件) ※2軒追加しました

2024-05-10 09:19:02 | 田上義也氏

田上義也(たのうえ よしや、1899年(明治32年)5月5日- 1991年(平成3年)8月17日)は、日本の建築家、音楽家。

大正から昭和にかけて、北海道を拠点に活躍した。若くしてフランク・ロイド・ライトの影響を受け、確かな腕を持つ棟梁の小島与市と出会った。北海道の気候風土に根ざした、特徴的な要素を持つ洋風建築を数多く残している

また、札幌交響楽団の創立者でもあり、初代指揮者も兼務した。 
※wikipediaより

 

現存する主な設計作品として

※旧小熊邸(現ドリーバーデン)札幌市
※坂牛邸 小樽市
※旧佐田邸 函館市
※旧北見教育会網走博物館 網走市
※北海道銀行本店 札幌市
※八雲町庁舎・公民館 八雲町
※人形劇場こぐま座 札幌市
※日本キリスト教会札幌北一条教会新会堂 札幌市
※札幌教育文化会館 札幌市
※北海道立旭川美術館 旭川市
※本郷新記念札幌彫刻美術館 札幌市
※豊平川さけ科学館 札幌市

上記以外でも現存、すでに解体された建物がたくさんあるのが特徴。

 

いくつかの書籍やサイト、ブログ等で設計したことがわかっても
それが現在残っているのか無いものなのか自分でわからない物件を深堀していきたい。

ただ「これは⁈」という物件があっても確証が無いものがあり
ここに保留物件として記載して行こうと思う


田上氏関係の書籍以外に研究のサイトとして非常に参考となる
「札幌ノスタルジック建築散歩」様を参考にさせていただきました

 

 

 

1976年 大成寺会館 当別町 NEW

「当別町 大成寺会館」で書籍に記載があったので検索するとこちらになった
というだけで確認はしていない。

田上氏の設計では宗教ではキリスト教教会に代表作があるが仏教ではあまり聞かない 
もとより氏自身が洗礼を受けた教徒であるからだろう

神社では札幌伏見稲荷会館がある。

どのような経緯でお寺の会館を設計したかは不明
大きな三角屋根が特徴な建物だ。

 

 

 

 

 


2021年4月撮影

 

 

1975年設計 月寒公民館 札幌市豊平区 NEW

 

月寒公民館も設計リストに載っていただけで、この建物が田上氏の設計とは確証はない。
ただ建物が築48年で補修次第で使えること、国土地理院の航空写真で1961~1969年では別の建物だが
1974年版には現在と同じ建物が写っていること。
なにより他に「月寒公民館」が無いことにより、そうではないかと思われるが…

この公民館は区役所ではなくても住民票や印鑑証明など各種証明書が取得できるので便利だ
その昔に旧豊平町として役場がここにあったからと思われる
豊平区が設立され現在地に区役所が新築されるまで役場はここにあった。

その後、ここの役場は解体され田上氏による公民館が建てられたと推測する。

国道36号線に向いている階段室の窓にデザイン性を見るがどうか

 

 

 

 


2021年1月撮影

 

 

1969年設計 丸越㈱ 帯広市 


書籍「北のまれびと」の田上氏設計史に
「1969年 丸越ビル 帯広」の記載あり

ネットで見てみると
昭和26(1951)年設立の「丸越株式会社」があり自社HPには社屋ビルの写真があった
繊維製品総合卸の会社で業者向けの卸会社である

田上氏との繋がりは不明だが、帯広に行ったので寄ってみた。

出来れば「定礎」があれば竣工年が判ったと思うが、探したが無かった。

一般個人への販売はしていないので関係者以外はビル内に入ることが出来なく未確認物件です

 

 

 

 

 

 

 

1967年設計 札幌造形美術学園 札幌市

この記録からネット検索すると「同名」の学校はヒットしない
類似したもので

①「北海道造形美術学園」 創立?
②「札幌美術学園」 創立1953年
③「北海道造形デザイン専門学校」 創立1961年 ※1966年北海道美術学校に改名

このうち①は創立年がわからず また現校舎はそんなに古いものではない
③は学校の沿革がきちんと記載されており田上氏の設計ではないようだ

②の「札幌美術学園」は60年の歴史ある校舎と謳っており、期待して行ってみた。


中央区南5条西26丁目


この正面の建物はまだ新しく見えたが、その裏に建つ建物が歴史あり


裏面


校名が見えるので、建築当時はこちらが本校舎だったのかも知れない。

屋根は変更されているように見えた
塗装の剥げ具合が歴史を感じる
連続する窓がいい感じだ。

 

田上氏、同年の設計で現存しているのは

「高台病院」 豊平区

これを推して似ているとは中々言い難く、札幌美術学園が田上氏設計の確証はまだない
もう少し調べてみたい。

 

これは学校案内のパンフにあったもの

 

 

1962年設計 K谷氏邸 札幌市


K谷氏は苗字しかわからない
しかし田上氏設計の建物の代表者にK谷氏の名前を見る。

自宅から始まり次に会社の建物を依頼する
またその逆も氏の設計にはよくみるパターンで、
古くは関場博士の別荘から自宅
旧小熊邸に入った北海道銀行初代頭取の島本氏は邸の増築から銀行支店の数々と例がある。

一応設計の記録では
1956年 施設の改築
1962年 自宅新築
1968年 施設新築竣工
1969年 寮新築 となっているが関係性の確証はまだない

K谷氏の自宅をストリートビューで見てみると、補修や改築はありそうだが
田上氏の個性は?と言われると……

ただ真上からの写真を大きく見ると

 

マークの下に見える白い枠はパーゴラではないだろうか
田上氏の住宅作品の中でパーゴラが一つの特徴でもあったと思う
ストリートビューからは木々が多く確認はしていないが。

もちろん他者でもパーゴラを用いたりするだろうが
今回は、「同性」の方が代表をしている施設の設計を田上氏がしていること
そして「同性」の方の自宅にはパーゴラがありそうなこと

だが同じく確証はないので保留としたい。

 


北海道のユースホステルと田上義也氏

2024-03-03 10:04:25 | 田上義也氏


「北海道ユースホステル協会」の役員に建築家、田上義也氏の名前が出てくるのは
昭和40年度(1965年)の役員として常任理事に名前がある。

昭和45年(1970年)から会長となった。


日本ユースホステル協会が直営する全国第一号は「支笏湖ユースホステル」だ
昭和35(1960)年に田上氏設計で全面改修され地表まで届くような三角屋根が印象的。

支笏湖ユースホステルは最古のユースホステルだが、令和3(2021)年の解体まで
林間に建物が現存していた。

田上氏は全国に14か所のユースホステルを設計されたと記載があるが
手持ちの資料と数が合わない
もしかして設計だけで建築しなかった物件があるのだろうか
もしくは軒数を「協会直営」のユースに限定したのか不明だ。

ユースホステルは全盛期には道内に108か所あったが現在(令和5年1月)では24か所に減少している
旅行者の意識や動向が変わっているのでやむを得ないだろう。

 

 

田上氏のユースホステル設計としては
「北のまれびと」現代美術社 1977年発行を参考にすると

昭和35(1960)年 宮ヶ丘ユースホステル(札幌)、支笏湖ユースホステル(千歳)
昭和36(1961)年 玉川ユースホステル(網走)
昭和37(1962)年 北湯沢ユースホステル(大滝)
昭和39(1964)年 日本ユースホステル協会功労賞を受賞
昭和40(1965)年 この年に常任理事になる
         富良野ユースホステル(富良野)、美幌ユースホステル(美幌)
昭和42(1967)年 定山渓ユースホステル(札幌)
昭和43(1968)年 ライオンズユースホステル(札幌)(日本ライオンズ青年の家)

昭和44(1969)年 標津ユースホステル(標津)
昭和45(1970)年 日本ユースホステル小清水中山記念館(小清水はなことりの宿ユースホステル)(小清水)
昭和46(1971)年 室蘭ユースホステル(室蘭)、イクサンダー大沼ユースホステル(大沼)、
         摩周湖ユースホステル(弟子屈)
昭和49(1974)年 留辺蕊ユースホステル(留辺蕊)、北海道青年会館(札幌ハウスユースホステル)(札幌)
昭和51(1976)年 サロマユースホステル(佐呂間)

上記の記録がある
古い建築物ゆえ、すでに解体されている建物が多く
またユースホステルとして閉館しているのも多い。

一応、解体された建物は各出版物の写真と、現存の建物はストリートビュー
ほか、なんとか撮影に間に合ったもので構成した。

 

写真転載出版物
青春の落葉様(ブログ)

※北のまれびと様現代美術社 1977年発行)
※北海道新聞社様
※75‘北海道ユースホステル様(㈶日本ユース・ホステル協会監修)
※札幌オリンピック施設様(㈱工業調査会 1971年発行)

 

「昭和35(1960)年 支笏湖ユースホステル(千歳)」 解体

全国で第一号のユースホステルで2021年まで現存していた
撮影は、解体年にラストチャンスで内部撮影が出来たので嬉しかった
印象的な螺旋階段は同様の形状を「網走市郷土博物館」でまだ見ることが出来る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※2021年4月14日撮影

 

「昭和35(1960)年 宮ヶ丘ユースホステル(札幌)」 解体

ネット検索で他の方のブログがヒットし所在地がわかった
現地には敷地を一段高くした後の石垣が残っていた
それ以外にはここにこんな建物があったとは思えないだろう。

 

 

 

 

 

※2021年5月6日撮影

 

「昭和36(1961)年 玉川ユースホステル(網走)」

確認中

 

「昭和37(1962)年 北湯沢ユースホステル(大滝)」 解体

航空写真では閉館後も建物が現存している
これは田上氏設計の建物を解体しての2代目のようだ
そう遠い場所ではないので確認してみたい。

 

 


昭和40(1965)年 富良野ユースホステル(富良野)

確認中

 

「昭和40(1965)年 美幌ユースホステル(美幌)」 閉館現存



「昭和42(1967)年 定山渓ユースホステル(札幌)」 解体

国道230号に近く、定山渓小学校の裏手にあったようだ



「昭和43(1968)年 ライオンズユースホステル(札幌)」 解体

田上氏はライオンズクラブメンバーとして他のメンバーの自宅や記念碑
その他の設計も多い
このユースホステルは当初「ライオンズ青年の家」として
オリンピックが行われた「宮の森ジャンプ競技場」のすぐ下に建てらえた。
現在は空き地になっている。

 

 

 

 

「昭和44(1969)年 標津ユースホステル(標津)」 解体



「昭和45(1970)年 日本ユースホステル小清水中山記念館(小清水)」 閉館現存



「昭和46(1971)年 室蘭ユースホステル(室蘭)」 現存

クラウドファンディングなどで営業をしているが客数が戻ったかが気がかり
早いうちに撮影したい1軒だ。

 



 

「昭和46(1971)年 摩周湖ユースホステル(弟子屈)」 現存

現在もユースホステルとして営業しているのは上記「室蘭ユースホステル」と
この「摩周湖ユースホステル」だけ
早いうちに見てみたい。

 


※HPより



「昭和46(1971)年 イクサンダー大沼ユースホステル(大沼)」 2022年解体

函館旅行への道中に立ち寄り撮影した 
この後に解体されたので、まさにギリギリで間に合った 
正面両側の太い柱や軒下の三角の換気口に個性を見る。

 

 

 

※2022年6月20日撮影

 

「昭和49(1974)年 留辺蕊ユースホステル(留辺蕊)」 解体

 

※2012年ストリートビューより

 

「昭和49(1974)年 札幌ハウスユースホステル(現:北海道青年会館)(札幌)」 現存

ビル型のユースホステルは珍しいと思ったが建物の一部を利用してユースにしていたようだ
現在は青年会館として宿泊を受けている。

 

 

 

※2021年2月16日撮影



「昭和51(1976)年 サロマユースホステル(佐呂間)」 2021年閉館現存

コロナ過での閉館となった 建物も現在は未使用のため痛みが早くなるかもしれない
解体される前に見に行きたいが遠い……
全貌は見えないが軒下の換気口が田上氏らしい?

※2023年ストリートビューより

 

1960,70年代のユースホステル建築で、それ以前にはリゾート地での
ホテルも設計している
それよりは小さめの宿泊施設になるが、氏らしいと思わせる特徴が外観にあり。

ほとんどが解体され、現存していても閉館しており中を見ることが出来ない
唯一「支笏湖ユースホステル」の撮影は幸運の何物でもなかった。

ユースホステルだけではなく設計された建物の多くは現存していない
数少ないユースホステルも現存しているものは何とか外観だけでも見に行きたいものだ。

 

 


田上義也氏の建築探訪②

2023-02-13 23:25:15 | 田上義也氏

田上さんが設計し竣工した建物は①までにもまだまだたくさんあったが、撮影する前にとっくに解体された建物が多い

②も現存している建物なので、これまでにネットでたくさん掲載されたものばかりです
古いものを見るということは、いかに早くスタートを切れているかにかかっていますね。

 

 

「八雲町庁舎」
1961年(昭和36年)
八雲町

 

この庁舎と公民館は田上義也氏の作品である。
 
やはり長い年月の間に補修、改修があった。
もっとも顕著なのは、竣工時には屋上に小さな塔屋があった
また屋根の庇は現在は下がっているが、竣工時は逆に上に広がるデザインであった。
 
とはいえ、まだ現役で残っているうちに見れて良かった
また八雲町、町民の皆さんの建物を大事に使う気持ちが伺える。

 

 

 

 


2022年6月撮影

 

 

「U氏邸」
1961年(昭和36年)
札幌市南区

 

外観は屋根を含めて改装があるが、60年も経つ家なので当然なのだろう。

月日も流れ周りは住宅でいっぱいだが建築当時はどうであったか
まだまだ住宅は少なかったように思える。

田上氏の札幌市内における一般住宅設計は初期は中央区に多く
戦後から各区に創っていったように感じる。

昭和30年代に田上氏に設計を頼めたのは、やはりそれなりの施主なのだろう。

 

 

 


2021年1月撮影

 


※北のまれびとより

 

 

「T氏邸」
1962年(昭和37年)
小樽市花園

 

小樽での田上氏設計は戦前が多いが、こちらの住宅は昭和30年代のもの

坂の多い町の中腹で角地に建てられており、道路からは住宅を見上げるようにして登っていく。

三角屋根やパーゴラ、大谷石が特徴で外壁や窓などは補修されているように見えた。

 

 

 

 


2021年3月、5月撮影

 


※田上義也建築作品抄より

 

 

「伏見稲荷会館」
1963年(昭和38年)
札幌市中央区

 

設計記録に伏見稲荷会館とあったので、おそらくここのことだと思うが…

伏見稲荷神社は
”明治17年京都伏見稲荷大社の御分霊を札幌市南5条に奉斎し、明治40年当地に社殿を建立し、稲荷神社として創立の許可を受ける。
大正8年村社に列各、昭和16年郷社に昇格した。
当神社の御祭神お稲荷様は衣食住の太祖であり五穀豊穣、殖産興業、商売繁盛の守護神として遍く万民の崇敬を集めるその御神威を、高く拝せられる由縁である。 ※北海道神社庁hpより

坂下から続く27基の赤鳥居が有名であり撮影スポットにもなっている神社である
ただし本殿は撮影禁止であった。

本殿の横に会館と駐車場があり車を入れたあと坂下へ戻り
鳥居をくぐりながら登っていくのである。

以前は会館内で喫茶があったようだ。

 

 

 

 


2021年3月撮影

 

 

「北海道銀行本店ビル」
1964年(昭和39年)
札幌市中央区

 

札幌市中央区大通西4丁目には田上氏設計の「道銀ビル」と、
隣に「新大通ビルディング」昭和54(1979)年竣工がある

道銀ビルは北海道銀行の社屋、本店として大通の一角を占めていたが
経営不振の時期に売却して現在はテナントである。

以前は田上氏の建築事務所もここにあった。

両ビルは平和不動産の所有で、同時に解体し2028年に1つの大型ビルとして生まれ変わる予定だ。(着工は2024年の予定で34階建て計画)

 

北海道を代表する建築家、田上義也氏の作品がまたひとつ無くなる
特に本店ビルは氏と道銀の密接な関係の集大成であり長く親しまれたビルゆえに残念だ。

 

 

 

 

 


階段の床は道銀カラーのグリーン


2021年4月撮影

 


※北のまれびとより

 

 

「旧山元氏邸」
1964年(昭和39年)
小樽市

 

個人住宅で同じ小樽市のT氏宅のような三角屋根と軒下の三角形ガラリが特徴。

奥まった場所にあるゆえ近寄ることは辞めた
住宅の手前には遮るものが無しで海まで一直線に見えた。

 

 


2021年2月撮影

 

 

「八雲町公民館」
1965年(昭和40年)
八雲町

 

庁舎ではおとなしめのデザインに見えたが公民館では田上氏の面目躍如といったところか
 
とにかくファサードが個性的で、ガクガクと八の字に広がる軒とはめ込むガラスが素晴らしい。
竣工時は素通しのガラスだったようで、現在はシートが貼られたように見える。
 
中のPタイルも、もしかしたら竣工時のかも知れない
階段も含め、何気なく見てしまう公民館だが、物色するかのごとく見学はちょっと反省した。
 
現在は教育委員会も入っているので、益々……おとなしく静かに見学しよう……。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2022年6月撮影
 

 


※北のまれびとより

 

 

「K氏邸」
1965年(昭和40年)
札幌市中央区

 

個性的な住宅だなと思っていたら、後にネットで田上作品と知った。

古くからの閑静な住宅街で道路幅が狭い 
突き当りに正面があるので見やすいが、全方向からは見づらい
改装があるらしい庭側はさすがに撮影は控えめに。

 

 


2021年1月、4月撮影

 

 

「旧坂本直行氏邸」2022年解体
1965年(昭和40年)
札幌市西区

 

坂本直行氏は1906年生まれ、北海道出身の画家で1982年に逝去されている。
北大卒業後に温室会社~牧場経営を経て北海道の自然を描いた風景画を描くようになる。

坂本氏はなんと言っても「六花亭」の包装紙を描いたのが有名で
中札内村にある六花亭の六花の森には坂本氏の記念館がある。

田上氏とは札幌詩学協会発行の「さつぽろ」でお互いが詩を書いておりそこで知り合ったという。

牧場を辞めた後に田上氏に設計を依頼しようと道銀ビルにあった事務所へ行った
最初に知り合ってから40年近くが経っていたという。

今回解体された住宅はアトリエと本人が語っている
そのアトリエもついに解体されていた。

更地になりその広い敷地に驚いた。

 

 

 

 


2020年11月撮影

 


2022年3月撮影

 


※北のまれびとより

 

 

「北海道農業近代化コンサルタント」
1965年(昭和40年)
深川市

 

この1965年に深川にこんなデザインの建物を建てるとは凄いなと素直に思った。

初期のステルス戦闘機のようで今にも飛び出しそうだ
また裏側がブーメランのようにカットされている
家で撮影した写真を見直しても裏側は1枚も撮影していなかった これは痛いミスだった。

窓の造作を見ても細かく、よくぞ作ったものだ
当時の竣工式ではさぞかし出席者を驚かせただろう。

2013年に「一般財団法人北海道農業近代化技術研究センター深川事務所」となる。

 

 

 

 

 

 


2022年5月撮影

 


※北のまれびとより

 

 

「K氏邸」
1965年(昭和40年)
札幌市豊平区

 

車で通ると目立つ場所にあるが、目立たないのである
それは幹線道路の坂道にあるので登り下りとも勢いよく走り抜けるのと
少し奥まっているからだ。

だがチラ見でもその特異なファサードは目に入る
なぜ屋根はこのような形状なのだろうか?裏側はどうなっているのだろうか?

気になって裏へ廻ってみると、すっきりした片流れ屋根になっていた
ただ軒は他とは違うような気がする。

 

 


2021年1月撮影

 

 

「高台病院」
1967年(昭和42年)
札幌市豊平区

 

限られた敷地内に建つ病院なので外観の個性より内部の充実に主眼を置いたのだろうか。

それにしても田上氏の病院建築はそんなに多くはないが、ほとんど知らないか解体されており現役はこちらだけ?
星井整形は一部残っているのかも。

 

 

 

 


2021年6月撮影

 

 

「旧藪氏邸」
1967年(昭和42年)
江別市

 

こちらの住宅はおそらく正面側しか望めないであろう
竣工時には無かった物置らしき建物が増えており
ブロックの堀や玄関前の造作も変わったようだ。

2階の特徴的な窓が健在であり、2階への階段室の窓も形は変われど
残っている。

 


2021年1月撮影

 


※北国の住まいより

 

 

「旧辻氏邸」
1967年(昭和42年)
札幌市厚別区

 

現在は歯科医院兼住居になっている
位置的に車道側から望むことになるが、住居側も個性がありそうだ。

やはり部分部分で修復や改装されているのはやむなしでしょう。

 

 


2021年1月撮影

 


※北国の住まいより

 

 

「桑園予備校」
1968年(昭和43年)
札幌市中央区

 

札幌の予備校といえば1970年代から80年代に「桑園予備校」と「札幌予備学院」の2強時代があったようだ
どちらも桑園地区に本校がありかなりの繁盛をしたらしい。

予備校はやがて少子化により規模の縮小から
本州大手の参入により吸収や廃業となった。

この建物は桑園予備校の2代目本校であった
そして一部改修されたが現存している。

 

棟の間に挟まるかのような縦長の部分は不明だが階段室かエレベーターか?
この部分が箱型の建物に大きく印象付けをしている。

桑園予備校の後は、札幌ソフトウェア専門学校、現在は札幌情報未来専門学校が使用しており桑園予備校の法人が運営している。

 

 

 

 


2023年1月撮影


※北のまれびとより

 

 

「くぼたビル」
1968年(昭和43年)
札幌市中央区

 

この「くぼたマンション」は田上氏の設計記録で「くぼたビル」と名前があるが該当しているかは未確認。

ただちょっと変わった小窓の使い方などが田上氏の作風に思えるがどうか?
ちなみに記録と定礎が1年違うのは設計年と竣工年の違いかと思う。

 

 

 

 

 

 


2021年1月撮影

 

 

「青樹社ビル」
1969年(昭和44年)
札幌市中央区

 

現在知るところでは田上氏の作品で唯一のススキノにあるビルか。

札幌駅前通りにあり両サイドをビルに挟まれた正面が細長い雑居ビルだ
わずかに階段の天井になんとなく田上風を感じるかも知れない。

 

 

 

 

 


2020年12月撮影

 

 

「M氏邸」
1969年(昭和44年)
札幌市中央区


札幌市を見下ろす高台にあり景色がすばらしい場所に建っている。

田上さんとしては珍しいデザインに思えるがどうだろうか
竣工時とはベランダが切られて堀がブロックからコンクリートに変わっている。

 


2021年1月撮影

 


※北のまれびとより

 

 

「月形ライオンズクラブ記念碑」
1970年(昭和45年)
月形町


田上氏は1969(昭和44)年にエルムライオンズクラブの第11代会長に就いている。
ちなみに初代会長は田上氏に1953年に住宅、1956年に自身の医院の改築を依頼した飯室進氏である。

この記念碑もライオンズクラズの繋がりで設計依頼したものと思われる
田上氏は1972年にガバナー(地区の運営責任者)となり建築以外でも名を上げることになる。

月形町の名所である「月形樺戸博物館」の前にライオンズの「L」をかたどり立っている。

 

 

 


2022年8月撮影

 

 

「S氏邸」
1971年(昭和46年)
札幌市中央区

 

ある有名なお店がすぐ近くにあり、買い物をしたついでにぐるっと車で回って偶然見た家があった
その独特な外観から記憶に残り、田上氏研究のサイトを見て確認できた。

パッと見てわかる軒の三角やひし形の通気口を見ると
さて田上氏設計であろうか?とネットや書籍で検証したくなる

それにしてもこちらは個性たっぷりで素敵な家だ。

 

 


2021年9月撮影

 

 

「旧中央信用金庫豊平支店」2021年解体
1971年(昭和46年)
札幌市豊平区

 

この建物は、ただ田上義也氏の建築設計記録に載っているだけで明確な確証はない
1971年の建築なので今年でちょうど50年
それくらいの年季が入った建物に見えたし1本裏通りからは建物の疲れた裏側面も見えた。
また奥行きのある建物の側面に覗くタイルに時代を感じた。


国道36号線に面しており古い街である豊平に開設するのは必然だっただろう
数年前に平岸店に統合され閉鎖され放置されたままであった
今年に入ってシートが掛けられたので、お役目御免だ。

6月に再度見に行った時には居並ぶ古い建物群の真ん中がすっぽりと更地になっており、その後に隣にあった傾いた建物も解体されていた。


 

 

 


2021年2月撮影

 

 


2021年8月撮影

 

 

「旧定山渓ニューグランドホテル福寿園」2021年解体
1972年(昭和47年)
札幌市南区定山渓温泉

 

田上氏は大型ホテルも手掛けているが残念ながら現役は無く、現存しているホテルはおそらく2棟のみ
もう1棟が廃墟同然に比べて定山渓にあるこちらは、まだ状態の良い方だ。(この撮影後に両ホテルとも解体された)

当初のホテル名は「定山渓ニューグランドホテル」で、2000年に「福寿苑」に改名。
 依頼主は国道側の「定山渓グランドホテル瑞苑」と思われる。
敷地自体があまり広くなさそうなので上へ上へと行った感じ
部分部分にちょっと変わった作りも見られるがホテルは内装を見たいものだ。

平成26(2014)年に閉館、その後社員寮となったと聞いたが撮影時は未利用に見えた。

 

 

 

 

 


2021年1月撮影

 


※北のまれびとより

 

 

「旧イクサンダー大沼ユースホステル」
1972年(昭和47年)
七飯町

 

昭和35(1960)年の支笏湖ユースホステルを皮切りに、田上氏は全道で
14棟のユースホステルを設計している。

イクサンダー大沼ユースホステルもその一つで、閉業はされたが建物が現存していた。
昨年6月に函館市にレトロ建物見学の旅行をしたが、このユースホステルは最優先物件である。

やはりいつ解体されるか分からないので見れるうちに早めに見たかった
氏の作品としては一般住宅を大きくしたと思わせるような外観に見えた
正面玄関わきの太い柱と菱形のガラリが特徴。

しかし1階の軒天などに痛みが見られる
このまま朽ちていくには惜しい建物だ。

 

 

 

 

 


2022年6月撮影

 

 

 

「函館友の会会館」
1972年(昭和47年)
函館市湯川町

 

「函館友の会」とは

‘‘友の会は、1930(昭和5)年、ジャーナリストで教育者の羽仁もと子を中心に雑誌『婦人之友』の愛読者によって生まれた女性の団体です。
海外も含めて約18,000人の会員がおり、「衣・食・住・家計」に関する生活の勉強・環境・子育てなどについて、年代を超えて共に学び合っています。

函館友の会は、1928(昭和3)年に発足しました。現在30代から90代までの会員が活動しています。‘‘

軒下窓と階段室にそれとわかる個性がある。
屋根の片流れにあわせて玄関から続く屋根も同角度で流している。
 
敷地は手前が広い駐車場で、遠目からズームでしか撮影できなかった。
背後にあるのは「KKRはこだて(国家公務員共済組合連合)」
こっちも感じが似ているなぁ。

 

 

 

 

 


2022年6月撮影

 


田上義也氏の建築探訪①

2023-01-15 23:14:09 | 田上義也氏

田上義也(たのうえ よしや、1899年(明治32年)5月5日 - 1991年(平成3年)8月17日)は、日本の建築家、音楽家。

栃木県西那須野村(現・那須塩原市)出身。本名吉也。

大正から昭和にかけて、北海道を拠点に活躍した。
若くしてフランク・ロイド・ライトの影響を受け、確かな腕を持つ棟梁の小島与市と出会った。
北海道の気候風土に根ざした、特徴的な要素を持つ洋風建築を数多く残している。

また、札幌新交響楽団の創立者でもあり、初代指揮者も兼務した。

※wikipediaより

 

上記の通り田上さんは個性的な洋風建築をたくさん設計しました。
だが古いものが多く代表作のいくつかはすでに解体されています
それでも建築活動が長かったので現存している建物もまだまだあります。

レトロ建物を撮影してまだ2年半ですが、田上作品をいくつか撮影し
中には解体に間に合わなかった建物や撮影後に解体された建物もあります。

ここでは自分で撮影出来た建物だけ載せていきます
いずれは解体された建物でも設計図や写真が残っているものを、まとめていきたいと思います。

 

参考とさせていただいたのは
昭和6  (1931)年発行 EDITIONS KENSETSUSHA 「田上建築画集」
昭和34(1959)年発行 ㈱建設情報社 「北国の住まい」
昭和41(1966)年発行 らいらっく書房 「田上義也建築作品抄」
昭和46(1971)年発行 ㈱工業調査会 「札幌オリンピック施設 -競技場・選手村・関連施設などの記録-
昭和52(1977)年発行 現代出版社 「北のまれびと<エゾライト・田上義也>上・下巻」

昭和58(1983)年発行 北海道銀行 「北海道銀行三十年史」
昭和62(1987)年発行 ライフ出版社復刻版 「田上義也建築畫集復刻版」
平成7(1995)年発行~~平成19(2007)年発行までの 北海道新聞社 「〇〇の建築探訪」シリーズ 

平成14(2002)年発行 「田上義也と札幌モダン」
平成23(2011)年発行 北海道銀行 「北海道銀行六十年史」
「札幌ノスタルジック建築散歩」様 

 

※建築年数の古い順で
※設計年と建築年で多少のズレがあります

 

「旧高田治作氏邸」
1925年(大正14年)
小樽市富岡

 

個人住宅の第一号が小樽の旧高田氏邸
第一号作品がまだ現存していることが驚きだ

高田氏は小樽生まれで小樽日報記者時代に石川啄木と親交があった人物。
人脈を介しての建築依頼と思われる。

坂の途中にある角地なので景色は良いであろうことは現地で確認できた
角ばった外観と窓の意匠、とくに階段室と思われる縦長の窓が印象的。

住宅街なので住民以外はあまり通らない場所だが、行って見れば思わず立ち止まって眺めてしまうだろう。

施主は数回変わっているが皆さん治すところは治しながら大事に住まれている。

 

 


2021年4月撮影

 

 

「旧小熊捍教授邸」
1927年(昭和2年)
札幌市中央区

 

北海道帝国大学(現在の北海道大学)の小熊捍(まもる)教授の自邸として建設された。

小熊教授は友人の西村北大教授の土地に建てたアトリエ(百円の家)を気に入り、設計者である田上氏を紹介してもらい自宅の設計を依頼したとあるが、北海道医師会初代会長であった開場博士の田上氏設計の自宅を見て気に入り田上氏を訪ねたの記もある。

昭和2年といえば田上氏28歳のころだった。

場所は南1条西20丁目にあったらしく、やがて隣にも田上氏設計の住宅(太秦北大教授邸)が建設された。
現在でいえば裏参道の入り口にあたる場所だろうか


※昭和33年当時の住宅地図 赤枠が「旧小熊邸」で名前は当時施主の「島本宅」
道路を挟んで西隣に「太秦」宅の名前も見える ここが西20丁目と21丁目の境目


邸の前の道路には路面電車がかつて走っていた(現在は地下に市営地下鉄東西線)
今はマルヤマクラスなどがある中央分離帯がある道路です。
西の突き当りが路面電車の旧円山公園電停跡でした。


※ストリートビューで見る現在地 左のMSが南1条西20丁目、道路を挟んで21丁目なので
ここに「小熊」「太秦」の田上氏設計の住宅が並んでいたと思われる。

 

東京帝国ホテルの建設で師事したアメリカ人の建築家フランク・ロイド・ライトの影響を受け、
大きく張り出した軒、窓の形や水平性を強調したデザインなどにロイドの影響を感じられる。

現在、2階正面に飾られている写真が小熊教授。
建築中に教授連を連れて見学に行ったら思ってもいないような作り方をしているので怒り「こんな家に金は払わない」と帰ってしまった。

その後に田上氏に謝罪し和解をしたエピソードがある
田上氏も若く自信もあり譲らなかったのでしょう。

小熊邸を訪ねた教授連や知人などからさらに田上氏に設計依頼があった。

移築後の場所は伏見5丁目。

 

 

 

 

この建物にはまだエピソードがある。

小熊教授が本州に転勤した後、創立したばかりの「北海道銀行」の所有になり
東京から来た初代頭取、島本 融氏が居住し大変に気に入った。
設計者である田上氏を呼び歓談したとある。

島本氏はその後この家の増築、東京の自宅、それに70を超える北海道銀行の支店や寮、保養所の建築を田上氏に依頼した。
また邸を訪ねた客が住宅を気に入り田上氏に建築の依頼をしたり
北海道銀行の重役なども住宅依頼をしている。

 

田上氏の建築人生には戦後の空白期間があるが、その時に島本さんと出会ったことは
田上氏の人生において大きな意味があったのではないか



※北海道銀行三十年史より

 

所有者が変わったりしながら、平成に入ると解体を危惧した市民の保存運動が起こり現在の地に平成10(1998)年に再現された。

当時の建物の建材はほとんど使われていないようなので移築とはいいがたいようだ
ただ建物のモダンさは当然として田上義也氏にとって意義のある建物と理解され
保存しようとした当時の市民関係者に敬服します。

 

現在はフィッシングショップの「ドリーバーデン」が1階と2階を使用しカフェを営業している。
内部を見るには釣りの商品かカフェを利用することだ。

 

 

 

 

 

 


2020年9月撮影

 


※田上建築画集より

 

 

「旧坂牛直太朗氏邸」
1927年(昭和2年)
小樽市入船

 

田上氏初期の作品に小樽の建築が多い
「田上義也と札幌モダン」では小樽人脈として、坂牛直太朗氏をあげている。

坂牛氏は小樽新聞社の社長であった上田重良氏の没後、夫人の久寿子さんが社長となり
それを補佐したのが女婿であった坂牛直太朗氏である。

大正13(1924)年に田上氏が突然来訪したときから交友が始まったと述べている
この前年に田上氏は「バチェラー学園」を竣工しているが、バチェラー氏は
坂牛氏が教会委員を務めた小樽聖公会に札幌から月1で来ていた。

そのようなバチェラー氏、キリスト教を背景として田上氏が人脈を作ったのかも知れない。

坂牛邸は張り出した多角形の応接間や垂直、水平線が印象的な個性的な家で
旧小熊邸と並び現存する中で代表作だと思う。

小樽公園を目の前にし、反対方向には天狗山が見える
お向かいには小学校も新設された。
所有は坂牛家だが現在は居住していないように見えた。

今の隣家は宗教法人の「MOA」になっているが、かつては坂牛氏の義母(上田家)の家があり、新築も田上氏が手掛けた。
建物は解体されたが名残りの「サイン」が坂牛邸との境の石垣に彫られている。

 

 

 

 

 

 


2021年4月撮影

 


※田上建築画集より

 

 

「旧佐田作郎氏邸」
1928年(昭和3年)
函館市元町

 

佐田氏は商事会社の社員としてカムチャッカや上海などで腕をふるい
函館出張所では主任として赴任する。
上海での勤務を活かし函館最初の支那への直航船を向けるなどして
海産商、経済界、社交界、やがて市議として活躍された。
そして終戦の一か月ほど前にフィリピンで戦死している。

佐田氏との関係性は現在不明だが、札幌の旧小熊邸の翌年に竣工しているので同時期の設計ではと言われる。

通称「プレイリーハウス」と呼ばれるがこれは田上氏の師匠であるF.Lライト氏が建てた建物の様式
「プレイリースタイル」に由来する。
ただ意匠は同じではないようだ。

観光客の多い元町であるが住宅街の小路突き当りにあるのでひっそりとしている。

後年にカフェの「日和茶房」に再利用されたが、閉店してしまった
現在は建物の内部を見ることは出来ない状態だ。

札幌の旧小熊邸、小樽の坂牛邸と並ぶ田上氏初期の代表的な住宅建築であろう。

 


 

 

 

 

 

 


2022年6月撮影

 


※田上建築画集より



※2015年札幌cafe本より



「S氏邸」
1929年(昭和4年)
札幌市中央区

 

S氏は北大農学部を卒業し、教官として残った。
同じ北大の小熊教授や太秦教授のどちらも知人であり、どちらの自宅を訪ねても建ち並ぶ田上設計の邸宅を見て紹介してほしいと頼んだのであろうか。

またS氏は北大恵迪寮の寮長であり、寮出身の小熊氏との交友はそこからかも知れない
現存しているS邸は増築や改築があり、建設当時とは1階の連続するガラス窓と2階の角にある窓にそれを見ることが出来る。

通りからは木々が多く満足に外観は見えないが、建物の裏側に建築当時の外観を見れるそうだ(敷地外からは見えないが)

当時は隣に養父である北大二代目学長である南鷹次郎氏の家があったが現在の所有者は別になった
ただ、S邸から3軒並んでレトロな建物が並んでいる
一番端の角の家は「札幌の建築探訪」に載るほどの家である。


 

 


2021年1月撮影

 

 

「S氏邸」
1930年(昭和5年)
札幌市中央区

 

S氏は北大医学部の教官出身の内科医師であり、竣工当初は医院兼、住宅であったようだ。

写真を見ると竣工時とは大きく改築されていることがわかるが
円筒形のデザイン箇所は原型に近い形で残されたようで医院当時は待合室であったの記載もある。

S医師と田上氏とは先に住宅を施工した医師会の人脈で依頼したのかも知れない。
(札幌市医師会館の建築も田上氏の設計による)

私事だが数十年前になるか、同じS医院という名前で駅前のビルに入居していた内科医院があった。
熱があったり風邪をひいた時はそこへ行っていた。
当時でさえすでにおじいちゃん先生であったが、もしかすると施主と関係があったかも知れない。

 

 

 


2020年8月、21年1月撮影

 


※田上建築画集より

 

 

「旧瀬川氏邸」
1930年(昭和5年)
小樽市見晴町

 

旧瀬川邸も現役の個人住宅である
海が見える山側にあり、撮影場所の車道から見上げるように敷地はよく見えるが
住宅が隠れるくらいに樹木があり全貌はよく見えない。

わずかに垣間見える玄関や窓枠の意匠などが歴史を感じさせる
外観の角ばったところが田上氏デザインを思わせるくらいかも知れない。

瀬川氏は当時「北海タイムス」の営業局長であった
美術・芸術のジャンルにより田上氏と北海タイムスの人脈繋がりが深くなった結果、田上氏に依頼したと思われる
この見晴町の住宅は当時の近辺の建物同様に別荘ではないかと思われる。

道路向かいには、田上氏の代表作であった「坂別邸」があったが2007年に焼失した。
坂別邸は1927年の竣工なので、それを見た瀬川氏が田上氏に設計の依頼をした可能性もある
いずれにしても映画のロケ地にまでなった旧坂別邸を惜しむ声は多い。

 

 

 

 


右側に旧坂別邸があった 2021年1月撮影

 

 

「旧石狩海浜ホテル跡」
1937年(昭和12年)
石狩市弁天町

 

1937年に竣工後、内部未完成のまま1945年に空襲により焼失した
戦後も80年近くなると札幌、石狩に空襲があったこと自体知らない市民が多いだろう。
爆弾を落とす方は海辺にある大きな施設が目立ったからではと思う。

その後、最近になって「石狩海浜保護センター」敷地内で風呂場跡が発見され
専門家の研究により「石狩海浜ホテル」跡と確認された。

 

 

 

 

 

 


2021年5月撮影

 

 

「旧帝産落部事務所」?
1941年(昭和16年)
八雲町落部

 

どなたかのブログに旧帝産落部事務所と記されてあったが真偽は不明
改装はされており確かに独特の設計かと思うが…

田上氏は一時、請われて会社経営をしたことがある
それが旧帝産航空株式会社で、八雲町落部で取締役工場長に田上氏が就いた。
 
戦時中に軍機に使用するベニヤ板を製造していたので戦後は米軍が摂取に来て
役員である田上氏には責任を科せられるかもだったが事なきを得た
また作家の伊藤整を夫人同士の繋がりにより雇用をしていた。
 
 
工場がこの敷地周辺にあり、建物は事務所であったとの情報を見た。
工場の創立は昭和18年ころで、工場は戦後に閉鎖されいくつかの会社の手に渡ったのち解体されたようだ。

現在「落部7区会館」になっているこの建物は当時のものの可能性があり
田上氏設計の可能性もあり?
 
現地に誰かいれば聞くことも出来たが誰もおらずかなわなかった。
建物は窓の小割風がなんとなく田上氏っぽくないかなぁと想像するのも楽しい。

 

 

 

 


2022年6月撮影

 

 

「更科源蔵氏邸」
1956年(昭和31年)
札幌市中央区

 

更科氏(1904-1985)は北海道生まれの詩人、アイヌ文化の研究家である。
田上氏設計である平取町の二風谷小学校の校歌も作詞している
また北海道立文学館の初代理事長も務めた人物であった。

更科氏も伊藤整と交友があったとのこと
1985年死去 故郷の弟子屈町に「更科源蔵文学資料館」がある。

田上氏とは北海道立図書館(現北菓楼札幌本館)にて知り合った
共通の友人である金田一昌三氏(のち田上氏設計の住宅を建築するが解体)が館長をしていたのでその繋がりであろうと言われているが
更科氏の談によると昭和7.8年ころ田舎で印刷屋をしていた時に見慣れない不思議な男が名刺の注文をした
それが田上義也と更科氏の出会いと述べている。

写真の茶色の壁の部分が改築された箇所で、屋根が正三角のファサードであった建築時の写真と比べたら大きな違いがわかる。

のち田上氏設計の「北1条教会」が取り壊される計画が報道されると、更科氏ほか田上氏と交友がある人たちが中心になり
保存の会を立ち上げ保存運動をした(結果は1979年に解体された)

 

 

 


2021年1月撮影

 


※北のまれびとより

 

 

「西條八十歌碑」
1958年(昭和33年)
函館市啄木小公園

 

田上氏は住宅や施設だけではなく、このような碑も制作している
令和4年、函館に行った際、啄木像のある海辺の公園が目印で行ってみたが
田上さん自身も西條さんと共にここでこの啄木像を見たそうだ。

碑には函館ライオンズクラブと函館東ライオンズクラブの銘がある
田上氏も1969年に札幌エルムライオンズクラブの会長に就いている。

他のジャンルと同様にライオンズクラブも田上氏の人脈を広げるのに
一役買っていた。

 

 

 

 


2022年6月撮影

 

 

「旧支笏湖ユースホステル」2021年解体
1960年(昭和35年)
千歳市支笏湖

 

支笏湖ユースホステルは日本最古のユースホステルであり
現存している最古のユースホステルでもあった。

当初は1955年に旧支笏小学校の校舎を利用し開業したとある
その後1960年に三角屋根の旧館を田上氏が設計建築した。

田上氏は同年に札幌の「宮ヶ丘ユースホステル」を設計し、その後も多くのユースホステルを設計した
また支笏湖には1967年に「ホテル鹿の湯」を設計している(解体済)

湖畔にほど近い木立の中に見える赤く三角の屋根が地上にまで延びているのが外観の大きな特徴であった。

内部には螺旋階段を設け、これがとても印象的
田上氏の代表作に螺旋階段を設けた施設が他にもある。

また階段廻りの小さな窓は師匠である F・L・ライトの意匠に通じるものがあると言われる。

すでに数年前から旧館は営業しておらず林間に姿を見せるだけであった。
訪問時には、照明関係や備品等も取り外されており
一部の床や躯体などに不安がありそうだった。

支笏湖ユースホステルは2021年3月に鶴雅グループが取得した
その後、再開発が企画され支笏湖ユースホステルは解体された。

建物には人間もそうだが寿命があり、長く大勢の宿泊客に親しまれたまま
ピリオドをうつ。

最後の最後に内部を見ることが出来て感謝しかないなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2021年4月撮影

 


※2021年北海道新聞より

 

 

「旧宮ヶ丘ユースホステル跡」
1960年(昭和35年)
札幌市中央区

 

宮ヶ丘ユースホステルは支笏湖ユースホステルと同年の竣工だが、ホステルの開業自体は支笏湖のほうが5年早い。

場所は札幌市中央区の円山の林の中で、閉業~解体後の現在は散策路が整備されている。

ユースホステルの名残りは、建築と同時と思われる石垣が残っていた
現在では建物があった痕跡など一つもないが不自然にある石垣こそが
ここにユースホステルがあったと証明してくれる。

竣工時のホステルは何と言ってもサイロ型の展望台だろう
旅行者に北海道らしさを味わって欲しかったのか
また赤レンガを使用しているのも同様の理由かもしれない。

ちなみに田上氏は「北海道ユースホステル協会」の会長を務めていた時期がある。

 

 

 

 

 


2021年5月撮影

 


※北のまれびとより

 

 

「旧カトリック海の星保育園」
1960年(昭和35年)
函館市日乃出町

 

SNSで知り合った方より、この建物も田上義也氏の設計と教えていただいた。
創建時は、両翼があり今の場所から数10メートル左に移動した場所にあったことが2011年のストリートビューで確認できた。
 
次に2016年のビューでは現在の位置にある建物が建てられていて
同じ建物が並んでいるのを見ることが出来る。
 
そして2021年では現在の建物だけで左側にあった同じ形の建物は解体され
新園舎が出来上がっていた。
つまり古い建物を解体するときに、先に同じもの建ててから古いほうを解体した
そういう計画だったのだろう。
なので実際には2016年ごろに新築されたものが残っている。
 
田上氏設計の北湯沢ユースホステルで見る尖形のせり出す屋根
中部の窓はステンドグラスになっており園児のお祈りをする場所のようだ。
 
現在は「うみのほし認定こども園」として多くの子供を見守っている。
 
 
 
 
 
 

2022年6月撮影

 


※公式HPより

つづく