札幌・北海道のレトロ建物大好きおぢさん日記

札幌(北海道)のレトロでモダンな建物を見たり撮影するのを趣味としています。

木造校舎・閉校 夕張市の閉校③

2022-11-26 09:56:52 | 木造校舎・廃校

夕張市の閉校(小学校) ※赤字はレポート済

  • 夕張市立真谷地小学校(1975年真谷地西小へ統合)
  • 夕張市立夕張第二小学校(1975年統合により旭小へ)
  • 夕張市立丁未小学校(同上)
  • 夕張市立福住小学校(同上)
  • 夕張市立鹿島東小学校(1978年鹿島小へ統合)
  • 夕張市立鹿島小学校奥鹿島分校(1956年桜ヶ岡小から改称、1978年鹿島東小から移管、1980年6月30日鹿島小へ統合)
  • 夕張市立夕張第一小学校(1983年旭小と統合し夕張小へ)
  • 夕張市立旭小学校(1983年夕張第一小と統合し夕張小へ)
  • 夕張市立若菜小学校(1983年若菜東小と統合し若菜中央小へ)
  • 夕張市立若菜東小学校(1983年若菜小と統合し若菜中央小へ)
  • 夕張市立沼ノ沢小学校(1985年真谷地西小と統合し緑小へ)
  • 夕張市立真谷地西小学校(1985年沼ノ沢小と統合し緑小へ)
  • 夕張市立紅葉山小学校(1986年統合によりのぞみ小へ)
  • 夕張市立登川小学校(同上)
  • 夕張市立楓小学校(同上)
  • 夕張市立清水沢小学校〈初代〉(1989年清陵小と統合し清水沢小〈2代目〉へ)
  • 夕張市立清陵小学校(1989年清水沢小〈初代〉と統合し清水沢小〈2代目〉へ)
  • 夕張市立南部小学校(1990年遠幌小と統合し幌南小へ)
  • 夕張市立遠幌小学校(1990年南部小と統合し幌南小へ)
  • 夕張市立鹿の谷小学校(1997年)
  • 夕張市立鹿島小学校(1998年)
  • 夕張市立富野小学校(2001年)
  • 夕張市立幌南小学校(2008年清水沢小へ統合)
  • 夕張市立清水沢小学校〈2代目〉(2011年統合により夕張市立ゆうばり小学校へ)
  • 夕張市立夕張小学校(同上)
  • 夕張市立滝の上小学校(同上)
  • 夕張市立若菜中央小学校(同上)
  • 夕張市立緑小学校(同上)
  • 夕張市立のぞみ小学校(同上)

中学校

  • 夕張市立若菜中学校(1949年11月25日鹿ノ谷中と統合し若鹿中〈1950年千代田中へ改称〉へ)
  • 夕張市立鹿ノ谷中学校(1949年11月25日若菜中と統合し若鹿中へ)
  • 夕張市立真谷地中学校(1952年沼の沢中と統合し向陽中へ)
  • 夕張市立沼の沢中学校(1952年真谷地中と統合し向陽中へ)
  • 夕張市立北陵中学校(1979年東山中へ統合)
  • 夕張市立夕張第一中学校(1983年東山中と統合し夕張中〈初代〉へ)
  • 夕張市立東山中学校(1983年夕張第一中と統合し夕張中〈初代〉へ)
  • 夕張市立登川中学校(1987年向陽中と統合し緑陽中へ)
  • 夕張市立向陽中学校(1987年登川中と統合し緑陽中へ)
  • 夕張市立鹿島中学校(1996年)
  • 夕張市立夕張中学校〈初代〉(2005年
  • 夕張市立幌南中学校(2008年清水沢中へ統合)
  • 夕張市立緑陽中学校(2010年統合により夕張市立夕張中学校〈2代目〉へ)
  • 夕張市立清水沢中学校(同上)
  • 夕張市立千代田中学校(同上)

高等学校

  • 北海道夕張真谷地高等学校(1967年)
  • 北海道夕張登川高等学校(1971年)
  • 北海道夕張東高等学校(旧北海道夕張鹿島高等学校、1983年閉校)
  • 北海道夕張南高等学校(1992年北海道夕張高等学校へ統合)
  • 北海道夕張北高等学校(1992年夕張高へ統合、1994年閉校)
  • 北海道夕張緑ヶ丘実業高等学校(旧北海道夕張工業高等学校、2003年閉校)

※wikipediaより

 

 

これより「鹿島地区」になります
鹿島地区が他の産炭地区と違うのは、閉山後にダムの建設により
水没した町が多いということ。

他の地区は人口が減少し学校や町が無くなっても故郷として土地は残るのに対し
鹿島地区の多くは故郷も無くなった。

 

 

「旧北海道立夕張東高等学校」



※鹿島で暮らした日々 大夕張より

 

開校:昭和25(1950)年
閉校:昭和58(1983)年
校舎:()年竣工

夕張市鹿島明石町

 

夕張東高校は現在シューパロ湖に面している「鹿島眺望公園」に校舎があった。
この公園がなぜこんなに広くあるのか理由がわかった。

平成27(2015)年に完成したシューパロダムによって本来はもっと高台にあった学校が道路と同じ高さになった。

昭和25年 鹿島中学校に夕張北高鹿島分校として併置
昭和27年 夕張鹿島高等学校として独立
昭和40年 夕張東高等学校へと改称

学校は昭和58年に閉校になっておりシューパロダムが出来るころには
土地は公園利用と計画されたのだろうか。

東校の記念碑には校歌にもあり象徴なのであろう夕張岳の山並みが描かれている。

まだダム建設がないころ、旧道の山側にあった学校は夕張東高校だけであったので夕張岳がよく見えたことだろう。

 

※現在眺望公園には「東高」「鹿島小」「鹿島東小」「鹿島中」の
記念碑とシューパロダムに沈んだ大夕張地区の説明看板などがある。

 

 

 

 

 

 

 


この日の夕張岳山頂は雲の中だった

 


2022年11月撮影

 

 

 

「旧夕張市立鹿島東小学校」

※水没


※夕張市史より


※鹿島で暮らした日々 大夕張より

 

 

開校:昭和26(1951)年
閉校:昭和53(1978)年
校舎:昭和26(1951)年竣工

夕張市鹿島明石町

 

学校のあった鹿島千年町は廃村となっており、水没している。
町の過去の写真にはドラム缶を使ったキリンのオブジェ「キリ助」があった。

学校は閉校後に校舎は解体され、学校を示すものは何一つ残っていなかったようだ
それでも閉校してからダム湖に沈むまでに時間があったので
結構な人が訪問し記録を残している。

校舎が解体されてもレンガ造りの校門がまだ残っていたそうだが
それも水没前には撤去されたようだ。

もっと早くに興味を持てば色々と見れたのにと悔やむことが夕張では多かった。


鹿島東小学校は、鹿島小学校の生徒数増加により新設された。
しかし炭鉱の閉山により生徒数が激減したため鹿島小学校に統合された
結果として数年を経て元に戻ったということか。

昭和26年竣工の木造校舎は写真でしか見れないが味がある素敵な校舎だ
27年間の歴史なので、この校舎のまま解体されたのだろう。


平成27(2015)年に竣工した夕張シューパロダムにより水没。

 

 


2022年11月撮影

 

 

 

「旧夕張市立鹿島中学校」

※水没


※夕張市史より

 


※鹿島で暮らした日々 大夕張より

 

 

開校:昭和22(1947)年
閉校:平成8(1996)年
校舎:昭和24(1949)年竣工

夕張市加島明石町

 

夕張市の過去の中学校は小学校に併設していることが多かったが
鹿島中学校も当初は鹿島小学校と一緒の校舎だった。

生徒数の増加により当時の現地に新築をした。
しかし鹿島東小学校と同じく炭鉱の閉山により生徒が激減
再び鹿島小学校校舎に中学が移設した。

閉校は小学校より鹿島中学校が早かったようだ。

写真で見る限り、2つの小学校の卒業生を受け入れるので鹿島中学校は大きな学校だった
卒業生も多いことだろう。

もしこの町が炭鉱町でなかったら?
閉山とともに人口が激減しなかったら、ここにダム建設を計画したであろうか

ダム湖に水没するのなら校舎はそのままでも良いではないか
と思ったりしたが、廃材が流れてくるので素人考えであった。

 

 


2022年11月撮影

 

 

 

「旧夕張市立鹿島小学校」

 


※夕張市史より



※鹿島で暮らした日々 大夕張より

 

開校:昭和3(1928)年
閉校:平成10(1998)年
校舎:()年竣工

夕張市鹿島緑ヶ丘

 

シューパロ湖を見下ろす旧夕張東高校跡地に出来た眺望公園には
各学校の閉校記念碑などがある。
これらはそれぞれの学校跡地から移設したもののようだ。

その中で鹿島小学校分として、学校の記念碑、友情のシンボルオブジェ
そして、ふるさと大夕張の碑と鹿島小学校跡地のものが多い。

452号線をさらに北上すると鹿島小学校跡地の看板が目に入る
鹿島小学校跡地は水没しないため現在も行くことが出来るのだ。

学校だったことを表すものは何もないが、空き地を見ればグラウンドと校舎でどれだけ大きな学校だったかがわかるかも知れない

後から知ったが学校のシンボルツリーであるイタヤの木があるようだ
次回訪問の際は確認してみたい。

 

※昭和48(1973)年の大夕張炭鉱閉山により鹿島地区全体の過疎化が急速に進んだ。
閉山するとすぐに人口の半分以上が転出したとのこと

 

 

 

 





 

 

 

 

 


2022年11月撮影

 

 

 

「旧夕張市立桜ヶ岡小学校」

※水没

開校:昭和23(1948)年
閉校:昭和31(1956)年
校舎:昭和24(1979)年竣工

夕張市鹿島白金


シューパロダムより前のダム、大夕張ダム建設により水没予定地となり閉校した。
現在も水没しているが渇水時には跡地が現れることもあるようだ。

以前に国道452号線側に「湖畔亭」という施設があったがその対岸付近にあったとの記載がある。

上記理由により学校は閉校、住宅、農地は移転された
そしてさらに奥地の奥鹿島分校を新設して生徒も移動した。

 

 

「旧夕張市立鹿島小学校奥鹿島分校」

※未訪問


※夕張市史より

 

開校:昭和32(1957)年
閉校:昭和55(1980)年
校舎:昭和32(1957)年竣工

夕張市鹿島白金

 

夕張の閉校の記念碑で唯一、シューパロ湖の東側にある分校であった。
立派な記念碑が見れるかと思ったら湖を渡る「白銀橋」が閉鎖されていた…
主に夕張岳登山客に利用されるので登山シーズンが終われば閉鎖か
10月までには訪問したいところだ。

記念碑は校舎跡から移設されており、跡地へは徒歩10分くらいかかるそうだ?
桜ヶ岡小学校が大夕張ダム建設のため水没となるので、この分校が新設された。

鹿島地区は大半が炭鉱町であったが、シューパロ湖を隔てて夕張岳方面の奥まった地にあった鹿島白金(奥鹿島)や桜ヶ岡地区は
樺太からの引揚者が入植した開拓地で、唯一の農村部であった。

 

 

 


2022年11月撮影

 

 

以上で鹿島、大夕張地区を終了し
清水沢地区に戻ってきた。




「旧夕張市立清水沢小学校」 



※夕張市史より

 

開校:1902(明治35)年
閉校:1989(昭和64)年
校舎:1()年竣工

夕張市清水沢3丁目

 

他のサイトで解体されたと記載されていたが、衛星写真で見たらどう見ても校舎があるではないか
ならば確認と思って行ったら無かった
グーグルマップの衛星写真には今も校舎の屋根がある。

ネットでの写真はどれも痛みがひどく割られたガラスが寂しい
しかし味のある木造校舎であった。

夕張の小学校で廃墟的に写された写真では鹿の谷小、清陵小、遠幌小とこの清水沢小学校があった。


学校は街を見下ろす高台にある
行先は2方向あり、らせん状の車道からと橋側から どちらも通学路だったようだ。

学校があった場所には今は「子ども園」になっているが開園は今年。
1年早く見に行っていたら何か少しでも学校に関するものが見れたかも知れない。

炭鉱の街の学校は閉山になると一気に人が減り、やがて閉校となり取り壊しになるが
校舎が無くなっても記念碑が残ることが夕張には多い。

 











2021年6月撮影

 

 

 

「旧夕張市立清水沢中学校」 


※未訪問

 


※夕張市史より(初代)



※夕張市史より(2代目)

 

開校:昭和22(1947)年 2代目:昭和56(1981)年
閉校:昭和56(1981)年 2代目:平成22(2010)年
校舎:昭和26(1951)年竣工 2代目:昭和55(1980)年竣工

夕張市清水沢3丁目63(2代目)


昭和22年、清水沢小学校に併設し開校
昭和26年に現在の「ゆうばり小学校」の場所に清水沢中学校を新築し移転。
昭和55年に現在の「夕張中学校」の場所に新築し移転。

その後、夕張市内4中学校(幌南、清水沢、千代田、緑陽)を1校へ統合する方針となり
平成22年に閉校し、清水沢中学校を改築して「夕張中学校」となった。

現在、夕張市にある唯一の中学校である。

 

 

 

「旧夕張市立清陵小学校」

 


※夕張市史より

 


開校:昭和25(1950)年

閉校:平成元(1989)年
校舎:()年竣工

夕張市清水沢清陵町

 

緩い勾配の通学路を上がりきると校舎があった場所だ
また右手のタイヤが埋まっているところから山側へグラウンドだった。

閉校後に芸術家のアトリエとして使われ、その像が現存している
だが校舎など建物はすでに解体されて跡形もない
あるのはすっかり背が伸びた雑草だ。

校舎前のわずかなスペースは車が乗り入れていたようだ
そのスペースに旧校舎と向き合うように閉校記念碑が建っている
正面の文字はよく読めるが下側の彫ってある箇所はすでに読みづらい。

清水沢の清陵地区は旧炭鉱住宅を思わせる集合住宅がまだ多い
もしかすると夕張で古い集合住宅が一番たくさん残っている地区かもしれない。

そういう意味では今回の夕張市巡りでもっともノスタルジーを抱いた町であった。


平成元年の閉校なのでネット上でもいくつか旧校舎の写真を見ることが出来る
だが廃墟然とした姿が多いのには卒業生でもないのに哀しかった。

校舎は 2010(平成22)年12月に解体された。


もはやこの標識は貴重だ。

 

 

 

 

 

 

 

 


2022年11月撮影

 

 

 

「旧北海道夕張南高等学校」 


※未訪問



開校:昭和11(1936)年
閉校:平成4(1992)
校舎:昭和61(1986)年竣工

夕張市清水沢3丁目49

 

いくたの改称をしてきた学校である

昭和11年 夕張町立高等家政女学校
昭和15年 夕張町立高等女学校
昭和16年 夕張市立高等女学校
昭和23年 夕張市立高等学校
昭和25年 北海道夕張東高等学校
昭和26年 北海道夕張南高等学校
平成  4年 北海道夕張北高等学校と統合し北海道夕張高等学校と改称


清水沢のこの地で現在は市内唯一の高校
北海道夕張高等学校としてある。
ただ令和4年度の入学生は18名、全校生徒51名である。

 

 


木造校舎・閉校 夕張市の閉校②

2022-11-22 09:34:48 | 木造校舎・廃校

夕張市の閉校(小学校) ※赤字はレポート済

  • 夕張市立真谷地小学校(1975年真谷地西小へ統合)
  • 夕張市立夕張第二小学校(1975年統合により旭小へ)
  • 夕張市立丁未小学校(同上)
  • 夕張市立福住小学校(同上)
  • 夕張市立鹿島東小学校(1978年鹿島小へ統合)
  • 夕張市立鹿島小学校奥鹿島分校(1956年桜ヶ岡小から改称、1978年鹿島東小から移管、1980年6月30日鹿島小へ統合)
  • 夕張市立夕張第一小学校(1983年旭小と統合し夕張小へ)
  • 夕張市立旭小学校(1983年夕張第一小と統合し夕張小へ)
  • 夕張市立若菜小学校(1983年若菜東小と統合し若菜中央小へ)
  • 夕張市立若菜東小学校(1983年若菜小と統合し若菜中央小へ)
  • 夕張市立沼ノ沢小学校(1985年真谷地西小と統合し緑小へ)
  • 夕張市立真谷地西小学校(1985年沼ノ沢小と統合し緑小へ)
  • 夕張市立紅葉山小学校(1986年統合によりのぞみ小へ)
  • 夕張市立登川小学校(同上)
  • 夕張市立楓小学校(同上)
  • 夕張市立清水沢小学校〈初代〉(1989年清陵小と統合し清水沢小〈2代目〉へ)
  • 夕張市立清陵小学校(1989年清水沢小〈初代〉と統合し清水沢小〈2代目〉へ)
  • 夕張市立南部小学校(1990年遠幌小と統合し幌南小へ)
  • 夕張市立遠幌小学校(1990年南部小と統合し幌南小へ)
  • 夕張市立鹿の谷小学校(1997年)
  • 夕張市立鹿島小学校(1998年)
  • 夕張市立富野小学校(2001年)
  • 夕張市立幌南小学校(2008年清水沢小へ統合)
  • 夕張市立清水沢小学校〈2代目〉(2011年統合により夕張市立ゆうばり小学校へ)
  • 夕張市立夕張小学校(同上)
  • 夕張市立滝の上小学校(同上)
  • 夕張市立若菜中央小学校(同上)
  • 夕張市立緑小学校(同上)
  • 夕張市立のぞみ小学校(同上)

中学校

  • 夕張市立若菜中学校(1949年11月25日鹿ノ谷中と統合し若鹿中〈1950年千代田中へ改称〉へ)調査中
  • 夕張市立鹿ノ谷中学校(1949年11月25日若菜中と統合し若鹿中へ)(鹿の谷小学校と校舎を併用)
  • 夕張市立真谷地中学校(1952年沼の沢中と統合し向陽中へ)(真谷地小学校と校舎を併用)
  • 夕張市立沼の沢中学校(1952年真谷地中と統合し向陽中へ)
  • 夕張市立北陵中学校(1979年東山中へ統合)立入禁止地区
  • 夕張市立夕張第一中学校(1983年東山中と統合し夕張中〈初代〉へ)
  • 夕張市立東山中学校(1983年夕張第一中と統合し夕張中〈初代〉へ)
  • 夕張市立登川中学校(1987年向陽中と統合し緑陽中へ)
  • 夕張市立向陽中学校(1987年登川中と統合し緑陽中へ)
  • 夕張市立鹿島中学校(1996年)
  • 夕張市立夕張中学校〈初代〉(2005年
  • 夕張市立幌南中学校(2008年清水沢中へ統合)
  • 夕張市立緑陽中学校(2010年統合により夕張市立夕張中学校〈2代目〉へ)
  • 夕張市立清水沢中学校(同上)
  • 夕張市立千代田中学校(同上)

高等学校

  • 北海道夕張真谷地高等学校(1967年)(真谷地西小学校の校舎と併用)
  • 北海道夕張登川高等学校(1971年)(登川中学校の校舎と併用)
  • 北海道夕張東高等学校(旧北海道夕張鹿島高等学校、1983年閉校)
  • 北海道夕張南高等学校(1992年北海道夕張高等学校へ統合)
  • 北海道夕張北高等学校(1992年夕張高へ統合、1994年閉校)
  • 北海道夕張緑ヶ丘実業高等学校(旧北海道夕張工業高等学校、2003年閉校)

※wikipediaより

 

 

「旧夕張市立鹿の谷小学校」



※夕張市史より

開校:大正10(1921)年
閉校:平成9(1997)年
校舎:昭和20(1945)年竣工

夕張市鹿の谷2丁目2

 

後記の緑ヶ丘実業高校と道路を隔てた対面にあった
なので高校側から小学校方面を見ると校舎が見えたそうだ。

通学路は二つあったらしい
その正面側の通学路を徒歩で行く 軽い勾配があるが苦ではない。

上がりきると背の高い校門があり右側には校名のプレートが現存していた。
その正面に校舎があったが、そこは背丈の高い草が生い茂っていた。
旧校舎前のスペースは道として残っていたので、そのまま行くと左手に閉校記念碑があった。

鹿の谷に人口が増えたのは北炭の支店が移ったためで社員住宅が増えて学校が必要になった
社員の子弟が多かったために当時は「夕張の学習院」と言われたそうだ。

鹿の谷小学校は平成台の閉校のため、しばらくその姿を撮影した人は多い
民間企業の倉庫に転用されたりしたが
校舎に廃墟の香りがしたころ平成23(2011)年夏に校舎が解体され、その後体育館も解体されお役目ごめんとなる。

 

 

 

 

 

 

 


もう一つの通学路方向


さあ下校しよう


2022年11月撮影

 

 

 

「旧北海道立夕張緑ヶ丘実業高等学校」「旧北海道立夕張工業高等学校」

 


※夕張市史より

開校:平成4(1992)年
閉校:平成15(2003)年
校舎:昭和58(1988)年竣工

夕張市鹿の谷

 

緑ヶ丘実業高校は 夕張工業高校と夕張南高校商業科の統合により開校した。
校舎は工業高校のものであった。

鹿の谷の小高い丘の上にあり道路を挟んで「旧鹿の谷小学校」があった。

以前はコンクリート造り5階建て(一部4階)の立派な校舎であったが
跡形もなく解体されて記念碑だけがポツンとある
昭和58年の落成とあるので、まだまだ十分に使えるのではないかと思った。

それでも夕張の閉校は比較的校舎が解体しても記念碑があるところが多いと感じる。

記念碑は2003年に閉校し、2012年に設置された
それはOB達の協賛金によるものだ。


鹿の谷小学校の通学路側から高校への通学路を見る

 

 

 

 

 

 

 

 

 


記念碑から鹿の谷小学校があった高台を見る


2022年11月撮影

 

 

 

「旧夕張市立千代田中学校」

 


※夕張市史より

 

 

開校:昭和24(1949)年
閉校:平成22(2010)年
校舎:()年竣工

夕張市千代田

 

夕張はとにかく学校が多かったのに対し、現在は小中1校づつである。
いかに閉校が多いかわかるが「旧千代田中学校」は通学路の入り口に
ロープが張られ近づけない学校だった。

平成22年の閉校でまだ10年ほどだ
それでも未使用のままだと朽ちるのも早いだろう。

今回この校舎はその一端しか見せてもらえなかった
加えてロープの位置にある校門には近づけないほどの背が高い雑草が生い茂り
そこにあったであろう校名プレートも垣間見ることも出来なかった。

校舎はなんとか遠望出来たが、このロープが解けるのはいつになるだろうか。

 

 


2022年11月撮影

 

 

 

「旧夕張市立若菜・若菜中央小学校」

 


※夕張市史より

 

 

開校:明治41(1908)年 中央小:昭和58(1983)年
閉校:昭和58(1983)年 中央小:平成23(2011)年
校舎:昭和58(1983)年竣工

夕張市若菜

 

鹿の谷~千代田と来て若菜まで南下してきた。

若菜小学校は1983年に若菜東小学校と統合し若菜中央小学校と改名した
校舎は若菜小学校を使用している。

いつごろか判らぬが、校舎は学校名らしくグリーンに塗装されていた
校門とプレートも現存しており、後から建てられた学校には同じような校門が多く感じる。

合宿施設「交流の里 きずな」として再活用されたが現在は未確認。

若菜地区も炭鉱の町でかつては賑わったようだ
以前は夕張鉄道の路線として駅舎があり、車なら富野を通って栗山へ抜ける札夕線も若菜から通ずる。

校舎は38号線から少し奥の一段低い場所にあるが
現在は38号線沿いに夕張市立診療所、介護院増成所の新築工事をしており
あの鮮やかなグリーンが大きな外観に隠れるようになるのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 


2022年11月撮影

 

 

 

「旧夕張市立若菜東小学校」

 


※夕張市史より

 

 

開校:昭和29(1954)年
閉校:昭和58(1983)年
校舎:()年竣工

夕張市日吉7-2

 

若菜東小は若菜小学校と谷を挟んで対面の丘の上、日吉町にあった
この日吉町には有名な映画「幸福の黄色いハンカチ」のロケ現場として今も観光客が来ている。

ナビに従い山のほうへ上り、途中の未舗装道路の右に入る
上がり切った右側に閉校記念碑があった。

民家に隣接しているが人の気配はない
また奥にある納屋などは猫の住みかとなっていた。

その奥には企業の敷地があって行き止まりだが
そこは以前の校庭であって校舎は一段高くなった山側にあったようだ。

校舎跡を探しに行くのには企業の敷地を通らなければならなく?
しばらくは見ることはおろか行くことが出来ないだろう

一応、この辺の主に挨拶をしてから山を降りた。


※左へ


※右側の未舗装へ入る


※未舗装道路の入り口目印


※この左上側に校舎があったようだ

 

 

 

 


2022年11月撮影

 

 

 

「旧夕張市立遠幌小学校」

※未訪問


※夕張市史より

 

開校:昭和23(1948)年
閉校:平成2(1990)年
校舎:()年竣工

夕張市南部遠幌町

 

遠幌小学校には閉校記念碑があるのでチェックしたつもりであった
だが、近くへ来てマップで検索をしてもヒットしないのだ。

どうやら検索のワードが間違っていたようだ
次の幌南中学校と併せてドジを踏んだ

2校の訪問をパスして
ここからは一路シューパロ湖方面へ進む。


遠幌小学校校舎は半壊状態が続き危険な状態だったようだが
平成20(2008)年に解体された。

 

 

 

 

「旧夕張市立幌南中学校」

※未訪問


※夕張市史より

 

開校:昭和22(1947)年
閉校:平成20(2008)年
校舎:昭和31(1956)年竣工

夕張市南部夕南町18

 

幌南中学校に関してはなんとノーチェックだった
今回の夕張閉校巡りには当日までにルートも細かく調べたのだが名前が漏れていてはどうしようもない。

しかも遠幌小学校を探している時に偶然ここに来たのに!
綺麗なので現役の校舎と思ってしまった
夕張には小中1校づつと分かっていたのに…

開校当時は南部中学校として南部小学校に併設
昭和31年に現地に校舎を新築し幌南中学校に改名した。

現在は「一般社団法人ぱれっとふぁーむ」が再活用している。

 

 

 

「旧夕張市立幌南小学校」

 

 

開校:平成2(1990)年
閉校:平成20(2008)年
校舎:()年竣工

夕張市南部岳見町

 

夕張市は山間の谷間に町が出来、山に炭鉱と関係者の町が出来た
大雑把に言うと「Yの字」と下の縦棒に右に2本横線、左に1本横線を加えたような地形だ。

ここまでは「Yの字」の左上の地区を見てきたが、ここからは右上の地区を行く。

南部地区には遠幌小と南部小学校があった
その両校が統合して幌南小学校へと新築された。

校舎の手前に校門とプレートがあり撮影はここからまでにする。
この校門は夕張市特有だと思うが、「閉校」のプレートが付いていたのは
ここだけだった。

やはり最近の閉校ということで対応が変わったのだろうか?
校舎自体は時代に合った箱型のものである。

 

幌南小学校は現在は「ゆうばり自然体験塾」として
第二の人生をおくっている。

 

 

 

 

 


2022年11月撮影

 

 

 

「旧夕張市立南部小学校」

 


※夕張市史より

 

 

開校:明治40(1907)年
閉校:平成2(1990)年
校舎:()年竣工

夕張市南部大宮町7-8

 

南部地区に入る
ここも昔は炭鉱があり住宅も多かったところだ。

南部小学校へは、国道452号線をシューパロダムに向かうとよく目立つ園芸店がある
そこを目印に手前左の山側に向かう枝道を登っていく。

狭い道路で最奥には廃業した木造の飲食店があった
また廃墟跡や産業廃棄物の不法投棄があるように見えた。

登り切ったところの平地が南部小学校跡地である。
ここは校庭で校舎は一段高くなった奥にあった
校舎はすでに解体されている。

立派な閉校記念碑が残されており
当時の校舎も描かれていた。

大きな物音がしてハっとしたが
鹿が2頭、走っていった。

帰途に気づいたが、校舎敷地の入り口にも木製の看板があった。


このお店が見えたら手前を左に入る枝道へ入り上へと登っていく

 

 

 

 

 

 

 

 


2022年11月撮影

 

 


木造校舎・廃校 夕張市の閉校

2022-11-18 18:53:45 | 木造校舎・廃校

夕張市は北海道の市町村の中でもとりわけ廃校が多い市だ
南北に長く山間の谷間にある街だが山々に石炭が多く取れた有数の街でもある。
いくつも炭鉱が出来、そこに新たに街が出来、閉山で人がいなくなる。

一時は12万人近くいた人口が現在は6800人
それは学校が閉校になって当然だろう。

 

夕張市の閉校(小学校) ※赤字はレポート済

  • 夕張市立真谷地小学校(1975年真谷地西小へ統合)
  • 夕張市立夕張第二小学校(1975年統合により旭小へ)
  • 夕張市立丁未小学校(同上)
  • 夕張市立福住小学校(同上)
  • 夕張市立鹿島東小学校(1978年鹿島小へ統合)
  • 夕張市立鹿島小学校奥鹿島分校(1956年桜ヶ岡小から改称、1978年鹿島東小から移管、1980年6月30日鹿島小へ統合)
  • 夕張市立夕張第一小学校(1983年旭小と統合し夕張小へ)
  • 夕張市立旭小学校(1983年夕張第一小と統合し夕張小へ)
  • 夕張市立若菜小学校(1983年若菜東小と統合し若菜中央小へ)
  • 夕張市立若菜東小学校(1983年若菜小と統合し若菜中央小へ)
  • 夕張市立沼ノ沢小学校(1985年真谷地西小と統合し緑小へ)
  • 夕張市立真谷地西小学校(1985年沼ノ沢小と統合し緑小へ)
  • 夕張市立紅葉山小学校(1986年統合によりのぞみ小へ)
  • 夕張市立登川小学校(同上)
  • 夕張市立楓小学校(同上)
  • 夕張市立清水沢小学校〈初代〉(1989年清陵小と統合し清水沢小〈2代目〉へ)
  • 夕張市立清陵小学校(1989年清水沢小〈初代〉と統合し清水沢小〈2代目〉へ)
  • 夕張市立南部小学校(1990年遠幌小と統合し幌南小へ)
  • 夕張市立遠幌小学校(1990年南部小と統合し幌南小へ)
  • 夕張市立鹿の谷小学校(1997年)
  • 夕張市立鹿島小学校(1998年)
  • 夕張市立富野小学校(2001年)
  • 夕張市立幌南小学校(2008年清水沢小へ統合)
  • 夕張市立清水沢小学校〈2代目〉(2011年統合により夕張市立ゆうばり小学校へ)
  • 夕張市立夕張小学校(同上)
  • 夕張市立滝の上小学校(同上)
  • 夕張市立若菜中央小学校(同上)
  • 夕張市立緑小学校(同上)
  • 夕張市立のぞみ小学校(同上)

中学校

  • 夕張市立若菜中学校(1949年11月25日鹿ノ谷中と統合し若鹿中〈1950年千代田中へ改称〉へ)
  • 夕張市立鹿ノ谷中学校(1949年11月25日若菜中と統合し若鹿中へ)
  • 夕張市立真谷地中学校(1952年沼の沢中と統合し向陽中へ)
  • 夕張市立沼の沢中学校(1952年真谷地中と統合し向陽中へ)
  • 夕張市立北陵中学校(1979年東山中へ統合)
  • 夕張市立夕張第一中学校(1983年東山中と統合し夕張中〈初代〉へ)
  • 夕張市立東山中学校(1983年夕張第一中と統合し夕張中〈初代〉へ)
  • 夕張市立登川中学校(1987年向陽中と統合し緑陽中へ)
  • 夕張市立向陽中学校(1987年登川中と統合し緑陽中へ)
  • 夕張市立鹿島中学校(1996年)
  • 夕張市立夕張中学校〈初代〉(2005年
  • 夕張市立幌南中学校(2008年清水沢中へ統合)
  • 夕張市立緑陽中学校(2010年統合により夕張市立夕張中学校〈2代目〉へ)
  • 夕張市立清水沢中学校(同上)
  • 夕張市立千代田中学校(同上)

高等学校

  • 北海道夕張真谷地高等学校(1967年)
  • 北海道夕張登川高等学校(1971年)
  • 北海道夕張東高等学校(旧北海道夕張鹿島高等学校、1983年閉校)
  • 北海道夕張南高等学校(1992年北海道夕張高等学校へ統合)
  • 北海道夕張北高等学校(1992年夕張高へ統合、1994年閉校)
  • 北海道夕張緑ヶ丘実業高等学校(旧北海道夕張工業高等学校、2003年閉校)

※wikipediaより

 

 

「旧夕張市立富野小学校」


※夕張市史より

 

開校:明治45(1912)年
閉校:平成13(2001)年
校舎:()年竣工

夕張市富野63


今回の閉校巡りのルートは札幌を出発して長沼~由仁~栗山から夕張へ入るルート。

道道3号札夕線沿いに旧学校がある。

最初の訪問先が現在は「富野ふれあい会館」になっている「旧富野小学校」。
学校が非常に多かった夕張市だが栗山から夕張までの間はこの学校だけだった。

校門、プレート、校舎、体育館、記念碑など大体揃っているが
校舎と体育館は改築をしたようだ。

この学校の閉校記念碑は二宮像と一体化させており
これはどこかでも見たがそんなに多いわけではない
だが、いいアイデアだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2022年11月撮影

 

 

「旧夕張市立丁未小学校」


※夕張市史より

 

開校:明治41(1908)年
閉校:昭和50(1975)年
校舎:昭和27(1952)年最終増改築

夕張市丁未

 

次に夕張市を南北に貫く38号線を一気に北上する。
右手に旧石炭の歴史村を見ながら北上を続ける
その先には栗沢町まで通じる峠があるが、その手前のUの字カーブが続くところ。

閉館したが建物が残っている
「めろん城」の手前に石段があるのでそこに路駐する。

石段を上るとそこが旧丁未小学校跡であった
メロン城やレストランの廃墟が寂しいが、その以前に校舎はここにあった
段差があるのでよくわからないが校舎は大きなものだったらしい。

 

一段高くなった奥右手に閉校記念碑が立っている
さすがにこのくらいの場所でもクマに対して神経を使う
当時はこの周りの斜面にもびっしりと炭鉱住宅があったようだ。

 

※あの頃の炭都 夕張より

 


プレートは無い

 

 

 

 

 


過去に一度だけ見学をしたが「めろん城」も寂しい施設になった

 

 


旧めろん城の駐車場に校舎があった。


2022年11月撮影

 

 

「旧夕張市立福住小学校」


※立ち入り禁止区域で入れず


※夕張市史より

 

開校:昭和31(1956)年 
閉校:昭和50(1975)年 
校舎:昭和31(1956)年竣工

夕張市福住


福住小学校と北稜中学校は上下に並んで建っていて、小学校が一段高いところにあった。
旧夕張第二小学校の生徒の激増により急遽増やした学校だ
だが新設しても最盛期には手狭だったらしい。

北稜中学校とグラウンドは共通で使用した。

先に福住小学校が閉校したが校舎解体は後になる。

 

「旧夕張市立北稜中学校」


※立ち入り禁止区域で入れず


※夕張市史より

開校:昭和22(1947)年 
閉校:昭和54(1979)年 
校舎:昭和22(1947)年竣工

夕張市福住


斜面の町であったが、炭鉱が全盛の時は炭鉱住宅が斜面にびっしりと
並んで建てられた。

その中で学校は校舎が大きいので目立つしグラウンドなどでの運動会など
地域の住民にとっても大事な場所であったろう。

北稜中学校の閉校記念碑が現存しているらしいが
それを見ることが出来る日を待ちたい。

福住小学校の方が先に閉校し、北稜中学校は福住小学校校舎を使用して校舎を解体した。

 

1960年代の福住地区 中心の「+」下側が北稜中、上が福住小 炭鉱住宅がびっしりとある ※国土地理院より

1970年代後半 北稜中は解体され炭鉱住宅が無くなってきている


現在 学校も炭鉱住宅もすべて無くなり、すっかり自然に戻っている    ※グーグルマップより

 

 

「旧夕張市立第二小学校・旭小学校」



※夕張市史より

 

開校:明治37(1904)年 旭小:昭和50(1975)年
閉校:昭和50(1975)年 旭小:昭和58(1983)年
校舎:昭和50(1975)年竣工

夕張市福住10

 

丁未小学校跡から市内へ向けてUターンする。
旧夕張石炭の歴史村を左に見下ろしながら車を走らせると
右の山側に大きな建物が現れる。

これが「旧旭小学校」「旧夕張第二小学校」跡である
旭小学校は旧夕張第二小学校校舎を使用し、福住小学校と丁未小学校の合計3校を統合した学校だ。

旧第二小学校は昭和27年に52学級、2,827名の記録があり、おそらくこれが夕張市の最大生徒数か?
裏山に次々と校舎を増築して第七校舎まであったようだ。

そこで福住小学校を昭和31年に開校させ生徒を転校させたが昭和35年でも49学級、2,534名がおり
夕張一のマンモス校であった。

それが炭鉱の閉山もあり昭和43年には20学級、713名まで生徒が減った
同じような丁未、福住両小学校を統合し、旭小学校を新築したがこの頃には13学級、351名まで減少していた。

閉校後は「ファミリースクールふれあい」が再活用したが
これも平成18年に閉鎖している。

 

改めて間近で見ると痛みが激しい
崩れ落ちた体育館が嫌でも目に入る
教室と思われる窓のガラスは割れており、たくさんの児童が通ったと思われる玄関への階段付近は草ぼうぼうだ。

いかにも廃墟マニアの入り込みそうな建物であるが
これは危険だ。

今後の利用は考えられないので何とかきれいな更地に出来ないのかなと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2022年11月撮影

 

 

 

「旧夕張市立東山中学校」


※夕張市史より

 

開校:昭和13(1938)年
閉校:昭和58(1983)年
校舎:()年竣工

夕張市本町2丁目68

 

今度は宅地のある谷部を超えて対面の東の山を登っていく
結構な高さまで登るものだ 
いかに平地が少なく子供が多かったとはいえ、生徒は大変だったろうに

ほぼ登り切ったところが「旧東山中学校」跡地である。

昭和13年、夕張高等小学校として開校
昭和22年から東山中学校となる。

この当時、独立校舎を持った中学校は東山中学校だけで
他は小学校に併置されていた。

雑草が生い茂る中に閉校記念碑があった
この場所から奥地へ向かってが学校の敷地で、手前がグラウンド・前庭で
校舎は最奥の山際にあった
近くに教員住宅らしい廃屋があった。

当時はコの字の校舎に中庭があり体育館で蓋をする形だった。


※明治/大正/昭和/ 夕張より


雑草だらけで先が見えず怖いくらいだった

 

 

 

 

 

 

 


通学路の坂の途中から旧第二小学校(旭小学校)が見えたが体育館の崩落が痛々しい

 


2022年11月撮影

 

 

 

「旧夕張市立夕張小学校」


※夕張市史より

 

開校:昭和58(1983)年
閉校:平成23(2011)年
校舎:昭和59(1984)年竣工

夕張市本町5丁目54

 

旧東山中から市内中心部に降りてくる
「夕張共生型ファームらぷらす」の看板があるのが「旧夕張小学校」
元「第一小学校」であった
1983年に旭小と統合し夕張小学校になった。

ここはなんとか他の再活用が出来ているようだ
「夕張」の冠が付いた小学校であるが、現在の住民の中心部は清水沢のようで新たに清水沢に「ゆうばり小学校」として
夕張市唯一の小学校になった。

明るい絵が描かれている校舎と校門、プレート、グラウンドなどが残されている。

 

 

 

 

 

 

 

 


共通のグラウンドの向こうに第一中学の体育館を見る


2022年11月撮影

 

 

 

「旧夕張市立夕張・夕張第一中学校」


※夕張市史より

 

開校:昭和58(1983)年 第一中:昭和22(1947)年
閉校:平成17(2005)年 第一中:昭和58(1983)年
校舎:昭和59(1984)年竣工

夕張市6丁目16

 

前記の「旧夕張小学校」とグラウンドを隔てて建っているのが「旧夕張中学校」。

旧夕張第一中学校と東山中学校が統合して出来たのが夕張中学校で
校舎は第一中学のを使用した。

ここも校舎、校門、プレート、そして第一中の閉校記念碑があった。

かつては夕張の中心として多くの生徒が通った学校であったが炭鉱の閉山などで現在は清水沢に立派な「夕張中学校(2代目)」が建った
だがその夕張中学校も市内で唯一の中学校である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


旧夕張小学校を見る


2022年11月撮影

 

 

 

「旧北海道立夕張北高等学校」



※夕張市史より

 

開校:昭和14(1939)年
閉校:平成6(1994)年
校舎:昭和48(1973)年竣工

夕張市鹿の谷山手町18

 

鹿の谷山手町の山の上に「合宿の宿ひまわり」がある
ここが「旧夕張北高校」の校舎である。

校門にプレート、前庭には閉校記念碑もあるが、一般企業の現役施設なのでゆっくりと撮影はしずらい
早々に撮影を切り上げて退出する。

ここは現在クラブやサークルの合宿や活動に使用されており
勝手に内部へは入れないと思う

だが後で知ったが館内に資料室があり、旧夕張北高に関しての資料や展示物があった。
機会があれば見学できるか聞いて見てみたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 


2022年11月撮影

 

 


札幌のホテル探訪② コロナ過で閉館したホテル

2022-11-15 09:14:17 | 札幌市中央区

前回に続き札幌のホテルについてですが
シティホテルに絞ります。
私の場合シティホテルとは都市にあり宿泊、宴会場、レストランその他の施設があるホテルです
(ビジネスホテルは宿泊だけに特化、リゾートホテルは観光地にありと勝手に区分けします)


<ここ3年間で閉館したシティホテル>
札幌での新型コロナウィルスの影響は2019年の年明けから出た
その後、雪まつりで感染者が出て2月28日に「新型コロナウィルス緊急事態宣言」が出され
道民に対して外出の自粛の求めた。
4月には再び「北海道・札幌市緊急共同宣言」が出た。

 

観光業界、ホテルは打撃を受け歴史のあるホテルが現在までにいくつかが閉館した
理由は様々でしょうが…

 

「札幌第一ホテル」


所在地:札幌市中央区南7条西1丁目
開業年:昭和27(1952)年
閉館  :令和2(2020)年6月

 

札幌第一ホテルは元々は大通9丁目にあった
その当時はレストランを、2007年に現在地に移ってからは会合で利用した。

札幌では老舗中の老舗ホテルで料理の味がよく宴会や法事の利用客が多かったようだ
この建物は元はNTTのホテル「ルーシス札幌」だが、もはや第一ホテルのイメージが強い。

すすきのと中島公園に近くで利便性もあったと思うがコロナ過で売上が減った
社長さんの談話がネットに残っているが、従業員への退職金、取引業者への支払いが
出来るうちに廃業の決断をしたということだ
なんとも立派な経営者ではないか。

 


そうだったんだ


現在も入り口に貼られている

 

 

 


現在も駐車場は稼働している

 


2022年11月撮影

 

 

「サンルートニュー札幌」


所在地:札幌市中央区南2条西6丁目
開業年:昭和61(1986)年
閉館  :令和3(2021)年3月

 

昭和の後半に開業した全国チェーン店で狸小路に隣接している
ホテルの利用はそれこそ30年くらい前に職場の忘年会で1度使ったきりだと思う。

建物は内部や外壁には補修がありそうだが躯体はそのままでまだ使える
現在は「ホテルアベスト札幌」が営業している。

サンルートグループとしては北区にもう1棟あるため
コロナ過では1棟に集約して営業していたようだ。

先が見えずなので札幌は1棟で営業と判断したのかも知れない
いずれにしてもすぐに次のホテルが営業したのでイメージの悪化は無いと思う。

 

 

 


2022年11月撮影

 

 

「ホテルオークラ札幌」


所在地:札幌市中央区南1条西5丁目
開業年:平成15(2003)年
閉館  :令和3(2021)年9月

 

赤レンガがとても印象的なこのホテルは「ホテルアルファサッポロ」として昭和55(1980)年に開業した。

ホテルアルファサッポロやアルファリゾートトマムを開業したのは仙台の「関兵精麦」という会社。
同族会社のアルファコーポレーションが当時販売した高級分譲マンション「アルファコートシリーズ」と
同じカラーとして現在も札幌の高級住宅地で見ることが出来る。

さてホテルアルファだが、出来たときの印象はなんと言っても「プレイボーイクラブ」があったこと
あのバニーガールのいる高級クラブである
もちろん若造が行けるような場所ではなかったが…

平成11(1999)年にホテルアルファサッポロが破産宣告
平成15(2003)年に関兵精麦が民事再生法を申請
平成15(2003)年にホテルオークラ札幌が開業した。

オークラになってからはカフェやケーキショップをよく利用した
オークラブランドらしくケースやペーパーバッグ一つをとっても御使いものに向いていたからだ。

オークラにしては中規模のホテルであった
また正面玄関が一方通行路に面しているのも珍しい。

閉館して翌年には解体された
現在は新しいビルとホテルが建設中だ。

だが、そこに入るホテルはホテルオークラではない。

 

 

 


2021年9月撮影

 

 


2022年11月撮影


 

 

「札幌すみれホテル」


所在地:札幌市中央区北1条西2丁目
開業年:()年
閉館 :令和2(2020)年4月から休業

 

札幌すみれホテルは札幌資本の老舗ホテルであった
古くからホテルを営業し、現在の建物は1990年代に改築されたもの。

札幌駅と大通駅の間にありホテルの多い地区でもある
規模的には小~中規模のシティホテルであろう。

すみれホテルには屋上でビアガーデンが開催されていたときに
数回利用した程度だった。

経営的にはコロナ前から苦戦しており銀行の所有になり
その後は本州のホテルチェーンが買い取ったようだ。

コロナ過の2020年4月から休業の貼り紙が玄関にあり
ホームページにも休業中のままであった。

今回見に行ったら貼り紙もなく HPも閉鎖されていた。
ガラス越しに見えるロビーは物が雑多に置いており
もはや営業再開をやる気が見えないホテルと化したのが
とても残念だ。

 

 

 

 

 

 

 


2022年11月撮影

 

 

 

「ホテルモントレ札幌」


所在地:札幌市中央区北4条東1丁目
開業年:平成6(1994)年
閉館  :令和4(2022)年10月

 

ホテルモントレは建物が完成した時に、これまでの札幌にはない外観をもつホテルとして大変人気があった。

そこだけが英国領のような雰囲気を醸し出し
イエローの外壁がとても映えた。

おそらくブライダルに人気があったように思える

その後、「ホテルモントレエーデルホフ札幌」が開業し2館体制となった
しかしコロナ過になるとモントレは休業し、エーデルホフの1館に営業を集中させる。
これは上記のサンルートと同じような展開だ

そしてホテルモントレの廃業が告知される
理由は建物や設備の老朽化が進み、快適なホテル空間を提供できないとして閉館を決めたということ。

改築への経費が高騰したことも一因かと思う
いずれにしろ北海道新幹線の札幌駅がすぐ近くに出来るので
場所的にはかなりの利便性がある場所だ。

 

すでにエーデルホフ札幌はプレミアム棟の増築を終了しており
しばらくは1館体制で営業するのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 


2022年11月撮影

 

 

 

上記のホテルモントレ札幌が築28年で老朽化ということなら
もっと心配なホテルがある

 

「札幌パークホテル」

所在地:札幌市中央区南10条西3丁目
開業年:昭和39(1964)年


2021年6月撮影

築28年どころか築58年の札幌パークホテルがある
もちろんリノベーションはしているが、古き良きものを残しているホテルでもある。

その外壁の青タイルが印象的なパークホテルは
2019年に建て替えとヒルトンホテルとのFC契約を発表した。
札幌の象徴的なホテルが亡くなると思ったがコロナ過の
2021年、建て替えとヒルトンFCとが白紙になった。

喜んでよいものかどうか…

 

 

 

「札幌グランドホテル」

所在地:札幌市中央区北1条西4丁目
建設年:本館・昭和41(1966)年 東館・昭和51(1976)年 

 

 

札幌パークホテルと姉妹ホテルの札幌グランドホテルは
札幌のホテルの草分けであり現在も迎賓館の扱いである。

その開業は昭和9(1934)年と他より圧倒的に早かった。
創業時の建物を昭和48(1973)年に解体し新たに
本館を昭和41(1966)年、東館を昭和51(1976)年に開業させている。

本館は49年、東館でも41年の築である
さてグランドとパークはどのようになるのだろうか。

 

 

 

「センチュリーロイヤルホテル」

所在地:札幌市中央区北5条西5丁目
建設年:昭和48(1973)年

 


※wikipediaより

 

センチュリーロイヤルホテルの開業は昭和48(1973)年ですでにビルの築年は49年である。

札幌駅の西隣に現れた「住友生命ビル」は地上23階を誇り
当時の札幌では「札幌市役所」を抜いて1位の高さであった。

そのホテル名から外資のホテルかと思ったられっきとした札幌資本のホテルであった。

本館であった「札幌ロイヤルホテル」を民事再生法で売却したあとも
センチュリーロイヤルホテルは営業を続け、朝食の美味しいホテルとして有名になった。
現在は函館、釧路にもセンチュリーブランドのホテルを展開している
経営はやはり北海道内の企業である。

最上階の回転レストランは開業時からのもの
建物は縦型の箱を二つずらして合わせたような外観である。

こちらはテナントであるゆえにオーナーの意向が気がかりである

 

 

 

「ANAクラウンプラザホテル札幌」

所在地:札幌市中央区
建設年:昭和49(1974)年

 

 

 


2022年11月撮影

 

センチュリーロイヤルホテルから1年後に竣工したビルで
当時の札幌で一番の高さであり、しばらくはこのビルとセンチュリーロイヤルホテル、札幌市役所の3高の時代があった。

ビルの開業時は「札幌全日空ホテル」である
航空会社のホテルであり、現在も冠に「ANA」が付いており
札幌市民には馴染みが多いホテルである。

また新渡戸稲造さんの居住地だったとは今回初めて知った。

このビルも築46年になった
札幌の中心部では「冬季札幌オリンピック」昭和47年(1972)年に合わせて
建設したビルが続々と建て替えをしている。

これらのホテルが入居するビルも建て替え時期に入っていると言ってよい
内部は改装されたが個人的には改装前の札幌全日空ホテル時代が利用が多くて思い入れがあるんだよなぁ。