札幌・北海道のレトロ建物大好きおぢさん日記

札幌(北海道)のレトロでモダンな建物を見たり撮影するのを趣味としています。

木造校舎・廃校 札幌市の閉校⑤ 

2023-01-27 18:51:00 | 木造校舎・廃校

札幌市の閉校(小学校)  ※赤文字はレポート済 ※緑文字は今回レポート

中学校


高等学校
 北海道札幌石山高等学校(1980年北海道札幌平岸高等学校〈現:市立札幌平岸高等学校〉へ統合)

※wikipediaより

 

 

「旧札幌市立創成小学校」

開校:明治4(1871)年
閉校:平成16(2004)年
校舎:昭和40(1965)年 

中央区南3条西7丁目

 

札幌の最も古い小学校は明治4年に開校した「資生館」である
場所は北1条東1丁目であった。
歴史のある学校らしく何度も何度も校名が変わっている。

明治5年「札幌学校」
明治8年「雨竜学校」
明治9年「第一学校」北1条西2丁目に移転(現札幌市役所)
明治14年「公立創成学校」
明治15年「県立創成学校」
明治16年「公立創成小学校」
明治28年「創成尋常高等小学校」
明治29年「創成尋常小学校」
明治43年「中央創成尋常高等小学校」
昭和6年「中央創成尋常小学校」
昭和16年「中央創成国民学校」
昭和22年「札幌市立中央創成小学校」
昭和40年「札幌市立創成小学校」 ※中央創成小と西創成小を統合、校舎は中央創成小を使用
昭和40年 新校舎に移転 中央区南3条西7丁目 ※西創成小跡地に新築
平成16年「札幌市立資生館小学校」へ ※創成小、大通小、豊水小、曙小を統合 校舎は創成小跡地に新築。

以上の通り、「創成」の名が付いたのは明治14年から。
永く北1条西2丁目にあったが統合を機に、昭和40年から西創成小があった南3条西7丁目に移転。

そして平成16年の統合による閉校で「創成」の名が無くなる
しかし新設校は最初の「資生館小学校」と名付けられた。

一時は「中央創成小学校」と「西創成小学校」の2校に分岐した時代があり、また昭和40年に統合した。
校舎があるのは「西創成小学校」の跡地である。

古くから創成小~中央創成小があった場所の現在は「札幌市市役所」である。

現在の「資生館小学校」は創成小学校や中央創成小学校の流れをくんでいるが場所は西創成小学校があった場所であることを記憶しておく。

 


※札幌市史より

 


※明治9年当時 創成百年より

 


※明治25年当時 創成百年より



南3条西7丁目 旧西創成小学校跡地に建設

 

 


現在も残る歩道橋


※創成百年より



※札幌の小学校より

道路を挟んで左側に青い屋根の「kakuイマジネーション」が見える
ここも歴史を持つ建物だ



現在の「資生館小学校」 中央区南3条西7丁目

 


二宮像は旧創成小学校時代のものだそうだ。


2022年12月撮影

 

「旧札幌市立中央創成小学校」

開校:明治4(1871)年
閉校:昭和40(1965)年
校舎:昭和28(1953)年 

中央区大通西2丁目9-1

明治43年から「中央」が付いた創成小学校があった場所は、現在の札幌市役所である。

昭和40年の統合とともに閉校し、跡地は市役所に生まれ変わった。

西創成小学校の跡地に統合の新校舎を建築している間は、中央創成小学校に西創成小の生徒が通った。
その為に通学バスが出来、バス停まで父兄の見送りなどもあったとのこと。

そして新校舎が完成し、旧校舎とお別れをして大通公園を通るコースで1キロをパレードし新校舎に入ったそうだ。



札幌市役所の敷地内、北・大通側に「札幌市立中央創成小学校の跡」の碑が昭和47年に建てられた。

訪問時は前日の大雪で碑も埋まり、近くへ寄ることも出来なかった
春になったら再度見に行こうと思う。

 

 

 

 

 

 

目の前に「札幌市民会館」や「豊平館」があった

 

 


※創成百年より



現在は「札幌市役所」

 

 


2022年12月撮影

※この碑の後方にも校名が入った縦型の石碑がある

 

「旧札幌市立西創成小学校」

開校:明治29(1896)年
閉校:昭和40(1965)年
校舎: 

中央区南3条西7丁目


明治29年「創成高等小学校」として南3条西7丁目で開校
明治41年「創成尋常高等小学校」
明治43年「西創成尋常高等小学校」
昭和6年「西創成尋常小学校」
昭和16年「西創成国民学校」
昭和22年「札幌市立西創成小学校」
昭和40年 閉校し「札幌市立創成小学校」となる


現在の資生館小学校、その前の創成小学校は西創成小学校の跡地である
その元は明治13年に開校した「藻岩学校」であった。

開校当時の校舎写真からいかに生徒数が多かったかがわかる
正面玄関なども昔の学校は趣があってとてもいいなと思う
つい自分の出身学校と照らし合わせてしまう。

昭和40年の統合により敷地に新校舎が建てられるが
昭和30年代ですでにコンクリートの旧校舎は札幌市ならではかと思った。

 


※札幌の小学校より

 

 

 


※創成百年より

 

 

「旧札幌市立札幌中学校・第一中学校」

 

開校:明治28(1895)年
閉校:
校舎: 

北区北11条西3丁目~中央区南18条西6丁目


沿革は
明治28(1895)年 札幌尋常中学校 開校 同年北区北8条西4丁目に新築
明治32(1899)年 札幌中学校に改称
明治34(1901)年 北海道庁立札幌中学校に改称
大正4  (1915)年 北海道庁立札幌第一中学校に改称
大正11(1922)年 中央区南18条西6丁目(現在地)に移転
昭和22(1947)年 北海道立札幌第一中学校に改称
昭和23(1948)年 北海道立札幌第一高等学校に改称
昭和25(1950)年 北海道札幌南高等学校に改称 現在に至る

 

上記の通り、現札幌南高校の前身であるため閉校年は入れていない。

元は北区北11条西3丁目に出来た札幌尋常中学校であり
札幌市で最初の公立中学校であった。

地下鉄南北線北12条駅1番出口の横にひっそりと碑がある
「一中」と親しく呼ばれていたそうだ。
ちなみに「二中」は現在の札幌西高等学校。

現在の札幌南高校は北海道内の公立高校でも有数の進学校であり
毎年、東大京大北大に合格者を出している。

南18条の校舎には古い門と碑があるので近いうちに見に行こう。

 

 

 

 

 

 

 

 


2022年11月撮影

 

 

 


木造校舎・廃校 札幌市の閉校④ ※旧石山高等学校を追加しました

2023-01-24 10:46:08 | 木造校舎・廃校

札幌市の閉校(小学校)  ※赤文字はレポート済

中学校


高等学校
 北海道札幌石山高等学校(1980年北海道札幌平岸高等学校〈現:市立札幌平岸高等学校〉へ統合)

※wikipediaより

 


「旧北海道札幌石山高等学校」

 

開校:昭和25(1950)年
閉校:昭和55(1980)年
校舎:昭和33(1958)年竣工 

南区石山1条2丁目

 

開校時の昭和25年は南区石山は豊平町であり、学校も月寒高校の分校として開校した。

その後、豊平町立石山高等学校となり、昭和36年に豊平町が札幌市に統合されると
北海道札幌市立石山高等学校となった。

旧校舎はすでに解体され新しい校舎が建っている

場所は現在の「啓北商業高校」のある場所で、校庭に小さな碑がある
訪問時は残雪があるのと、学校の敷地内で授業中だったため敷地外から撮影した。
今度は碑の正面側を撮影したい。

 


※創立30年誌より



 

 

 


2022年4月撮影

 

 



「旧北海道札幌稲北高等学校」

 

開校:昭和58(1983)年
閉校:平成23(2011)年
校舎:昭和58(1983)年竣工 

手稲区山口254番

 

小樽市から石狩市への中間点にある手稲区山口に昭和58(1983)年、二つの北海道立高等学校が開校した。

どちらも国道337号線沿いにあり同じ手稲山口ということで比較的近くにある公立高校であった
ちなみに昭和58年まで手稲区の高校は手稲高校しかなく、稲北、稲西の翌年に稲雲高校が開校した。
(札幌市西区から分区して手稲区となったのは平成元(1989)年)

2校同時開校であり当時の建設コストからも同じように鉄筋コンクリート4階建て、箱形横一直線のスタイルは頷ける
レトロと呼ぶにはふさわしくない新しい建物だが数十年したころには、この形の校舎もレトロと呼ばれているかもだ。

 

平成23年に稲西高校と統合し閉校、「北海道札幌あすかぜ高等学校」として
稲北高校の校舎を使用している。

 

 

 

 


2022年12月撮影

 

 

 

「旧北海道札幌稲西高等学校」

 

開校:昭和58(1983)年
閉校:平成25(2013)年
校舎:昭和58(1983)年竣工  

手稲区手稲山口740

 

前記の旧稲北高校と同様だが、こちらは「北海道星置養護学校ほしみ高等学園」が
再活用することになった。

統合校に選ばれなかったことは残念だが、まだ使える校舎だけに再活用されたことは
卒業生にとっても良かっただろう。

旧稲西高校の閉校が稲北高校より2年遅れたのは募集停止から在校生であった
2学年の卒業を待って閉校したからだ。

2つの学校が同時に建てられた手稲山口は明治の前半にはすでに開拓と集落が出来ていた
山口県からの入植者が多く、「山口」と付けられた。

札幌市民としてはスイカ栽培と火葬場でお馴染みな地域だろう。

旧稲西高校は国道337号線の山側にあり、旧稲北高校は海側。
国道から校舎を写しているときに気になったのが後ろに見える山だ

手稲山の山頂が校舎越しに曇り空でも綺麗に見えた。

 

 

 


2022年12月撮影

 

 

 

「旧札幌市立豊羽小中学校」

 

開校:昭和26(1951)年
閉校:平成14(2002)年
校舎:昭和55(1980)年竣工 平成23(2011)年解体

南区定山渓 旧豊羽鉱山


札幌の鉱山といえば豊羽鉱山と手稲金山が有名であるが手稲金山が昭和45年閉山に対し
豊羽鉱山は平成18年の閉山である。

 

豊羽鉱山は札幌市南区定山渓からさらに奥深い山の中にあり
ヤマの周りに必要な住宅などとともに学校が建てられた。

小中学校に触れるには豊羽鉱山と本山[元山](地域の総称)は切って切れないものだ。

ヤマが開かれ昭和18年から19年にかけて5千人の人口があったとのことだ
おかげで定山渓温泉も好景気に見舞われたとある。
しかしその後に事故が発生し、また敗戦ということもあって休山を余儀なくされた。

昭和25年、鉱山の再開
昭和26年に新たに集会所を使用して始まった学校の生徒は36名であったという
昭和37年には小学生2617名、中学生115名になるまでヤマに人が戻ってきた。

昭和55年には鉄筋コンクリート造4階建ての堂々たる新校舎が完成した。

温水プールや体育館の新築、テレビ放送の受信、本山スキー場にリフトが開設など明るい話題が続いた
だがバスの運行など交通インフラの整備で皮肉にも通勤圏となってしまった。
いくら住環境が整備されたとはいえ、人はより住みやすい場所を選ぶのだろう。

本山の人口は減少の一途をたどり平成3年では437人、小中学校の通学生徒も60人余りになった
平成14年についに学校は閉校し、豊羽鉱山も平成18年に鉱量枯渇のため閉山となった。

その後、集落は消滅しほとんどの施設、建物が解体された。

 

 

ここまで到着するのにすごく長く感じた
距離よりも車幅が狭く山の中をぐんぐん登っていくので圧力を感じる
たまに登山者や釣り師の車を見るだけだ。

本山の入り口からは現在の作業施設と鉱山時代の棟がポツンと見えるだけ
使用しなくなった建物はことごとく解体された。

昔の地図に従い学校跡地へ向かう 赤字の新校舎マークへ
それは一般車はここまでの場所だ。

 

 

 

通学路があり、クノ字に上がりきったところに校舎があったようだ
しかし…何もないことが判っており、加えて草ぼうぼうの道とクマへのリスクを考え
ここで引き返すことにした。
数年前の登山をしていた自分なら全然ためらわなく行っていただろう。

 

この上がりきったところに校舎が
おそらく現存していればこの位置からでも上部は見えるだろう

 

 


※「豊羽」より

 

 

少し戻って本山スキー場と無意根山荘があった場所へ (青字マーク)
ここは車で行けた

 



ご覧の通り山荘もリフトもプールも何もない
この最奥に無意根山への登山道があるので登山者にはおなじみの場所であろうが
ちなみに無意根山荘は北海道の建築家、田上義也氏の設計であった。

 

数千人が住んでいたという集落とは想像が出来ない地域だった
空知の炭鉱地区と同様でヤマが開いているうちは人が多いが閉山すると誰もいなくなる

おそらく自分も ここへはしばらく来ることはないだろう。

 

振り返ると定山渓天狗岳が夕陽を浴びてこのうえなく綺麗だった

 

 

 

「旧北海道教育大学札幌分校・北海道教育大学付属小中学校」

 

開校:昭和4(1929)年
閉校:平成元(1989)年
校舎:昭和25(1950)年竣工(小中学校) 解体:平成元年~2年

中央区南22条西13-1-1

 

教育大学と付属小中学校は元々は別所にあったが、その後に
「札幌市中央図書館」と、隣接する「やまはなサンパーク」がある場所に移転した。
そして現在は北区あいの里に移転している。

 

 

銅板には
「北海道教育大学札幌分校跡地」昭和4年~昭和62年
「北海道教育大学付属札幌小中学校」昭和25年~平成元年

沿革として
「北海道師範学校」明治19年創立
「北海道札幌師範学校」大正3年~
「北海道女子師範学校」昭和15年~
「北海道第一師範学校」昭和18年~
「北海道学芸大学札幌分校」昭和24年~
「北海道教育大学札幌分校」昭和41年~

 

師範学校とは教員を養成する学校である
その名残りは厚別区、開拓の村に師範学校の道場が移設されており
内部の見学ができる。

 

 

中央区に閑静な文教地区を形成したのはこの学校のおかげであろう
市民はご存じの通り現在は移転先のあいの里が文教地域になった。

大学は昭和62年、付属小中学校は平成元年に移転している。

 

 


2022年4月撮影

 

毎日たくさんの人が図書館や公園に来ている
関係者には悪いが現在の土地利用はベストだったよね。

ただ大学も付属小も校舎は素敵であった。

 


※北海道教育大学「開学三十年史」より

 


※付属小学校「百年史」より

 

 


田上義也氏の建築探訪①

2023-01-15 23:14:09 | 田上義也氏

田上義也(たのうえ よしや、1899年(明治32年)5月5日 - 1991年(平成3年)8月17日)は、日本の建築家、音楽家。

栃木県西那須野村(現・那須塩原市)出身。本名吉也。

大正から昭和にかけて、北海道を拠点に活躍した。
若くしてフランク・ロイド・ライトの影響を受け、確かな腕を持つ棟梁の小島与市と出会った。
北海道の気候風土に根ざした、特徴的な要素を持つ洋風建築を数多く残している。

また、札幌新交響楽団の創立者でもあり、初代指揮者も兼務した。

※wikipediaより

 

上記の通り田上さんは個性的な洋風建築をたくさん設計しました。
だが古いものが多く代表作のいくつかはすでに解体されています
それでも建築活動が長かったので現存している建物もまだまだあります。

レトロ建物を撮影してまだ2年半ですが、田上作品をいくつか撮影し
中には解体に間に合わなかった建物や撮影後に解体された建物もあります。

ここでは自分で撮影出来た建物だけ載せていきます
いずれは解体された建物でも設計図や写真が残っているものを、まとめていきたいと思います。

 

参考とさせていただいたのは
昭和6  (1931)年発行 EDITIONS KENSETSUSHA 「田上建築画集」
昭和34(1959)年発行 ㈱建設情報社 「北国の住まい」
昭和41(1966)年発行 らいらっく書房 「田上義也建築作品抄」
昭和46(1971)年発行 ㈱工業調査会 「札幌オリンピック施設 -競技場・選手村・関連施設などの記録-
昭和52(1977)年発行 現代出版社 「北のまれびと<エゾライト・田上義也>上・下巻」

昭和58(1983)年発行 北海道銀行 「北海道銀行三十年史」
昭和62(1987)年発行 ライフ出版社復刻版 「田上義也建築畫集復刻版」
平成7(1995)年発行~~平成19(2007)年発行までの 北海道新聞社 「〇〇の建築探訪」シリーズ 

平成14(2002)年発行 「田上義也と札幌モダン」
平成23(2011)年発行 北海道銀行 「北海道銀行六十年史」
「札幌ノスタルジック建築散歩」様 

 

※建築年数の古い順で
※設計年と建築年で多少のズレがあります

 

「旧高田治作氏邸」
1925年(大正14年)
小樽市富岡

 

個人住宅の第一号が小樽の旧高田氏邸
第一号作品がまだ現存していることが驚きだ

高田氏は小樽生まれで小樽日報記者時代に石川啄木と親交があった人物。
人脈を介しての建築依頼と思われる。

坂の途中にある角地なので景色は良いであろうことは現地で確認できた
角ばった外観と窓の意匠、とくに階段室と思われる縦長の窓が印象的。

住宅街なので住民以外はあまり通らない場所だが、行って見れば思わず立ち止まって眺めてしまうだろう。

施主は数回変わっているが皆さん治すところは治しながら大事に住まれている。

 

 


2021年4月撮影

 

 

「旧小熊捍教授邸」
1927年(昭和2年)
札幌市中央区

 

北海道帝国大学(現在の北海道大学)の小熊捍(まもる)教授の自邸として建設された。

小熊教授は友人の西村北大教授の土地に建てたアトリエ(百円の家)を気に入り、設計者である田上氏を紹介してもらい自宅の設計を依頼したとあるが、北海道医師会初代会長であった開場博士の田上氏設計の自宅を見て気に入り田上氏を訪ねたの記もある。

昭和2年といえば田上氏28歳のころだった。

場所は南1条西20丁目にあったらしく、やがて隣にも田上氏設計の住宅(太秦北大教授邸)が建設された。
現在でいえば裏参道の入り口にあたる場所だろうか


※昭和33年当時の住宅地図 赤枠が「旧小熊邸」で名前は当時施主の「島本宅」
道路を挟んで西隣に「太秦」宅の名前も見える ここが西20丁目と21丁目の境目


邸の前の道路には路面電車がかつて走っていた(現在は地下に市営地下鉄東西線)
今はマルヤマクラスなどがある中央分離帯がある道路です。
西の突き当りが路面電車の旧円山公園電停跡でした。


※ストリートビューで見る現在地 左のMSが南1条西20丁目、道路を挟んで21丁目なので
ここに「小熊」「太秦」の田上氏設計の住宅が並んでいたと思われる。

 

東京帝国ホテルの建設で師事したアメリカ人の建築家フランク・ロイド・ライトの影響を受け、
大きく張り出した軒、窓の形や水平性を強調したデザインなどにロイドの影響を感じられる。

現在、2階正面に飾られている写真が小熊教授。
建築中に教授連を連れて見学に行ったら思ってもいないような作り方をしているので怒り「こんな家に金は払わない」と帰ってしまった。

その後に田上氏に謝罪し和解をしたエピソードがある
田上氏も若く自信もあり譲らなかったのでしょう。

小熊邸を訪ねた教授連や知人などからさらに田上氏に設計依頼があった。

移築後の場所は伏見5丁目。

 

 

 

 

この建物にはまだエピソードがある。

小熊教授が本州に転勤した後、創立したばかりの「北海道銀行」の所有になり
東京から来た初代頭取、島本 融氏が居住し大変に気に入った。
設計者である田上氏を呼び歓談したとある。

島本氏はその後この家の増築、東京の自宅、それに70を超える北海道銀行の支店や寮、保養所の建築を田上氏に依頼した。
また邸を訪ねた客が住宅を気に入り田上氏に建築の依頼をしたり
北海道銀行の重役なども住宅依頼をしている。

 

田上氏の建築人生には戦後の空白期間があるが、その時に島本さんと出会ったことは
田上氏の人生において大きな意味があったのではないか



※北海道銀行三十年史より

 

所有者が変わったりしながら、平成に入ると解体を危惧した市民の保存運動が起こり現在の地に平成10(1998)年に再現された。

当時の建物の建材はほとんど使われていないようなので移築とはいいがたいようだ
ただ建物のモダンさは当然として田上義也氏にとって意義のある建物と理解され
保存しようとした当時の市民関係者に敬服します。

 

現在はフィッシングショップの「ドリーバーデン」が1階と2階を使用しカフェを営業している。
内部を見るには釣りの商品かカフェを利用することだ。

 

 

 

 

 

 


2020年9月撮影

 


※田上建築画集より

 

 

「旧坂牛直太朗氏邸」
1927年(昭和2年)
小樽市入船

 

田上氏初期の作品に小樽の建築が多い
「田上義也と札幌モダン」では小樽人脈として、坂牛直太朗氏をあげている。

坂牛氏は小樽新聞社の社長であった上田重良氏の没後、夫人の久寿子さんが社長となり
それを補佐したのが女婿であった坂牛直太朗氏である。

大正13(1924)年に田上氏が突然来訪したときから交友が始まったと述べている
この前年に田上氏は「バチェラー学園」を竣工しているが、バチェラー氏は
坂牛氏が教会委員を務めた小樽聖公会に札幌から月1で来ていた。

そのようなバチェラー氏、キリスト教を背景として田上氏が人脈を作ったのかも知れない。

坂牛邸は張り出した多角形の応接間や垂直、水平線が印象的な個性的な家で
旧小熊邸と並び現存する中で代表作だと思う。

小樽公園を目の前にし、反対方向には天狗山が見える
お向かいには小学校も新設された。
所有は坂牛家だが現在は居住していないように見えた。

今の隣家は宗教法人の「MOA」になっているが、かつては坂牛氏の義母(上田家)の家があり、新築も田上氏が手掛けた。
建物は解体されたが名残りの「サイン」が坂牛邸との境の石垣に彫られている。

 

 

 

 

 

 


2021年4月撮影

 


※田上建築画集より

 

 

「旧佐田作郎氏邸」
1928年(昭和3年)
函館市元町

 

佐田氏は商事会社の社員としてカムチャッカや上海などで腕をふるい
函館出張所では主任として赴任する。
上海での勤務を活かし函館最初の支那への直航船を向けるなどして
海産商、経済界、社交界、やがて市議として活躍された。
そして終戦の一か月ほど前にフィリピンで戦死している。

佐田氏との関係性は現在不明だが、札幌の旧小熊邸の翌年に竣工しているので同時期の設計ではと言われる。

通称「プレイリーハウス」と呼ばれるがこれは田上氏の師匠であるF.Lライト氏が建てた建物の様式
「プレイリースタイル」に由来する。
ただ意匠は同じではないようだ。

観光客の多い元町であるが住宅街の小路突き当りにあるのでひっそりとしている。

後年にカフェの「日和茶房」に再利用されたが、閉店してしまった
現在は建物の内部を見ることは出来ない状態だ。

札幌の旧小熊邸、小樽の坂牛邸と並ぶ田上氏初期の代表的な住宅建築であろう。

 


 

 

 

 

 

 


2022年6月撮影

 


※田上建築画集より



※2015年札幌cafe本より



「S氏邸」
1929年(昭和4年)
札幌市中央区

 

S氏は北大農学部を卒業し、教官として残った。
同じ北大の小熊教授や太秦教授のどちらも知人であり、どちらの自宅を訪ねても建ち並ぶ田上設計の邸宅を見て紹介してほしいと頼んだのであろうか。

またS氏は北大恵迪寮の寮長であり、寮出身の小熊氏との交友はそこからかも知れない
現存しているS邸は増築や改築があり、建設当時とは1階の連続するガラス窓と2階の角にある窓にそれを見ることが出来る。

通りからは木々が多く満足に外観は見えないが、建物の裏側に建築当時の外観を見れるそうだ(敷地外からは見えないが)

当時は隣に養父である北大二代目学長である南鷹次郎氏の家があったが現在の所有者は別になった
ただ、S邸から3軒並んでレトロな建物が並んでいる
一番端の角の家は「札幌の建築探訪」に載るほどの家である。


 

 


2021年1月撮影

 

 

「S氏邸」
1930年(昭和5年)
札幌市中央区

 

S氏は北大医学部の教官出身の内科医師であり、竣工当初は医院兼、住宅であったようだ。

写真を見ると竣工時とは大きく改築されていることがわかるが
円筒形のデザイン箇所は原型に近い形で残されたようで医院当時は待合室であったの記載もある。

S医師と田上氏とは先に住宅を施工した医師会の人脈で依頼したのかも知れない。
(札幌市医師会館の建築も田上氏の設計による)

私事だが数十年前になるか、同じS医院という名前で駅前のビルに入居していた内科医院があった。
熱があったり風邪をひいた時はそこへ行っていた。
当時でさえすでにおじいちゃん先生であったが、もしかすると施主と関係があったかも知れない。

 

 

 


2020年8月、21年1月撮影

 


※田上建築画集より

 

 

「旧瀬川氏邸」
1930年(昭和5年)
小樽市見晴町

 

旧瀬川邸も現役の個人住宅である
海が見える山側にあり、撮影場所の車道から見上げるように敷地はよく見えるが
住宅が隠れるくらいに樹木があり全貌はよく見えない。

わずかに垣間見える玄関や窓枠の意匠などが歴史を感じさせる
外観の角ばったところが田上氏デザインを思わせるくらいかも知れない。

瀬川氏は当時「北海タイムス」の営業局長であった
美術・芸術のジャンルにより田上氏と北海タイムスの人脈繋がりが深くなった結果、田上氏に依頼したと思われる
この見晴町の住宅は当時の近辺の建物同様に別荘ではないかと思われる。

道路向かいには、田上氏の代表作であった「坂別邸」があったが2007年に焼失した。
坂別邸は1927年の竣工なので、それを見た瀬川氏が田上氏に設計の依頼をした可能性もある
いずれにしても映画のロケ地にまでなった旧坂別邸を惜しむ声は多い。

 

 

 

 


右側に旧坂別邸があった 2021年1月撮影

 

 

「旧石狩海浜ホテル跡」
1937年(昭和12年)
石狩市弁天町

 

1937年に竣工後、内部未完成のまま1945年に空襲により焼失した
戦後も80年近くなると札幌、石狩に空襲があったこと自体知らない市民が多いだろう。
爆弾を落とす方は海辺にある大きな施設が目立ったからではと思う。

その後、最近になって「石狩海浜保護センター」敷地内で風呂場跡が発見され
専門家の研究により「石狩海浜ホテル」跡と確認された。

 

 

 

 

 

 


2021年5月撮影

 

 

「旧帝産落部事務所」?
1941年(昭和16年)
八雲町落部

 

どなたかのブログに旧帝産落部事務所と記されてあったが真偽は不明
改装はされており確かに独特の設計かと思うが…

田上氏は一時、請われて会社経営をしたことがある
それが旧帝産航空株式会社で、八雲町落部で取締役工場長に田上氏が就いた。
 
戦時中に軍機に使用するベニヤ板を製造していたので戦後は米軍が摂取に来て
役員である田上氏には責任を科せられるかもだったが事なきを得た
また作家の伊藤整を夫人同士の繋がりにより雇用をしていた。
 
 
工場がこの敷地周辺にあり、建物は事務所であったとの情報を見た。
工場の創立は昭和18年ころで、工場は戦後に閉鎖されいくつかの会社の手に渡ったのち解体されたようだ。

現在「落部7区会館」になっているこの建物は当時のものの可能性があり
田上氏設計の可能性もあり?
 
現地に誰かいれば聞くことも出来たが誰もおらずかなわなかった。
建物は窓の小割風がなんとなく田上氏っぽくないかなぁと想像するのも楽しい。

 

 

 

 


2022年6月撮影

 

 

「更科源蔵氏邸」
1956年(昭和31年)
札幌市中央区

 

更科氏(1904-1985)は北海道生まれの詩人、アイヌ文化の研究家である。
田上氏設計である平取町の二風谷小学校の校歌も作詞している
また北海道立文学館の初代理事長も務めた人物であった。

更科氏も伊藤整と交友があったとのこと
1985年死去 故郷の弟子屈町に「更科源蔵文学資料館」がある。

田上氏とは北海道立図書館(現北菓楼札幌本館)にて知り合った
共通の友人である金田一昌三氏(のち田上氏設計の住宅を建築するが解体)が館長をしていたのでその繋がりであろうと言われているが
更科氏の談によると昭和7.8年ころ田舎で印刷屋をしていた時に見慣れない不思議な男が名刺の注文をした
それが田上義也と更科氏の出会いと述べている。

写真の茶色の壁の部分が改築された箇所で、屋根が正三角のファサードであった建築時の写真と比べたら大きな違いがわかる。

のち田上氏設計の「北1条教会」が取り壊される計画が報道されると、更科氏ほか田上氏と交友がある人たちが中心になり
保存の会を立ち上げ保存運動をした(結果は1979年に解体された)

 

 

 


2021年1月撮影

 


※北のまれびとより

 

 

「西條八十歌碑」
1958年(昭和33年)
函館市啄木小公園

 

田上氏は住宅や施設だけではなく、このような碑も制作している
令和4年、函館に行った際、啄木像のある海辺の公園が目印で行ってみたが
田上さん自身も西條さんと共にここでこの啄木像を見たそうだ。

碑には函館ライオンズクラブと函館東ライオンズクラブの銘がある
田上氏も1969年に札幌エルムライオンズクラブの会長に就いている。

他のジャンルと同様にライオンズクラブも田上氏の人脈を広げるのに
一役買っていた。

 

 

 

 


2022年6月撮影

 

 

「旧支笏湖ユースホステル」2021年解体
1960年(昭和35年)
千歳市支笏湖

 

支笏湖ユースホステルは日本最古のユースホステルであり
現存している最古のユースホステルでもあった。

当初は1955年に旧支笏小学校の校舎を利用し開業したとある
その後1960年に三角屋根の旧館を田上氏が設計建築した。

田上氏は同年に札幌の「宮ヶ丘ユースホステル」を設計し、その後も多くのユースホステルを設計した
また支笏湖には1967年に「ホテル鹿の湯」を設計している(解体済)

湖畔にほど近い木立の中に見える赤く三角の屋根が地上にまで延びているのが外観の大きな特徴であった。

内部には螺旋階段を設け、これがとても印象的
田上氏の代表作に螺旋階段を設けた施設が他にもある。

また階段廻りの小さな窓は師匠である F・L・ライトの意匠に通じるものがあると言われる。

すでに数年前から旧館は営業しておらず林間に姿を見せるだけであった。
訪問時には、照明関係や備品等も取り外されており
一部の床や躯体などに不安がありそうだった。

支笏湖ユースホステルは2021年3月に鶴雅グループが取得した
その後、再開発が企画され支笏湖ユースホステルは解体された。

建物には人間もそうだが寿命があり、長く大勢の宿泊客に親しまれたまま
ピリオドをうつ。

最後の最後に内部を見ることが出来て感謝しかないなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2021年4月撮影

 


※2021年北海道新聞より

 

 

「旧宮ヶ丘ユースホステル跡」
1960年(昭和35年)
札幌市中央区

 

宮ヶ丘ユースホステルは支笏湖ユースホステルと同年の竣工だが、ホステルの開業自体は支笏湖のほうが5年早い。

場所は札幌市中央区の円山の林の中で、閉業~解体後の現在は散策路が整備されている。

ユースホステルの名残りは、建築と同時と思われる石垣が残っていた
現在では建物があった痕跡など一つもないが不自然にある石垣こそが
ここにユースホステルがあったと証明してくれる。

竣工時のホステルは何と言ってもサイロ型の展望台だろう
旅行者に北海道らしさを味わって欲しかったのか
また赤レンガを使用しているのも同様の理由かもしれない。

ちなみに田上氏は「北海道ユースホステル協会」の会長を務めていた時期がある。

 

 

 

 

 


2021年5月撮影

 


※北のまれびとより

 

 

「旧カトリック海の星保育園」
1960年(昭和35年)
函館市日乃出町

 

SNSで知り合った方より、この建物も田上義也氏の設計と教えていただいた。
創建時は、両翼があり今の場所から数10メートル左に移動した場所にあったことが2011年のストリートビューで確認できた。
 
次に2016年のビューでは現在の位置にある建物が建てられていて
同じ建物が並んでいるのを見ることが出来る。
 
そして2021年では現在の建物だけで左側にあった同じ形の建物は解体され
新園舎が出来上がっていた。
つまり古い建物を解体するときに、先に同じもの建ててから古いほうを解体した
そういう計画だったのだろう。
なので実際には2016年ごろに新築されたものが残っている。
 
田上氏設計の北湯沢ユースホステルで見る尖形のせり出す屋根
中部の窓はステンドグラスになっており園児のお祈りをする場所のようだ。
 
現在は「うみのほし認定こども園」として多くの子供を見守っている。
 
 
 
 
 
 

2022年6月撮影

 


※公式HPより

つづく

 


木造校舎・廃校 小樽市の閉校③ 

2023-01-13 21:42:56 | 木造校舎・廃校

小樽市の閉校(小学校) 赤字はレポート済 青字は今回レポート

  • 小樽市立富岡小学校(1969年小樽市立稲穂小学校と緑小へ分割統合)
  • 小樽市立桃内小学校(1990年小樽市立忍路中央小学校へ統合)
  • 小樽市立堺小学校(2006年稲穂小と小樽市立花園小学校へ分割統合)
  • 小樽市立量徳小学校(2012年花園小と小樽市立潮見台小学校へ分割統合)
  • 小樽市立祝津小学校(2013年小樽市立高島小学校へ統合)
  • 小樽市立若竹小学校(2013年潮見台小と小樽市立桜小学校へ分割統合)
  • 小樽市立色内小学校(2016年北手宮小、手宮西小、手宮小と統合し小樽市立手宮中央小学校、小樽市立長橋小学校、稲穂小へ分割統合)
  • 小樽市立北手宮小学校(2016年色内小の一部、手宮西小、手宮小と統合し手宮中央小へ)
  • 小樽市立手宮西小学校(2016年色内小の一部、北手宮小、手宮小と統合し手宮中央小へ)
  • 小樽市立手宮小学校(2016年色内小の一部、北手宮小、手宮西小と統合し手宮中央小へ)
  • 小樽市立天神小学校(2018年小樽市立奥沢小学校へ統合)
  • 小樽市立最上小学校(2018年)
  • 小樽市立緑小学校(2018年入船小の一部、最上小と統合し山の手小へ)
  • 小樽市立入船小学校(2018年奥沢小、花園小、山の手小へ分割統合)
  • 小樽市立豊倉小学校(2020年小樽市立朝里小学校へ統合)


(中学校)

  • 小樽市立富岡中学校(1957年旭ヶ丘中と統合し小樽市立西陵中学校へ)
  • 小樽市立旭ヶ丘中学校(1957年富岡中と統合し西陵中へ)
  • 小樽市立石山中学校(2002年
  • 小樽市立東山中学校(2002年小樽市立菁園中学校へ統合)
  • 小樽市立住吉中学校(同上)
  • 小樽市立塩谷中学校(2016年小樽市立長橋中学校へ統合)
  • 小樽市立末広中学校(2017年北山中と統合し小樽市立北陵中学校へ)
  • 小樽市立北山中学校(2017年末広中と統合し北陵中へ)

 

(高校・専門学校・短大)

  北海道小樽商業高等学校(2020年小樽工業高校と統合し北海道小樽未来創造高等学校へ)
  北海道小樽工業高等学校(2020年小樽商業高校と統合し北海道小樽未来創造高等学校へ)
  国立小樽海上技術学校(2022年国立小樽海上技術短期大学校に転換し閉校)
  小樽短期大学(2008年)
  

※wikipediaより

 

 

「旧北海道小樽工業高等学校」

開校:昭和14(1939)年
閉校:平成30(2018)年
校舎:昭和58(1982)年竣工

小樽市最上1丁目29-1

 

小樽工業高校は小樽商業高校とともに昭和からある学校で
商都小樽には工場も多かったためどちらも生徒は多かった。

科目の性質上、工業は男子、商業は女子が圧倒的に多かった
その両校が2020年に統合し「小樽未来創造高等学校」として再スタートをきった。

校舎は小樽工業高校を使用している。

小樽工業高校の校舎は初めて見たが、こんなに大きな校舎とは思わなかった
やはりかつて生徒数が多かった名残であろう

小樽商業高校のOBも寂しいが小樽工業高校もこれからは「樽工」と呼ばれることが少なくなるんだなぁと思った。

 

 

 

 


2022年12月撮影

 

 

 

「旧小樽短期大学」

開校:昭和42(1967)年
閉校:平成20(2008)年
校舎:()年竣工

小樽市入船4丁目9-1

 

小樽短期大学は昭和42(1967)年に「小樽女子短期大学」として開校した
私立大学である。

平成11(1999)年に男女共学の「小樽短期大学」となり平成20(2008)年に閉校となる。

現在は「小樽看護専門学校」と「エフエム小樽放送局」が入っている
なお「小樽看護専門学校」は採算悪化のため令和5(2023)年3月で廃止を検討したが小樽市が財政支援を決定した。

ただウィングベイ小樽への移転が検討されている。

 

「小樽女子短期大学」時代の校門が残っていた
位置からすると現在の校庭であろう場所に当初は校舎があったのではと思う

体育館には小樽短期大の名が残る
やはりこの学校は女子短大のほうがピンとくるだろう

新校舎はいつ建てたのかは不明だが二代目ではないかと思うがどうか?

 

 


 

 


2022年12月撮影

 

 



「旧廰立小樽高等女学校」

開校:明治39(1906)年
閉校:
校舎:()年竣工

小樽市花園

 

明治39年開校の古くからある学校で
開校当初が「庁立小樽高等女学校」
昭和22年(1947年)北海道立小樽高等女学校と改称。
昭和23年(1948年)北海道立小樽女子高等学校と改称。
昭和25年(1950年)北海道立小樽桜陽高校と改称。

現在の桜陽高校のルーツの学校であった。

昭和27年(1952年)花園町より清水町(現・長橋3-19-1)へ移転する。

現在のこの地には「小樽市立菁園中学校」がある
とはいっても菁園中学校自体も昭和22年開校で昭和27年にここに移転する。

現在の菁園中学校は新しく平成16年に竣工した校舎だ
その通学路にあたるスロープに記念碑が残されている。


旧高女の卒業生たち約500人により、記念碑を建立、平成6年除幕式を行った。
碑面には「廰立小樽高等女学校跡」と、台座には「しげりにしげるさくらをの」と校歌の一節が刻まれている。

また台座の下には500人の名簿が埋められているという。

ちょっとした高台になっているここからの眺めも良い
帰りに小樽駅から港を見ると大型フェリーが泊っていた
やはり小樽はどこから見ても眺めが良い町なんだな。

 

 

 

 

 

 


2022年12月撮影

 

 

 

 

「旧小樽市立北手宮小学校」

開校:昭和5(1930)年
閉校:平成28(2016)年
校舎:昭和54(1979)年竣工

小樽市梅ヶ枝町40-1

 

北手宮小学校は小高い丘の上にあり、通学路から小樽港が見えるロケーションです。
手宮小学校、手宮西小学校に続き手宮の名前を持つ3校目の開校であった。

この学校が有名なのは、なんと言っても「雪まつり発祥の地」。
昭和10年(1935年)、当時の校長のアイデアで第1回雪まつりが校庭で開催された
この時に大雪像が作られており、その後も児童、教職員で継承してきた行事である。

昭和25年(1950年)からの「さっぽろ雪まつり」の大雪像を作るアイデアは、この北手宮小学校の雪まつりから拝借したとされるので
すべての大雪像を含む雪まつりのルーツはここである。

その石碑が校門から入った右手にある
卒業生や地域の住民には思い出と誇りではないか
また以前は校舎内に雪まつりの資料室があったと聞くが現在はどうか


手宮の名を持つ3校が同時に統合し「手稲中央小学校」となる
校舎は手宮小学校を活用した。

また手宮西小学校は統合~閉校後に「北稜中学校」となった。

再活用が成されなかった北手宮小の校舎は現存しており、窓には閉校への文字が貼られている
が、ところどころ抜け落ちているのが時間の流れを物語る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2022年12月撮影

 

 

 

 

「旧小樽市立手宮西小学校」


※閉校記念誌より

 

開校:明治42(1909)年
閉校:平成28(2016)年
校舎:平成4(1992)年竣工

小樽市清水町5-1

 

手宮西小学校は統合~閉校後に「北稜中学校」として校舎が活用された
北稜中学校は旧北山中学校と旧末広中学校を統合~閉校させて作った学校である。

手宮地区は桜の名所である手宮公園のように海に向かって小高い丘が坂になって下る地形が多く、
手宮西小学校も眺めがいい場所である
過去には映画のロケ地にも利用された。

現存している校舎は近代的で、再活用されてしかるべき校舎であろう
冬季の訪問なので玄関前くらいからしか見ることが出来なかったが
校舎の裏手の山からみる景色や、桜の木の下に建てたといわれる閉校記念碑を見ることが出来なかった。

雪が溶けたらもう一度行ってみようと思う。

 

 

 

 

 


2022年12月撮影

 

 

 

「旧小樽市立手宮小学校」


※閉校記念誌より

 



開校:明治31(1898)年
閉校:平成28(2016)年
校舎:平成5(1993)年竣工

小樽市末広町13-5

 

手宮の名を持つ3校の中で最初に開校した学校である
現在の住所は末広町で他の2校も手宮ではない
明治32(1899)年に小樽区に編入された当時は「手宮町」だったのであろう。

閉校記念誌に現在の校舎の一つ前の校舎の全景が写っているが
横に一直線の箱形で教室棟と体育館が一体化している

新校舎は以前のグラウンドに新築したようだ
過去同様の箱形の校舎であるが昔ほど児童が居ないので長さは短くなっている
グラウンドはその空いた右半分がスペースだ。

以前の面影は昭和12年建立の二宮像がしっかりと入り口に残されており
これからも登下校の児童を見守るかの如く建っているのが印象的であった。

 

 

 

 

 

 

 

 


※閉校記念誌より

 

 

 

 

「旧小樽市立富岡中学校」


※OB様のブログより

開校:昭和22(1947)年
閉校:昭和32(1957)年
校舎:()年竣工

小樽市富岡1丁目5-10

 

富岡中学校の元は「稲穂女子小学校」であった
隣に「稲穂小学校」があるが戦前は男女同じ学校ではなかったために
小学校が隣接したようだ。

戦後の昭和22年「富岡中学校」となり女子学生は稲穂小学校に移った
小中学校の隣合わせである。

しかし児童数の増加により稲穂小学校だけでは手狭になり
昭和32年、富岡中学校を旭ヶ丘中学校と統合させ西陵中学校とし
校舎を旧旭ヶ丘中学校を使用した

そして空いた校舎を今度は「富岡小学校」とした。
別々の小学校がグラウンドを挟み隣にあったのである
(小樽市の閉校①にあり)

名称だけだと「富岡中学校」はわずか10年間しか存在しなかったのだ。

「旧稲穂女子小学校」「旧富岡中学校」「旧富岡小学校」があった場所は現在の「小樽市保健所」である。


 

 


2021年9月撮影

 

 

 

 

「旧小樽市立旭ヶ丘中学校」「小樽市立高等女学校」


※小樽市高等女学校 誌より

 

 

開校:大正10(1921)年
閉校:昭和32(1957)年
校舎:昭和57(1972)年改築(西陵中学時)

小樽市富岡2丁目26-1

 

現在は「小樽市立西陵中学校」になっているが元は
大正10年に「小樽高等女学校」として開校
昭和22年に「旭ヶ丘中学校」と改称し
昭和32年に「富岡中学校」と統合して校名が「西陵中学校」となった。

校名は素敵な名前であると思うが、わずか10年の名称であったことになる。

小樽の海を見下ろす高台にあるので環境は良いと思うが
毎日の通学は疲れそうでどうだったろうか。

現、西陵中学も校舎としては古くなり建て替えが必要に見えた
場所柄多くの卒業生がいると推察する。

 

 

 

 

入り口の校門には向かって右側に「西陵中学校」のプレートが
左側に「小樽市立高等女学校」のOB会によるプレートがあった。

旧稲穂女子小学校と同じく戦前は男女別に、戦後に男女一緒になり「旭ヶ丘中学校」となった

「旭ヶ丘中学校」を表すものはひとつも見つけるものは無かったが
両校とも当時の写真が現存していた。

 

 

 

 

 

 

 


2022年12月撮影

 

 

 

 

「旧国立小樽海上技術学校」

開校:昭和14(1939)年
閉校:令和4(2022)年
校舎:昭和51(1976)年竣工

小樽市桜3丁目21-1


小樽海上技術学校は開校時は中学卒業者の船員養成学校として
「小樽海員学校」として開校した。

校舎は昭和51(1976)年に桜町に移転した際に建てられたもの。

その後、平成13(2001)年に「国立小樽海上技術学校」に改名
令和4(2022)年に「国立小樽海上技術短期大学校」になり、旧小樽商業高等学校の校舎(小樽市緑)に
移転し、旧学校は閉校した。

 

国道5号線を朝里から桜に入る途中を右折し急坂を登っていく
左側にある学校が閉校した旧校舎だ。

今年の閉校であるがすでに3年前から新入生の受付はしていなかったため
最後の利用者は少なかっただろう。

打ち付けられたベニヤが新しいうちに次の利用があればよいが

 

 

 

 


2022年12月撮影

 

 

 


木造校舎・廃校 小樽市の閉校② 

2023-01-10 11:24:34 | 木造校舎・廃校

小樽市の閉校(小学校) 赤字はレポート済 

  • 小樽市立富岡小学校(1969年小樽市立稲穂小学校と緑小へ分割統合)
  • 小樽市立桃内小学校(1990年小樽市立忍路中央小学校へ統合)
  • 小樽市立堺小学校(2006年稲穂小と小樽市立花園小学校へ分割統合)
  • 小樽市立量徳小学校(2012年花園小と小樽市立潮見台小学校へ分割統合)
  • 小樽市立祝津小学校(2013年小樽市立高島小学校へ統合)
  • 小樽市立若竹小学校(2013年潮見台小と小樽市立桜小学校へ分割統合)
  • 小樽市立色内小学校(2016年北手宮小、手宮西小、手宮小と統合し小樽市立手宮中央小学校、小樽市立長橋小学校、稲穂小へ分割統合)
  • 小樽市立北手宮小学校(2016年色内小の一部、手宮西小、手宮小と統合し手宮中央小へ)
  • 小樽市立手宮西小学校(2016年色内小の一部、北手宮小、手宮小と統合し手宮中央小へ)
  • 小樽市立手宮小学校(2016年色内小の一部、北手宮小、手宮西小と統合し手宮中央小へ)
  • 小樽市立天神小学校(2018年小樽市立奥沢小学校へ統合)
  • 小樽市立最上小学校(2018年)
  • 小樽市立緑小学校(2018年入船小の一部、最上小と統合し山の手小へ)
  • 小樽市立入船小学校(2018年奥沢小、花園小、山の手小へ分割統合)
  • 小樽市立豊倉小学校(2020年小樽市立朝里小学校へ統合)


(中学校)

  • 小樽市立富岡中学校(1957年旭ヶ丘中と統合し小樽市立西陵中学校へ)
  • 小樽市立旭ヶ丘中学校(1957年富岡中と統合し西陵中へ)
  • 小樽市立石山中学校(2002年
  • 小樽市立東山中学校(2002年小樽市立菁園中学校へ統合)
  • 小樽市立住吉中学校(同上)
  • 小樽市立塩谷中学校(2016年小樽市立長橋中学校へ統合)
  • 小樽市立末広中学校(2017年北山中と統合し小樽市立北陵中学校へ)
  • 小樽市立北山中学校(2017年末広中と統合し北陵中へ)

※wikipediaより

 

 

「旧小樽市立色内小学校」

 

開校:1901(明治34)年
閉校:2016(平成28)年
校舎:1988(昭和63~平成2)年   

小樽市稲穂5丁目17番1号

 

2022年12月に再訪しました

印象的な青い外壁はもとより、校舎はすっかり解体されたばかりでした
無くなったら広い敷地だったことが改めてわかります

昨年の9月下旬から解体工事が始まってこの12月にはほぼ終了していました。

これからここには道営住宅が新築されるようですね。

 


このような碑や像があるのは知らなかった
これらはどこに行くのだろう

 

 

 

 

 


2022年12月撮影

 

 


色内小学校がある敷地は坂の町小樽でも勾配のキツイ坂道に建っており
正門はその坂道に面している。

坂の上と下に道路があり3方向から校舎を見ることが出来る
思ったより大きな校舎は何年の竣工かは現在不明
坂の下から見る青い壁が印象的だ。

この校舎は小樽駅前の国道5号線からも、青い壁面が目印で見える。

 

昨年12月の新聞にて道営住宅を建設することに決まったそうだ
予想では今年の解体、来年に建設予定です。

歴史のある学校が閉校したのは寂しいが、まだ校舎が現存している間は
地元住民も卒業生も眺めることが出来た
だが、これで本当に無くなるんだよねぇ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年12月撮影

 

 

 

 

「旧小樽市立石山中学校」

 

開校:1947(昭和22)年
閉校:2002(平成14)年
校舎:1957(昭和32)年竣工

小樽市石山町4-1

 

2022年12月に再訪しました

色内小学校の解体跡を見に行ったのですぐ上にある
石山中学校も見に行きました。

 

ここは変わらず入れないなぁ

 

石山中学校は小山の頂点にあるが、そこから石山町側に下る途中に何か見えた

 

徒歩で下ってみると校門があるではないか!
そうか、ここからも通学路になるんだ

 

うーん 行けば行けるけど住宅街の中の閉校内に立ち入り禁止のロープを超えていくと
往復中で住民から何を言われるかわからない 校舎まではあきらめる。

 

 

 


2022年12月撮影

 


石山中学校の場所は前記の色内小学校のさらに坂を上り切ったところにある
この校舎が有名なのは何といっても円形校舎だからであろう。

もう道内に数えるほどしか現存していない珍しい校舎
冬は入れるかなと思ったら厳重注意プラス積雪で断念!

せっかく来たのでどこかから覗けないかと近くの住宅街に入ると
ほんの一部だが円形校舎がチラ見えた

また色内小学校同様に国道5号線からも見えるが
現在は住宅が前に建ち全景は見えない。

いつか見学会とかあればぜひとも参加したいね
最近の小樽市なら解体の可能性もあるので情報を仕入れていよう。

 

 

 

 

 

 

 

2021年12月撮影

 

 

 

「旧小樽市立桃内小学校」

開校:明治16(1883)年
閉校:平成2(1990)年
校舎:昭和32(1957)年竣工

小樽市桃内1丁目167

 

桃内小学校の歴史は古く、元は個人の所有していた土地を寄贈し校舎を建てた。

桃内と言えば日本海側の漁村に多く見られる川が日本海にそそぎ
その周りに上流へ向かい家が建てられる
そして一番奥に学校がある 避難所の位置づけかもしれない。

塩谷を過ぎて余市へ向かう途中のトンネルとトンネルのわずかな間に集落がある
川に沿うように上流へ向かうと「会館」があった。
その前に広場、奥に碑がある。

ここが桃内小学校の跡地で広場は校庭だ
平屋の会館があるが、校舎はすでに解体され跡地に会館を建てたのだろうか?
碑は創立100年記念の碑である。

小学校があったことはわかるが
閉校したことが判ればもっと良かった。

 

 

 

 

 


2022年7月撮影

 

 

 

「旧小樽市立塩谷小学校 伍助沢分教場跡」

開校:明治36(1903)年
閉校:大正11(1922)年
校舎:調査中

小樽市塩谷4丁目

 

分教場があったことを示すものは
「伊藤整 坂西志保ゆかりの地」と一緒にたてられている立札だけ。

日露戦争の戦地から戻った整の父、昌整(しょうせい)が明治38年に教員として赴任した土地で住宅兼教室であった。
ここで伊藤整は1歳から4歳まで過ごした。

当時は30人の生徒が一緒に授業を受けていたとある

昔は塩谷から天狗山中腹を通り、小樽市内に抜ける道路を「軍用道路」と言った 現在は「小樽環状線」というこの通り沿いに教室があった。

今は頭上には新しく開通した高速道路の陸橋がある
ちょっとした広場が伊藤整の住宅兼教室のあった場所だろう。

昭和54年、伊藤整の友人らにより「塩谷小学校伍助沢分教場跡」の標柱が建てられた。
この標柱はその後倒れ、繁った草むらに隠れていたが、このほど地元の伊藤整研究家の手で建て直された。

 

 

 

 


2022年7月撮影

 

 

 

「旧小樽市立祝津小学校」

開校:明治9(1876)年
閉校:平成25(2013)年
校舎:昭和63(1988)年

小樽市祝津3丁目64

 

現在の校舎は東側に体育館、西側に教室が並んでいるが
西側の角はカーブを描いており、さらに変わった形の柱が付いてある
1本の表に回ってみたら柱に校名が記されてあった。

なかなか珍しい作りだ
魚が描かれたタイルも、波をあしらった校章も「海の町祝津」を表現している。

体育館はごく普通の造りに見えるが古くはない
現在も再活用が出来ぬか検討中のようなので、何とか利用できないものか。

グラウンドは1段下がった場所にあり対面には歴史的建物である「旧青山別邸」を臨める。

祝津小学校は小樽で初めてオープン教室をプランとして設計された学校で注目された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2022年7月撮影

 

 

 

「旧小樽市立住吉中学校」

開校:昭和22(1947)年
閉校:平成14(2002)年
校舎:昭和42(1967)年竣工

小樽市住之江1丁目3-3

 

この界隈は国鉄南小樽駅があり、昔からの問屋街と言われた。

この校舎は小樽では現在でも珍しい高層箱型の中学校であった
狭い土地に建てたので上に高くなったこと、体育館は4階部分と吹き抜けになっていると推察する
校庭は今見ても狭く感じる。

見てわかるのは隣接して双葉高校があること
この学校は住吉中学校より古く歴史がある学校だ
その位置関係により住吉中も双葉高校の一部と勘違いされたとか

住吉中学校が平成14年に閉校するとその年に取得し、改修後の平成16年
双葉中学校として再スタートを切った。

 

 

 

 


2022年7月撮影

 

 

 

「旧小樽市立塩谷中学校」

開校:昭和22(1947)年
閉校:平成28(2016)年
校舎:昭和49(1974)年竣工

小樽市塩谷2丁目32

 

白樺並木を抜けたところに校舎がある
立ち入り禁止なので、柵前から撮影をした。

手前にあるプレハブらしき建物に閉校式典の看板が取り付けてあった。

看板といえば校舎前にも校名の立て看板がある
平成28年の閉校とはいえ、文字が見えなくなるのは間近のようで寂しく感じる。

校庭は1段下がったところ
閉校から6年の歳月は草ぼうぼうとなり自然に帰っている。

それにしても高原にあるかのような白樺並木を通って通学する校舎が
小樽にあったのは初めて知った。

 

 

 

 

 

 


2022年7月撮影

 

 

 

「旧小樽市立末広中学校」

開校:昭和22(1947)年
閉校:平成29(2017)年
校舎:昭和55(1980)年竣工

小樽市手宮2丁目6-1

 

末広中学校の場所は、前記の小樽市の建築探訪にある「旧手宮ターミナル」五差路のうちの一つ
手宮公園へ向けて真っすぐに登る坂道を行く。

てっぺんについたら右に曲がると先に見えてくる
地図では手宮公園の真裏にあたり建物が近くに見えない。

まさか熊が出るわけではないが、ここに通うには坂道と人気の少ない山林に
疲れと一抹の不安をおぼえないか。

校門が現存しており校名プレートもあった
校舎や体育館は再活用できそうで校章も付いたままだった。

初めて校舎を見たが4階建ての校舎がここにあるとは驚いたものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2022年7月撮影

 

 

 

「旧小樽市立北山中学校」

 

開校:昭和22(1947)年
閉校:平成29(2017)年
校舎:平成元(1989)年竣工

小樽市赤岩2丁目23-1

 

北山中学校と末広中学校は開校と閉校が同時であり
位置は隣の学校である。

それなのに統合した新しい校舎は旧手宮西小学校の校舎を改築して使っている
両校とも使用できそうな校舎であるが、校舎のある地域が偏るのを避けるためもあるのだろうか。

北山中学は赤岩にあり小樽の中学校では最北にある
祝津、高島が近いので漁業関係者の子弟も多いだろう。

学校は坂下の校門からグラウンド、そして校舎と段々と高度が上がる
閉鎖された生徒玄関の向かいにモミュメントが残っている。

箱形の3階建て、よくあるタイプの校舎だ
ただ生徒玄関の端から先は解体されたような跡がある
おそらく体育館がここにあったのでは?

体育館だけ解体するのもおかしいような気がする
他でよく見たのは校舎は解体しても体育館は地元で使う用途があるからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2022年7月撮影

 

 

 

「旧小樽市立入船小学校」

開校:1930(昭和5)年
閉校:2018(平成30)年
校舎:1976(昭和51)年竣工

小樽市入船3丁目19-1

 

入船小学校は平成30年の閉校なので、その役目を終えたばかり
入船町にあるが、小樽運河に近い1丁目から天狗山に向かって上り、松ヶ枝町に近い位置にある学校だった。

校門も新しく、学校名も残したままだ
ここから少し坂を登らなければいけない
登りきると生徒玄関があるが、すでに立入禁止である。

円窓が印象的な正面玄関だが、それ以外は特に特徴のない校舎です
校庭は前庭と後庭があるがバックネットがあり広いのは後庭

裏手の一部は一段高くなっており校舎と校庭を見下ろすことが出来る
ちょうど桜の季節に行ったので綺麗であり
段が付いているのは運動会などのギャラリースペースであったとのこと。

ここで子供を応援して、楽しみの昼ごはんをみんなで食べたのはいつ頃までだったのか。

 

 

旧校舎の職員玄関と前庭が写る珍しい写真です
それにしても当時は斬新なデザインであった。

2019年5月撮影

 

 

 

 

前回にも載せた「入船小学校」が解体されました
現場はすでに建物は少しも残っておらず、重機がならしていましたね

「旧小樽市立入船小学校」跡

 

開校:1930(昭和5)年
閉校:2018(平成30)年
校舎:(昭和)年竣工

小樽市入船3丁目19-1

写真にある通り解体した後の利用が決まっており
この後に低区配水池の造成工事が始まります。

 

小樽市の上水道はいくつかの系統があり
この入船小学校の上部にある施設もそのひとつ

移動するのかはわかりませんが学校とグラウンド、校庭の敷地だから
広さはありますね

 

写真は昭和40年ごろの初代校舎で職員玄関にあたります

 

これが閉校時の2代目校舎、生徒玄関にあたります

 

入船小学校は88年の歴史の中で増改築をしながらも
玄関部分は2代で過ごしたようです。

 

歴史のある小学校は現在は真新しい校名プレートだけが
学校があった記になった。

 

2021年12月撮影