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札幌・北海道のレトロ建物大好きおぢさん日記

札幌(北海道)のレトロでモダンな建物を見たり撮影するのを趣味としています。

木造校舎・廃校 寿都町の閉校②

2024-11-23 23:02:05 | 木造校舎・廃校

※wikipediaより 赤字は今回レポート 

小学校

中学校

  • 寿都町立寿都中学校〈旧〉(1979年統合により寿都町立寿都中学校〈新〉へ)
  • 寿都町立樽岸中学校(同上)
  • 寿都町立湯別中学校(同上)
  • 寿都町立歌棄中学校(同上)
  • 寿都町立磯谷中学校(同上)

 

 

「旧寿都町立湯別小学校」

 

開校:明治16(1883)年
閉校:平成3(1991)年
校舎:昭和55(1980)年

寿都町湯別町下湯別

ナビ「寿都町農村活性化センター」

 

ここで海沿いから内陸部に向けて移動する

国道229号線は積丹半島の海沿いをぐるりと廻り岩内、寿都町の海沿いを南下して一旦内陸部に入る 
そして再び寿都湾を海沿いに行く。

寿都町で内陸部に入り、ナビに従い枝道に入る
目印はこの看板なので迷わない。


湯別の町自体はもう少し先だが、先に体育館~校舎が見えてきた

 

体育館は見た目新しく校舎もRC鉄筋コンクリート造のようだ

玄関前のイチョウの黄色が眩しい

 

 

この校舎はなんと言っても玄関右側上部にあるアーチ状のデザインだ
これがあるとないとでは随分と印象が変わる

特に面白いなと思うのはこのアーチは正面玄関の真上じゃなくて
右に一つずれている
おそらく中は階段室だと思うのでちょっとずれたのでは?と思う

 

 


表面は汚れ、金属部分のサビやカビだろうか これが閉校としていい味を出している

 

 

 

 

 

ポールの台座に「新校舎落成記念」とある 昭和55年10月

 

 


2024年11月3日撮影

 

 

 

「旧寿都町立樽岸小学校」

 

開校:明治14(1881)年
閉校:平成3(1991)年
校舎:(確認中)年

寿都町樽岸町

ナビ「北海道樽岸臨海実験所」

 

次の閉校は湯別から国道229号線に戻り、再び日本海を目指す
その手前にあるのが「北海道樽岸臨海実験所」でここが旧樽岸小学校と樽岸中学校があった場所。

 

校舎も現存しており、プレート付の校門や二宮像も残っている
この日は日曜日だったからか誰もおらず、校内の駐車場(校庭の一部)をお借りした。

 

 

 

 

 

 

 

 

体育館もあるのでほぼ学校として機能出来るように見えるが
雑草が生い茂った校庭はいたしかたないだろう
閉校からもう30年は経っているのだ。

 

 

 

なんて書いてあるかわからず


バックネット いい味出している

 

 

うんていがあった

2024年11月3日撮影

 

 

「旧寿都町立政泊小学校」


※寿都歴史写真集より 1930年ころ

 

開校:明治16(1883)年
閉校:昭和51(1976)年
校舎:(確認中)年

寿都町寿都町

ナビ「弁慶岬休憩所」

 

政泊小学校の跡地は確証がない

ネットで、ある方がここではないかと紹介していた場所へ行って見た。

確かに古い航空写真には小さな校舎状の建物が写っており
現地では平地が少ないが、そこにはまずまずのスペースがあった。

 

帰途に寿都町の図書館で閉校記念誌でも無いかと探したが無かった
ただ当時の写真は札幌の中央図書館で見つけた
それが一枚目の写真。

 

なのでこの周りに以前は民家があった漁村だとすると
海に近い場所に学校があるだろう

このような写真もあった


※寿都歴史写真集より

これは1970年代の運動会の様子
「当日が近づくと、校長と教員二人、保護者たちが総出になって、学校から道路を隔てた草原を整備した~
右手奥には弁慶岬灯台が見える 現在の赤と白の塗装になる前は真っ白の灯台であった」

とある

灯台の見える位置で道路を隔てた草原の平地であること


次の写真は閉校式の写真


※寿都歴史写真集より 1976年

 

後ろに写る山

現在の写真の右側の山と思われる
ただ角度は、わからない

 

それでも2点の写真から学校があった有力な場所と思われる。

 

一応目印は先に見える廃屋の手前

 

向かいは海が臨める

 

政泊地区は寿都湾の南側のツメのような部分で
そこには「弁慶岬」がある
また上からは見えないが漁港も下にあるのだ。

 

このような場所探しは楽しいし、現地に住人がいたら聞くのも楽しいのだけどね。

2024年11月3日撮影

 


木造校舎・廃校 寿都町の閉校①

2024-11-21 23:06:56 | 木造校舎・廃校

 

※wikipediaより 赤字は今回レポート 

小学校

中学校

  • 寿都町立寿都中学校〈旧〉(1979年統合により寿都町立寿都中学校〈新〉へ)
  • 寿都町立樽岸中学校(同上)
  • 寿都町立湯別中学校(同上)
  • 寿都町立歌棄中学校(同上)
  • 寿都町立磯谷中学校(同上)

 

寿都町は積丹半島の南、寿都湾に面した町で中心地である海沿いと山岳地区がある。
古くから鰊漁で賑わい北部の海沿いには漁関連の歴史的建物が並ぶ
また風力発電が盛んな風の街でもある。

閉校の多くは海沿いにあり、山側を上り小高い場所に学校があった
やはり海沿いは土地が狭いこと、住民の避難場所でもあるので高い場所になったのだろう。

 

 

「旧寿都町立磯谷小学校」


※寿都歴史写真集より 旧校舎

 

開校:明治12(1879)年
閉校:平成3(1991)年
校舎:昭和3(1928)年(旧校舎)

寿都町磯谷町能津登15

ナビ「寿都町 海神社」

 

岩内町から南下し寿都町に入る
寿都湾を望みながら海沿いを快適に走る

やがてナビ先の「海神社」に到着
ここには「磯谷小学校」と「磯谷中学校」の校門と二宮像があった。

 

 

 

 

 

 

 

坂を登っていくと右側にぽっかりと平地がある
ここが「磯谷小学校跡地」で校舎ほかすべて解体済である

 

 

 

 

 


プレハブ以外は何も無く、正面に校舎があったのだが
知らなければ分からない。

 

登ってきた坂道のちょっとだけ上に反対側への進入路がある
ここが「磯谷中学校跡地」で、大きな電気関係の施設と記念碑以外は何もない

だがここにある百周年記念碑は「小学校」の記念碑だった。

 

 

2024年11月3日撮影

 

 

 

「旧寿都町立磯谷中学校」

 

開校:昭和22(1947)年
閉校:昭和54(1979)年
校舎:昭和25(1950)年

寿都町磯谷町能津登15

ナビ「寿都町 海神社」

 

目と鼻の先の「磯谷小学校跡地」から少し登った反対側に進入路があり、雑草に覆われた平地がある

ここが「磯谷中学校」の跡地だ

 

大きな電気施設?と記念碑があるが、これは「磯谷小学校」のもの

 

 

 

 


小学校が向かいの場所に移設した後の校舎を中学校として活用した
百周年記念碑は最初にここにあった「小学校」に対して造られたのだろう
記念碑のすぐ後ろに校舎が建っていた。

それにしては中学校も独立校舎なのに、何らの碑や痕跡が無いのも寂しいものだ

 

晴れた日は海が綺麗に見える場所だ。

 

 

 

 

 

2024年11月3日撮影

 

 

「旧寿都町立横澗小学校」


※寿都歴史写真集より

 

開校:明治15(1882)年
閉校:平成3(1991)年
校舎:(確認中)年

寿都町磯谷町横澗1128

ナビ「横澗小学校閉校記念碑」

 

横澗小学校も海沿いから山側の高台に上がった場所にあった
上記の航空写真で「ヨコマ」の人文字は校庭である。

校舎があった場所は現在は「寿都浄恩学園」になっていた

そこから1段降りた場所が校庭で
記念碑はここにある。

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

横澗の集落は現在もあり、漁港も他に比べると大きく感じた

磯谷小中学校同様に、漁師の集落だったようだが結構な高度にあるので
農業や牧畜もあったと推察する

何でも不漁とともに人が去り子供も減って閉校したとある。



ここも海が見える学校だった

 

2024年11月3日撮影

 

 

「旧寿都町立美谷小学校」

 

開校:明治15(1882)年
閉校:平成3(1991)年
校舎:(確認中)年

寿都町歌棄町

ナビ「美谷稲荷神社」

 

南下を続けるたびに山側に登り閉校を訪ねる
美谷地区は小さな漁村で漁港も横澗に比べると小さい

 

「美谷小学校」も同様に山へと登っていく

ここの入り口は狭く、ここで良いのか一瞬躊躇した
目印は下の表示がある細い小路を登る。

 

※ナビにした「美谷稲荷神社」が右に屋根が見える
そこまで南下して行くと行き過ぎになる

 

やがて眼の前に校舎が見えた

 

以前はここにバックネットがあった

ここは木造板張りの校舎と体育館、それと教員住宅と思われる建物が現存している

 

 

 

 

あいにく雲が多くなり暗くなった
しかし正面玄関の木枠に塗られた色などが明るくお洒落に感じる
それに懐かしさもある素敵な校舎ではないか

 

記念碑は百周年の記念碑

 

体育館は破損やガラス割れがあるのは致し方ないのか

 

 

 

 

倉庫か何かに使用していると思うが、付近には誰もおらず聞きようがなかった

 

 

校庭から高くなった場所
ここは教職員住宅だったろうか

 

「美谷小学校」は今回の閉校巡りでメインと言える素敵な閉校校舎であった。

 

 

2024年11月3日撮影

 

 

「旧寿都町立歌棄小学校」


※寿都歴史写真集より

 

開校:明治12(1879)年
閉校:平成3(1991)年
校舎:(確認中)年

寿都町歌棄町歌棄346-1

ナビ「歌棄小学校閉校記念碑」

 

これまで海沿いの町を南下しながら山側に登り閉校跡を見てきたが
「歌棄小学校」は海沿いの平地に学校があった


現在は会館があり、その奥にポツンと記念碑があるだけ

 

 

記念碑がある場所は校庭で奥の山の手前に校舎があった。

こちらも百周年の記念碑だ

 

 

 

かつては校舎が山側に近い場所にあり、海側に校庭があった
なぜここは高い場所の学校ではなかったのだろうか

単に平地があったこと、山側に平地がなかったということだろうか

 

 

歌棄は近辺では有数の鰊漁場であった
有戸漁港など港もある
寿都町は歌棄から平地が開けてゆく。

 

2024年11月3日撮影

 

 


木造校舎・廃校 岩内町の閉校

2024-11-14 18:21:32 | 木造校舎・廃校

 

※wikipediaより 赤字は今回レポート 


岩内町は積丹半島西部の基部にある 広い岩内平野はほとんどが共和町で
岩内町は西の一部だけになる
南部は雷電海岸のような断崖絶壁がありニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定されている。
他の町に比べて閉校が少ないことに気づく。

 

「旧岩内町立高台小学校」


※小樽後志の昭和より

 

開校:昭和26(1951)年
閉校:昭和52(1977)年
校舎:(確認中)年

岩内町高台

ナビ「日本のアスパラガス発祥の地」


岩内町高台にある協会病院はとても大きな病院で
この病院の敷地に学校があった。

校舎は解体しており学校の名残りは記念碑がある
同じ場所に「日本のアスパラガス発祥の地」の碑があり
こちらのほうが有名かも知れない。


高台小学校は旧岩内高等女子学校が移転して、その校舎を使用した。
新設の学校でも校舎はすでに年期が入っていたことだろう
だが昭和26年の開校ではまだ戦後6年しか経っていないので大きな校舎があるだけ良いほうだったろうか?

 

 

 

昭和29年の岩内大火からは免れたようだ。

そして閉校時に解体し病院が建設された
開校から26年での閉校は短いほうだろう。

 

2024年11月3日撮影

 

「旧北海道庁立岩内高等女子学校」


※岩内町史より

 

開校:大正8(1919)年
閉校:昭和23(1948)年
校舎:大正8(1919)年

岩内町高台

ナビ「日本のアスパラガス発祥の地」


上記の「高台小学校の記念碑」と「日本のアスパラガス発祥の地」の碑とともに「旧岩内高等女子学校の碑」が並んでいる。

女子学校は統合のため移転し
その後、校舎は高台小学校として使用され閉校時に解体された。

 

旧岩内高等女子学校は元は岩内女子職業学校として大正8年に創立
その後、道立となり昭和24年に「北海道岩内高等学校」と統合して現在に至る。

 

晴れていれば岩内岳が綺麗に見えるはずだ

2024年11月3日撮影

 

「旧岩内町立中央小学校」

 

開校:昭和52(1977)年
閉校:平成26(2014)年
校舎:(確認中)年

岩内町高台

ナビ「岩内町民体育館」

 

岩内中央小学校は旧高台小学校と旧岩内西小学校が統合し
旧高台小学校があった場所の道路1本挟んだ西側に新築で開校した。

なので上記「高台小学校の碑」とは目と鼻の先に校舎がある
だが校舎は改修工事が進んでおり、リノベーション後は小中一貫義務教育学校の「岩内学園」として生まれ変わる。

今夏最後の見学会が行われ卒業生を中心に思い出に浸れただろう。

 

旧体育館は町の体育館として利用されていた
広いグラウンドも整備されているので町が管理し使用出来たのだろう。

 

ここからも岩内岳が真正面だ

後志の山間部では羊蹄山が見える学校が多かったが
岩内町でのシンボルであり、その名を冠した「岩内岳」はどこからでも見えるのだろう。

2024年11月3日撮影

 

 

「旧岩内町立西小学校」


※岩内町史より

 

開校:明治34(1901)年
閉校:昭和52(1977)年
校舎:(確認中)年

岩内町高台6

ナビ「岩内町 働く婦人の家」

 

旧岩内西小学校は岩内町高台での校舎を閉鎖し、より町の西部地区に移って現在の「岩内町立西小学校」となっている。

 

高台の校舎跡地には「岩内町 働く婦人の家」があり
小学校の記念碑もそこにあった。

完全な敷地内ゆえ、撮影許可をもらおうと思ったが誰もいなかったなのでサッと撮影しここを後にした。

 

 

左右に警察署と消防署、裏手に町民プールがあるので
この一角は町の土地なのであろう。

以前の校舎は大きく、働く婦人の家、消防署、町民プールあたりも学校敷地だった 裏の駐車場あたりが校庭だ。

2024年11月3日撮影

 

 

「旧岩内町立島野小学校」

※小樽後志の昭和より

 

開校:明治11(1879)年
閉校:昭和52(1977)年
校舎:(確認中)年

岩内町野束3-1

ナビ「島野地区集会所」

 

今回の岩内町閉校巡りでは唯一の地方学校となった
とはいえ他の町ではこんな場所に学校があったのかと思うことがいくどもあったが岩内町は別のようだ。


それに岩内町島野は町外れであり、地方という表現は誤りかも知れない
それだけ市内に近い閉校が多かった。


現地で驚くのはやはり木造板張りの旧体育館が現存していること
一部でモルタルではあるが校舎、玄関が現存していたことだ。

 

 

他に玄関の向かいには教職員住宅?のような木造建物も残っている

 

旧体育館は倉庫などに活用されているようだが
どうも寿命が近いように見えた。

実際の校舎はもっと大きいのだが一部が解体されている
校舎の一部と旧体育館は連絡通路で結ばれており、これも現存する木造校舎では珍しいほうだ。

 

 

玄関側の道路沿いに3基の記念碑があった
トゲのある雑草が生い茂り満足な撮影にならなかった

 

①島野小学校跡地

 

②島野尋常小学校記念碑

 

③不明

 

 

同校は近隣住民にも親しまれ、ラジオ体操や盆踊りの会場としても活用された
閉校後も自治会や婦人会が校内を利用していたとのことだ

ここはより岩内岳が近くに見えるロケーションだった

2024年11月3日撮影

 


木造校舎・廃校 八雲町の閉校②

2024-11-06 09:22:00 | 木造校舎・廃校

※wikipediaより 赤字は今回レポート 青字は過去レポート

  • 八雲町立上鉛川小学校(1965年八雲町立八雲小学校へ統合)
  • 八雲町立久留米小学校(同上)
  • 八雲町立鉛川小学校(1967年八雲小へ統合)
  • 八雲町立上の湯小学校二股分校(1967年)
  • 八雲町立八雲鉱山小学校(1969年7月31日)
  • 八雲町立富咲小学校(大関小富咲分校から改称、1972年廃校)
  • 八雲町立熊嶺小学校(1972年
  • 八雲町立八線小学校(1973年
  • 八雲町立大関小学校夏路分校(1976年)
  • 八雲町立熱田小学校(1976年八雲小へ統合)
  • 八雲町立大新小学校(1987年)
  • 八雲町立赤笹小学校(1990年)
  • 八雲町立蕨野小学校(1991年八雲町立東野小学校へ統合)
  • 八雲町立上の湯小学校(1993年休校、八雲町立落部小学校へ編入)
  • 八雲町立桜野小学校(1973年閉校、1982年再開、1992年休校、1995年廃校)
  • 八雲町立栄浜小学校(2007年落部小へ統合)
  • 八雲町立春日小学校(2009年八雲小へ統合)
  • 八雲町立大関小学校(2011年八雲小へ統合)
  • 八雲町立黒岩小学校(2014年八雲小へ統合)
  • 八雲町立山崎小学校(2021年
  • 八雲町立黒岩中学校(2004年
  • 八雲町立山越小学校(1993年)

 

 

 

「旧八雲町立久留米小学校」

※八雲町史より

開校:明治32(1899)年
閉校:昭和40(1965)年
校舎:(確認中)年

八雲町花浦221-1

ナビ「花浦山会館」

 

八雲町花浦は長万部町から南下し八雲町の中心部に入る手前にある。
国道5号線からナビに従い山側に入り、数分で突き当りのTの字になるが、そこに「旧久留米小学校」があった。


学校の名前には町や地区の名前が付けられることが多いが
元は「久留米農場」の跡地に学校を建てたからその名前が付いたようだ。

 

敷地には会館と地区の石碑などがあるが学校があったことを示すものは見当たら無かった。

 

 

会館前のスペースやこのあたりが校庭だった

 

 

会館の裏に古い物置のようなものがあったが
学校に関係あるかは不明

 

会館の右隣に空き地があるので旧久留米農場の一部かも知れない

「久留米小公園」の標識があり、農場と学校の名残りのようだ。

 

 

2024年10月17日撮影

 

 

「旧八雲町立春日小学校」

 

開校:明治32(1899)年
閉校:平成21(2009)年
校舎:(確認中)年

八雲町春日269

ナビ「春日神社」


「旧春日小学校」は今回の八雲町の閉校巡りではメインの学校。
ここには現在、外壁はサイディングのようだが木造校舎が現存している。

ナビの春日神社とは隣接しており、敷地内で行き来が出来る


校門から校舎に校章、体育館、校庭 遊具やポール、二宮像など
残していて欲しいものはすべて残っていて嬉しい限りだ。

2000年を過ぎての閉校ということもあるだろうが
都市部ではスクラップ&ビルトが多い

維持管理にお金をかけるより新築したほうが良いということだ。

この貴重な校舎はもう少し残してほしいな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

学校としては小型で可愛らしい印象
昔は子供たちや地域の場として運動会やお祭りなんかで賑やかだったろうな

校舎が現存していると色んなことを想像出来て楽しい。

 

 

 

 

 

 

 

このブランコはまだ乗れそうだ

2024年10月17日撮影

 

 

「旧八雲町立八雲鉱山小中学校」


※八雲町史より

 

開校:昭和9(1934)年
閉校:昭和44(1969)年
校舎:(確認中)年

八雲町鉛川

ナビ「八雲鉱山小中学校跡地」

 

鉱山小学校跡地は、国道277号線から横道に入り温泉旅館の「おぼこ荘」を目指す
温泉にはすぐに到着し、その奥にある「雄鉾岳登山口」の標識に従い直進する。

道はダートになり益々山の中へ進むので心細いし熊も怖い
山登りをしていたころは何とも思わなかったのにな・・・

やっとナビの場所に着いたが「おぼこ荘」から車でわずか2~3分の場所だ。

 

 

 

山の中にぽっかりと開けた場所があった
いかにも学校があったらしい場所 旧校舎は奥の山をバックに建っていた

ちなみにさらに先に登山口があり木造の旧郵便局が山小屋として健在だが
とてもそこまで行く気にはならなかった。


尚、校舎は解体したが、体育館は町内に移築したとの情報を見た
この後に行ってみたが、綺麗な体育館なので移築後に補修や塗装をしている。

2024年10月17日撮影

 

 

「旧八雲町立上鉛川小学校」


※八雲町史より

 

開校:大正3(1914)年
閉校:昭和40(1965)年
校舎:(確認中)年

八雲町鉛川456-2

ナビ「八雲町バイオサイクル協同組合」

 

国道277号線は二海郡である八雲町と熊石町を繋ぐ道路
その国道沿いに旧上鉛川小学校はあった。

写真では小さな学校だが窓枠が素敵な校舎だった
昭和40年の閉校では校舎はすでに解体されていた。

現在は八雲町バイオサイクル協同組合の敷地内に小さな記念碑を見る。

 

 

 

 

おそらく、ここにこれがある と知っていなければ
そのまま素通りするだろう

閉校記念碑は市町村により統一されたり別々であったりするが
もう少しわかりやすい標示の方がよくないか?

 

 

 

熊石側を見ると「雄鉾岳」の切り立った山容がかっこよかった

 

2024年10月18日撮影

 


木造校舎・廃校 八雲町の閉校① ※5校を追加しました

2024-11-04 10:42:49 | 木造校舎・廃校

 

※wikipediaより 赤字は今回レポート 青字は過去レポート

  • 八雲町立上鉛川小学校(1965年八雲町立八雲小学校へ統合)
  • 八雲町立久留米小学校(同上)
  • 八雲町立鉛川小学校(1967年八雲小へ統合)
  • 八雲町立上の湯小学校二股分校(1967年)
  • 八雲町立八雲鉱山小学校(1969年7月31日)
  • 八雲町立富咲小学校(大関小富咲分校から改称、1972年廃校)
  • 八雲町立熊嶺小学校(1972年
  • 八雲町立八線小学校(1973年
  • 八雲町立大関小学校夏路分校(1976年)
  • 八雲町立熱田小学校(1976年八雲小へ統合)
  • 八雲町立大新小学校(1987年)
  • 八雲町立赤笹小学校(1990年)
  • 八雲町立蕨野小学校(1991年八雲町立東野小学校へ統合)
  • 八雲町立上の湯小学校(1993年休校、八雲町立落部小学校へ編入)
  • 八雲町立桜野小学校(1973年閉校、1982年再開、1992年休校、1995年廃校)
  • 八雲町立栄浜小学校(2007年落部小へ統合)
  • 八雲町立春日小学校(2009年八雲小へ統合)
  • 八雲町立大関小学校(2011年八雲小へ統合)
  • 八雲町立黒岩小学校(2014年八雲小へ統合)
  • 八雲町立山崎小学校(2021年
  • 八雲町立黒岩中学校(2004年
  • 八雲町立山越小学校(1993年)

 

八雲町は熊石町と合併し、国内唯一の太平洋と日本海に面した町となる
旧熊石町の閉校は分けることにした。

 

 

「旧八雲町立大関小学校」NEW

 

開校:()年
閉校:平成23(2011)年
校舎:(確認中)年

八雲町上八雲296-1

ナビ「ペコレラ学舎」

 

国道277号線から道道42号線に入る せたな町まで通じる道だ
八雲町ではこの沿線に2校の閉校を見る。

1校は「旧大関小学校」で八雲市内から遠いほうにあり
現在は体験型宿泊施設として再活用されている。

 

以前は旧小学校名のプレートがあったように思える

 

「ペコレラ学舎」とは

>元小学校の教室をリノベーションし、宿泊施設をオープンしました。
大人の方にとってはどこか懐かしく、お子さんにとっては普段学んでいる場所に泊まれる非日常が味わえます。
※HPより

 

 

 

立派なバックネットも健在

バーベキューが出来るようだ

 

近代的な校舎を新築して、後に閉校した
まだまだ使える立派な施設である

屋根が学校としては珍しい入母屋風のデザインに思える
和風をイメージした校舎は機能第一の箱型RC造りよりずっと素敵だ。

学校時代では出来なかった宿泊やバーベキューなど楽しみが広がった

廻りに飲食店も出来たり地域に一役かっている。

 

 

 

2024年10月18日

 

 

「旧八雲町立鉛川小学校」NEW


※八雲町史より

 

開校:明治40(1907)年
閉校:昭和42(1967)年
校舎:(確認中)年

八雲町鉛川25-2

ナビ「鉛川会館」

 

道道44号線には2校の閉校を八雲町で見る
その一つで八雲市内に近いほうが「旧鉛川小学校」。

跡地にある現在の鉛川会館は近くで施工されている土木工事の工事事務所として使われていた
なので道道42号線からの進入に一瞬ためらったが、逆に人がいれば許可をもらえばいいさと車で進入。

はたして一人の工事関係者がこちらに来たので、写真を撮らせて欲しいと頼むと
どうぞどうぞとのことで一安心。


※道道から進入後、振り返る

 

会館自体は旧学校を解体したあとに建てられたようなので関係はない

 

目的のものは会館の裏側の雑木林の中にあった。

 

 

 

 

これは閉校記念碑であろうが、笹藪で近くに寄りたくない

表側には学校名があるはずだが・・・ちょうど真裏に倒木があり見るポジションが無いように思えたのだ

ちなみに道道側からも木々と雑草で見えなかった。

 

そしてすぐ横に崩れそうな校門らしき門柱もあった。

※これも倒木が邪魔

 

改めて記念碑の手入れをするのは大変だろう
何しろ昭和43年の閉校だ

ここはこのままで良いのかも知れない

奥には何かわからぬ木造建築物と、きれいな草地が広がっており、校庭を想像させる。

 

2024年10月18日撮影

 

 

 

「旧八雲町立熱田小学校」NEW


※八雲町史より

 

開校:明治35(1902)年
閉校:昭和51(1976)年
校舎:(確認中)年

八雲町熱田254-2

ナビ「八雲町熱田神社」

 

「旧大新小学校」よりも海に近い丘の上に熱田地区はある

その一角に熱田神社と熱田会館があり、旧校舎は会館あたりに建っていてすでに解体されている。

現在は駐車場と広場になっている場所が校庭である
大小はもちろんあるが、小さな校庭から推察するに校舎もそう大きくはなかったろう。

 

 

 

 

 

 

 

会館の前に石碑があり、これが旧熱田小学校のあった証となる。

海が見えるロケーションだ

2024年10月18日撮影

 

 

「旧八雲町立大新小学校」NEW


※八雲町史より

 

開校:大正5(1916)年
閉校:昭和62(1987)年
校舎:(確認中)年

八雲町大新316−3

ナビ「住所」

 

大新地区は八雲町の小高い丘にある 

登って来た方向を顧みると太平洋まで見渡せる

「旧大新小学校」があった跡地に着いたが、そこは背の高さはあろうかの雑草地帯だった。

ストリートビューでは石碑があり、学校跡地と石碑に彫られている
しかし今回は旅行が主目的で、服や靴を汚すわけにはいかない

いろんな方向から分け入れないかと探したが、諦めた。


※この施設の左隣

 

 

 

おそらくここから入って右側に石碑あり
そこが校庭であろう

旧校舎は正面奥にあり、体育館と少し離れているように見えた

 


いつかこの地に来ることがあれば、次回は何とか撮影しようと記憶しておく。

2024年10月18日撮影

 

 

「旧八雲町立山越中学校」NEW


※八雲町史より

 

開校:昭和22(1947)年
閉校:平成5(1993)年
校舎:(確認中)年

八雲町山越

ナビ「JR山越駅」

ここは旧中学校を示すものは何一つなかった
なので行っても仕方が無いのだが、もし行くとするなら

国道5号線沿い、JR山越駅を少し八雲市内側に行くと「ヤクルト」がある
その駐車場には現役の「山越小学校」の標識もあった

 

 

 

そこからJR線路を渡って、すぐ左の枝道に入る
少し行くと線路側に降りるような枝道が左に出てくるので
左折して進むとそこが中学校跡地だった。

 

 

 

 

空地なのだが小屋があり、そこは「八雲町立郷土資料館収蔵庫」らしい

 

らしい というのも現地へ行ったら白い防護服?で作業をされている人たちがいて近寄れなかった。

おそらく向こうも何しにこんなところへ来た?みたいな感じだったろう

旧校舎は小屋のあたりに線路とTの字になるように建っていた
反対側の奥に「山越諏訪神社」が見えている 校庭はそこまであった。

 

 

 

ちなみに現役の「山越小学校」の以前の旧校舎は
線路を渡って向かい側あたりにあったようだ
そこにも以前は学校があったような印は無かった。

 

2024年10月18日撮影

 

 

ここから過去レポート

 

 

八雲町の閉校は国道5号線になるべく近い学校ばかりを訪問した
黒岩小、中学のように隣接して建っていると効率は良いのだが

「旧八雲町立黒岩中学校」

 

開校:昭和22(1947)年
閉校:平成16(2004)年
校舎:昭和39(1964)年

八雲町黒岩212

 

旧黒岩中学と旧黒岩小学校は校庭を間にして建っている
国道5号線とJR線に挟まれた場所だ。

札幌方面から来ると5号線の右側に、昔の通学路があるので少し進入して停車
ここから歩いて行ってみる。

雑草が生い茂っているので長靴に履き替えて進む
やがて両側に校門を発見 校名プレートも残っていた。

正面には教員住宅らしき建物を見る
左手が校庭で奥に近代的な旧黒岩小学校があるので両校で使用した校庭であろうか。

校舎は右手に現存していた
しかも木造校舎だ 資料によると昭和39年の建築で平成16年まで使用したとある
40年使用で閉校から15年以上経った建物。

樹木や背の高い雑草に囲まれた廃墟美がある
校舎入り口前のスペースに閉校記念碑が おそらく現役時はこの周りに草はなく
校舎ときれいに見えていただろう。

体育館は5号線から背の高いイタドリ越しに見えるが
その天井は崩落が心配される。

物音がしたので驚いて振り返ったら
キタキツネだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2022年6月撮影

 

 

 

「旧八雲町立黒岩小学校」

 

開校:明治16(1883)年
閉校:平成26(2014)年
校舎:平成6(1994)年

八雲町黒岩212

 

旧黒岩中学校と校庭・グラウンドを挟んで建っているが
中学は草ぼうぼうなのに対し、小学校は校門前まできちんと舗装道路がある
校門プレートは外されているが平成時代に建てられた校舎はきれいだ。

そのファサードはまるで宿泊施設を見るようだ
校門にチェーンなどは無いので少し入って撮影した。

遊具はほぼ現役で、近くの子供に開放しているのかも知れない
また校舎も何かの再活用をしているようだ?

体育館は正面から見えないが中学校側からこれもきれいな体育館に見えた。

 

 

 

 

 

 


2022年6月撮影

 

 

 

「旧八雲町立山崎小学校」

 

開校:明治39(1906)年
閉校:令和3(2021)年
校舎:平成4(1992)年

八雲町山崎375

 

旧山崎小学校も旧黒岩小学校と同様に、平成に建てられた校舎をもって閉校した。

5号線から少し右に入った場所にある
パッと見てログハウスのような、これも黒岩小学校と同じく学校には見えずらい

校舎前に創立者の像、人工池、広いグラウンド
何よりオシャレな施設に目が行く。

特に体育館の正面に幾何学模様風の窓はステンドグラスだ
ゆえに最初はキリスト教の私学?と思ったほど。

素敵な校舎になる前は、普通の木造平屋建てだっただけに
新旧両方の校舎に通った生徒は変化に喜んだことだろう。

山崎、黒岩の両小学校の設計は何かしらの関連があるような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2022年6月撮影

 

 

 

「旧八雲町立栄浜小学校」

 

開校:明治42(1909)年
閉校:平成19(2007)年
校舎:昭和39(1964)年

八雲町栄浜96

 

この学校は函館からの帰途に訪問した 天気が良かったのは帰途日だけであった。

栄浜小学校だけ5号線の海側にある やはり「浜」の名が付く学校だからだろうか
5号線沿いに校門とプレートがあるが、実際は民家の間を少し行ったところに校舎があった。

これはおそらく木造モルタルで、ここにも古い校舎が残っていた
正面側は木々が生い茂り、校舎全体が入る写真は撮れなかった。

校庭側に遊具やオブジェがあるが、ここも当時は草はなかっただろう
時期的にカラスの子育て中で、侵入者に対し威嚇がひどく、這う這うの体で
離脱したのが思い出となった。

 

 

 

 

 

 

 

 


2022年6月撮影