地元紙「房日新聞」の本日第4面、頼朝伝説をめぐる企画として「安房ウルトラシャルソン」を実施したようだ。
いつも思うのは、治承4年8月29日、石橋山の合戦で敗れた源頼朝が竜島に上陸したとされることです。
源頼朝が、真鶴半島から相模湾を三浦半島沿いに船でやって来たとは想像されます。
半島沿いとはいえ、かなり沖を通らなければ見つかってしまいます。
もしも漁師が見つけて通報すれば、一生食べてゆけるほどのご褒美をもらえたでしょう。
船で三浦半島城ケ島の沖から安房の大山をめがけてくれば一本道です。
それを、わざわざ安房から15キロ以上先の竜島まで漕いで行く訳はありません。
船頭は真鶴から漕いで来たので、もうくたびれています、安房の洲崎から竜島まで行くには1日かかってしまいます。
岬の先端は波が不規則で小舟は危険なので沖に回ります、洲崎の上陸地点は灯台をまわったところで理にかなっています。
源頼朝が敗れたそのころ、横須賀市の衣笠に有った三浦氏の衣笠城が頼朝に味方したことで落とされています。
この、三浦氏が海を渡って逃げてくれば竜島です。上総弘常を避けて少し南側で竜島になります。
三浦の殿様と源頼朝が一緒になっていると考えられます。
「国分寺」は聖武天皇が741年に国家鎮護のため、地方の豪族に建立を命じたものです。
館山市国分地区には「安房国分寺」「国分尼寺」が建立されたことで、この近くには「府中」とよばれる国府があり「安房」はこの地だったことがわかります。
したがって、安房には財力のある豪族がいる国だったことがわかります。
国分寺の南には源氏との関係を示す「白旗神社」があります。近くの「小網寺」には鎌倉との交流を示す文化財があります。
鎌倉と安房にしかないという「やぐら」も市内に多数があります。
安房の国から源頼朝が再起して、その後も安房と鎌倉の交流が続いたのです。
そもそも源頼朝は、旧知の間であった安房の国に住む安西三郎影益に助けを求めてやって来たのです。
平郡の竜島に寄道するほど、頼朝には精神的にも、食料など物量的にも余裕はなかったはずです。
1週間ほど前のテレビ番組では「竜島」など一言も出てこなかった番組がありました。
源頼朝が安房から鎌倉に向かう途中、千葉氏、上総氏の応援を受ける話しでした。