北下台周辺は、江戸時代初期から、新井浦、柏崎浦が漁業や物産の積出港として賑わっていました。
明治以降は、遠洋漁業の基地や水産加工場がありました。
昭和中ごろになっても北下台の下には缶詰工場があって、岸壁にはキャッチャーボートがたくさん係留してありました。
北下台は湾内に停泊する船や高ノ島、沖ノ島の見える景勝地で、1885年館山市で最初に公園として整備されました。
公園には航海の神様、金刀比羅神社がお祀りされています。
神社前の「正木燈」は既にご紹介していますが、西側には坂東丸、順天丸遭難供養碑もあります。
1935年さらに西側で、館山築港工事の海面埋め立ての台地の土砂採掘現場より、屈葬された人骨や瑪瑙勾玉、碧玉管玉、土師器、などが掘り出され、古墳時代に埋葬された海蝕洞窟が発見されています。
洞窟遺跡は調査後掘削されて道路になってしまっています。
下は掘削した北下台の壁面で、黒い砂岩の中に白い泥岩が混じっています。
泥岩は砂岩より水の浸食に弱く、海蝕洞ができやすい地形であることが解ります。
この地層を西側へ延長した辺りが、北下台洞窟遺跡ではないかと思われます。
金刀比羅神社南側です。
安房三十四観音三十一番札所の観音堂跡。
関東大震災後、仲町の長福寺に移されています。
観音堂跡の碑。
他に、「寄子萬霊塔」が北下台から長福寺に移されています。
「寄子」とは当時の人材派遣屋から派遣された人のことで、幕末の戊辰戦争で箱根山崎に送られました。
館山藩第五軍一番隊として激しい戦いの最前線に立ち、誰も帰ってこなかったそうです。
寄子を送った派遣屋の「相模屋妻吉」が、この塔を建立して供養したそうです。
北下台のヤグラです。
3基掘られていますが、中央のものに五輪塔がみられます。
鎌倉時代の「ヤグラ」の特徴が良く判る、保存状態の良いものです。
開口部の角に柱を刺し込んだ窪みが見られます。
扉が付いていたと思われます。
反対側にも窪みが見られます。
五輪塔が奥と左右の壁に見えます。
梵字が彫られています。
夕日桟橋に、多用途支援艦「えんしゅう」が接岸していました。
基準排水量980t、全長65m、全幅12m、吃水3.5m、5000馬力、速力15ノット。
撮影許可をお願いしたら、当直士官が遠くから見ていました、そんなに怪しくないでしょ?
いつものアンテナ拝見。
短波帯の垂直、水平が見えます。
UHF系垂直ダイポール、レーダーが見えます。
救難ブイ。
安布里山 源慶院
曹洞宗のお寺です、本尊様は延命地蔵菩薩。
1579年、里見義弘によって長女佐譽姫追悼のため建立されたお寺です。
佐譽姫のお墓です、歴代住職のお墓の奥です。
法名は 源慶院殿一法貞心大姉。
白山妙理大権現
曹洞宗大本山の永平寺では鎮守としてお祀りしているので、源慶院でもこれにならって守護神としてお祀りしているそうです。
岩に掘った形が「ヤグラ」ににています、鎌倉時代のヤグラも同じように祀られていたのかと想像します。
お寺の参道入り口に有ります。
昭和初期まで白土を採掘していたそうです。
「白土」は房総の有力産業で、食器洗いや歯磨き粉に使われいました。