勉強になった!
国宝であり国指定重要文化財であり、世界遺産の富岡製糸場!
世界遺産登録直後は入場も何時間待ちという大混雑振りでしたが、現在は普通に「ちょっと賑わってる観光スポット」な感じ。
朝一番なら待つことなくすんなりと入場出来ました。
(今日も画像盛りだくさん。養蚕と製糸で栄えた富岡ですから、例の、白くて太くてモゾモゾしたアイツも出て来ます^^;)
明治5年に官営模範工場として操業を開始した富岡製糸場。
横浜の商会で生糸検査人として来日・勤務していたフランス人ポール・ブリュナを設立指導者として正式に依頼。
建設や製糸用器械の輸入と同時に工女募集がなされたものの、ブリュナら外国人がワインを飲む様子を見て「富岡製糸場に入場すると西洋人に生き血を飲まれる」というデマが流れ、当初は中々工女が集まらなかったそうです。
真っ赤なワインが血に見えたのですね。
今となっては「そんなバカな!」と一笑に付すところですが、「私は工女になりたい」と希望する若い娘を涙ながらに説得を繰り返す親たちが殆どだったそうです。
完全な寄宿生活で、日本で初めて「毎週日曜定休日」が導入されたのもこの富岡製糸場。
↓ 下の寄宿舎「浅間寮」と「妙義寮」は太平洋戦争終戦前に建て替えられたもの。
ブリュナが生活していた首長館の北側には「榛名寮」もありました。
群馬県民の心の拠り所の名山が名前。
かっちょいい。
本来非公開の国宝・東置繭場2階は現在期間限定で公開中。
その1階では蚕が。
「げっ!」と思ったけれど、よく見りゃ案外可愛い。
あんまり動かなかったけど生きてます。
蚕は生まれてから26日の間に4回の脱皮を繰り返し、その後、自ら吐き出す糸で繭を作って中でサナギになります。
その繭を煮てほぐし易くし、細い糸を手繰って数本(繭数個分)の糸を「こよる」ようにして生糸を作る「上州座繰り器」。
(糸が無くなって中身が出てるのが・・・・ちょっと、アレだった;;)
ミニ竹ぼうきみたいなもので真上からツンツンとつつき、糸の端を絡めとります。
そのまま右手はツンツンしながら繭をほぐす。
左手は糸繰り器の取っ手を握って糸巻を回転させる。
左右の手で別々の作業。
しかも右手は素早く、左手はゆっくりと。
せっかくの機会なので私も挑戦!(o・`ェ・o)ノ
(かの北の国の最高指導者風に両サイドから後頭部をガッツリ刈り上げた髪型がやっと伸びて落ち着いてきた;;)
「言うは易し」。
左手に集中すると右手が疎か。
指導してくださるおねぃさんに、「ホラ!また右手が止まってる!」って何度も注意された(笑)
右と左で別々の動作、難しかったなー(・´_`・)
(超至近距離で茹でられた蚕の匂いがなんとも独特)
実際の富岡製糸場ではこの上州座繰り器ではなく、おフランス直輸入の「フランス式繰糸器」300釜で生糸を作りました。
その繰糸場。
昭和41年に設置された自動繰糸機。62年の操業停止時で時が止まったまま。
自然光を多く取り入れられるよう窓が大きく、釜で煮た繭の蒸気が屋根から逃げるように設計。
こちらでは全体を所要時間40分程度で回れるツアーガイドもあります。
200円だったかな。
現在、ガイドさんは100人ほどが登録されているそうです。
それでも世界遺産登録フィーバーの時には全然手が足りなかったそう!
来て良かったー
一度は見ておきたいと思っていたスポットですが、フィーバー当時の長い長い行列をテレビで見る度にげんなり。
ようやく落ち着いてゆっくり楽しめました。
明治4年の建設当時、西洋建築の髄を集めたこの建物はさぞやハイカラだったことでしょう。
政府が「大丈夫!ここの西洋人は生血なんて飲まないよー!!」と繰り返しデマを打ち消し、お給金もいいし定休日もある。
工女館の隣りには立派な診療所もあって医師が常駐。
綿密に考えられた研修制度はしっかりとしていて企業内教育制度の先駆けでもあったそう。
ご飯も布団も用意されている。
故郷の家族へ送金しても何ヶ月かに一度は町の呉服屋を敷地内に招き入れて好みの反物で着物を作る余裕まである。
こぞって全国から希望者が集まったのも納得。
富岡製糸場に勤めるという事は当時の若い女性の夢でありステイタスだったのでしょう。
そんな東置繭所の古い柱に打ち付けられた看板。
「乗るなよ。大切に育ててようやく蚕が作った繭を保管してる倉庫なんだから、お前ら絶対に土足でここに乗るなよ。いいか。これは<フリ>じゃないからな。絶対に絶対に乗るなよ。」、って言ってるのに、やっぱ乗っちゃった人がいたんだろうなぁ。
ゲンコツくらいじゃ言う事を聞かないので渾身の怒りを書き綴った真っ赤な文字が泣ける。
私なら、こんなん書かれたら、絶対に乗る。
こんな風に改めて書かれたことによって「乗りたい」衝動が倍増するのだ。
(そしたらとっととクビ。)