ダマシオは、フロイト先生に対する追撃の手を緩めない。
批判の対象は、「エロス」にも及ぶ。
ダマシオは、フロイト先生が「エロス」(この言葉のオリジナルはヘシオドスか?)に盛り込んだ意味内容は、スピノザからの借用であることを暴露する。
「フロイトの理論体系は、スピノザが<コナトゥス>で明示した自己保存機構を必要とし、自己保存作用が無意識に関わっているとする概念を頻繁に使う。だがフロイトはけっしてスピノザに言及しなかった。この問題を問われたとき、フロイトはその手落ちを説明するのにひじょうに苦労した。1931年、ローター・ビッケル宛の手紙でフロイトはこう書いている。「スピノザの教義に依拠したことを、躊躇せずに打ち明けます。もし私が彼の名に直接言及したくなかったとすれば、それは、私が自説をあの学者についての研究から引き出したのではなく、彼が生み出した雰囲気から引き出したからです。」」(p332)
そういうダマシオは、「エロス」という言葉ではなく、「ホメオスタシス」(恒常性)という言葉を用いるが、スピノザがこれにほぼ等しい概念を発明していたことをきちんと指摘する。
「ポジティヴに調節された命の状態を実現しようという連続的な試みが、われわれの存在の重要で特徴的な部分であることは明らかだ。それはわれわれの存在の第一の現実であり、スピノザが直観したものでもある。スピノザは、存在するもの一つひとつの<自身を保持しようとする執拗な努力>(コナトゥス、ラテン語 conatus )を説いた。」(前掲p61)
このように、ダマシオによれば、フロイト先生の「エロス」はオリジナルではないということになる。
だが、それでもなお、「死の欲動」は、今もなおフロイト先生のオリジナルというべきである。
最新の生命科学の知見によれば、ヒトの体内には、わざわざ細胞を死なせるプログラムがゲノムのレベルで組み込まれていることが判明しているが、これは、「ホメオスタシス」の概念だけではおよそ説明出来ないからである。
ちなみに、ヒトにおける「死」(通常は、「老いて、病気になって、死ぬ」)の感覚は、ほかの生物とは根本的に違っているそうである。
「少し残酷な感じがしますが、多くの生き物は、食われるか、食えなくなって餓死します。これをずっと自然のこととして繰り返しており、なんの問題もありませんでした。つまりざっくり言うと、個々の生物は死んではいますが、たとえ食べられて死んだ場合でも、自分が食べられることで捕食者の命を長らえさせ、生き物全体としては、地球上で繁栄してきました。・・・
事実、自身の命を引き換えに子孫を残す生き物、例えばサケは産卵とともに死に、死骸は他の生き物の餌となり、巡り巡って稚魚の餌となります。もっと直接的な例では、クモの一種であるムレイワガネグモの母グモは、生きているときに自らの内臓を吐き出し、生まれたばかりの子に与え、それがなくなると自らの体そのものを餌として与えます。まさに「死」と引き換えに「生」が存在しているのです。」(p163~164)
考えてみれば、母乳は母の体液であり、元は身体の一部である。
なので、哺乳類は、極端に言うと「親の身体を食べて育つ生物」と定義出来なくもなさそうである。
それに、「共食い」という現象は、チンパンジーを含む哺乳類全般で広くみられることである。
・・・むむむ、そうすると、フロイト先生が指摘した「原父を殺害して食べる」という行為は、「記憶(痕跡)」ではなくて、ゲノムに組み込まれているプログラムの一つなのではないだろうか?
「原父殺害・食人」は、「歴史」(伝承)における出来事ではなくて、「自然」(エス。但し、ここでは脳幹と身体)のレベルで把握すべき問題だったのではないだろうか?
こういう風に考えて行くと、フロイト先生が述べた「記憶(痕跡)の遺伝」とあるところの、「遺伝」の部分は正しく、「記憶(痕跡)」のところが誤り(余計)だったということになるだろう。
もっとも、当時、ゲノムの仕組みについては余り解明されていなかったので、これはやむを得ない側面がある。