とはいえ、モーセに関する出来事が、ユダヤ民族において「遺伝」しているというのは、常識で考えてあり得ない話である。
ところが、フロイト先生は、「伝承」という言葉を持ち出しつつ、ここで大きな跳躍を行う。
「伝承なるものの本来の正体はどこに存するのか、伝承なるものの独特の力はどこに基づいているのか、世界史に対する個々の偉大な男たちの個性的な影響力を否定することがいかに不可能であるか、物質的欲求からの動機だけが承認された場合、人間の生活の大いなる多様性に対していかなる犯罪的所業がなされる結果になるか、いかなる源泉から人間や諸民族の心を征服するような力を、多くの、とりわけ宗教的な理念は汲み取るのであるかーーー」(前掲「モーセと一神教」p94)
「われわれがいまここで直面しているのは、このような伝承が、時とともに力を失って行くのではなく、幾世紀もの時の流れのなかでだんだんと力強くなり、後年に習性を受けた公的報告のなかにまで侵入して、ついにはこの民族の思考と行為にまでも決定的な影響力を振るうほど強靭になってしまったという実に奇妙かつ注目すべき事実なのである。」(同p120)
ここでは何が主張されているのだろうか?
渡辺哲夫先生によれば、
「ユダヤ民族のエスがモーセの掟においてある」(p266)
ということだそうである。
フロイト先生は、ユダヤ民族においては、「エス」が(モーセの)「伝承」を取り込んでしまう、つまり、「自然」(エス)=「歴史」(伝承)の等式が成り立ちうると言いたいようである。
だが、これが生命科学の観点から誤りであることは既に指摘したとおりであり、「伝承」が「エス」に取り込まれて民族のレベルで「遺伝」することはあり得ない。
なぜなら、「伝承」は、例えば、「或る人が或る橋を渡った」ということを内容とする意識の対象(イメージの如きもの)、つまり「パラデイクマ」(もっと分かりやすく言えば「出来事」)が言語化され、これが集団において伝えられるものであって、そもそも「自然」(エス)の次元にはないからである(「歴史を問う」2「歴史と時間」p91~)。
・・・というわけで、私ももっと「伝承」を勉強しなければいけない、というのが、私にとっての結論となった。