Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

エスVS.伝承(3)

2024年06月08日 06時30分00秒 | Weblog
 ちくま学芸文庫版の「モーセと一神教」は、p229以下に翻訳者:渡辺哲夫先生による「解題」が付されており、これが実に親切で参考になる(本文を読む前にこちらを先に読むと良いかもしれない。)。
 渡辺先生によれば、フロイト先生は、人間精神を、非・特殊人間的かつ無意識的な生命の奔流(つまり「エス」)そのものとみなしており、それゆえ彼は「エス論者」と呼ばれるにふさわしい。
  しかも、この「エス論者」は、例えば、ユダヤ教やキリスト教の起源のような、一般には「歴史」の領域に属すると考えられている問題についても、「エス」によって説明出来ると考えている。
 いわば「エス一元論」である。

 「・・・このような確信が私が1912年に『トーテムとタブー』という本を書いたとき、つまり四半世紀も前にすでに得られているのであり、以来、確信の度は深まるばかりなのだ。宗教的な現象はわれわれに馴染み深い個人の神経症症状をモデルとしてのみ理解されうる、つまり、宗教現象は人類が構成する家族の太古時代に起こり遥か昔に忘却されてしまった重大な出来事の回帰としてのみ理解されうる、そして、宗教現象はその強迫的特性をまさにこのような起源から得ているのであり、それゆえ、歴史的真実に則した宗教現象の内実の力がかくも強く働きかけてくるのだ、ということを私はその当時からもはや疑ったためしがない。」(前掲p102)

 なお、「エス」についてのフロイト先生の思考には変遷があるが、差し当たり、「エロスと『死の欲動』が闘争を繰り広げる(但し、最終的に勝利をおさめるのは『死の欲動』)場としての有機的欲動」と理解しておくとよい(p235)。
 「エス一元論」の反面として、「歴史的に思惟すること」、すなわち過去想起は、「無機物」への「退行」を実践する生命の流れへと近づいて行くことになるが、これを徹底させると、単なる「死への突進」ということになりそうである。
 なぜなら、「エス」の目標は、端的に言ってしまうと、「(エロスと闘いながら)最短距離で「死」に到達すること」だからである。
 さすがにこれではまずいと考えたのか、フロイト先生は、ここで2つの概念を援用する。
 一つ目は、「超自我」(「自我理想」と呼ぶこともある)である。
 
 『生物の法則と人間種族の運命がエスのうちに創り、伝えたものは、自我の理想形成によってうけつがれ、自我において個人的に体験される。自我理想は、その形成の歴史によって、個人のなかの系統発生的獲得物、古代の遺産ときわめてゆたかに結合している。個人の精神生活において、その最深の層に属していたものは、理想形成によって、われわれの価値概念からみて人間精神の最高のものになる。』(『自我とエス』井村恒郎訳)
 ・・・この文章では自我理想イコール超自我と解してよく、超自我は「エスの代理人として自我に対立する」のであるから、フロイトがエス論者であることに変わりはないけれども、死の欲動とエロスの闘争の舞台であるエスがかなり明るくなってきた。・・・
 宗教・神話・芸術を、超自我の、要するにエスの「形成の歴史」の所産と見なすフロイトにとって、「系統発生的獲得物、古代の遺産」は、歴史の根底にあるのではなく、自然人(ホモ・ナトゥーラ)の特権的所有物たる心的装置の産物、超自我を媒介として前進し続けるエスからの派生物に過ぎない。「最深の層」たるエスから生じる「人間精神の最高のもの」は、実のところ、人間精神の最表層の薄い皮膜の如きものに過ぎない、「古代の遺産」とて例外ではない。これがエス論の必然的帰結であり「科学的逆転」の実演である。」(前掲p236~237)
 
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