「第3幕ではリューの死で、ある意味終わっている感じがしますが、それをどのようなハッピーエンドにもっていくか、プッチーニはオペラのハッピーエンドに慣れていなかったので(笑)、かなり悩んだと想像できます。『蝶々夫人』ではハッピーエンドではないけれど、一つの解決策を見出すことができました。ところが、『トゥーランドット』では、リューの死後の展開にはかなり悩み、悩んでいるうちに癌で体力がなくなり、ついには亡くなってしまったのです。
この最後の部分は地雷野なので、あえて踏み込まないでおきますが、アルファーノによる補完版と、アルファーノの版を短縮し、再編纂したトスカニーニ版があります。現代では初演を指揮したトスカニーニ版が取り上げられることがほとんどで、トスカニーニは初演の際にはプッチーニが断筆したところで指揮棒を置いたことが知られています。
リューの死によってトゥーランドットは背負っていた重荷を下ろしましたが、そこから解き放たれただけでなく、トゥーランドットの心が浄化されました。でも一足飛びにカラフを愛する、といった具合には、そう簡単に移行するとは思えないので、特別な愛の二重唱をプッチーニは考えていたはずです。アルファーノによるオリジナルの補完版はトゥーランドットの心が解けて彼を受け入れるまでを時間をかけて描いています。」(公演プログラムp59「パッパーノが語る『トゥーランドット』」)
プッチーニが、ワーグナーの「指環」に対抗して、これを乗り超えるような作品を目ざして「トゥーランドット」を作ったという説が正しいとするならば、リューの死は、「ブリュンヒルデの自己犠牲」と同様の意味を持つはずである。
この点、プッチーニは、リューを実在の人物:ドーリア(彼の小間使い)をモデルとして造型したようだ(ワーグナー病(2))。
リューの「自己犠牲」から「ハッピーエンド」へと展開させるというのがプッチーニの意図だったようだが、「指環」を見ても分かるように、ここから「ハッピーエンド」に持っていくためには、奇跡とも言うべき展開が必要である。
ブリュンヒルデの場合、「自己犠牲」は神々に対するあからさまなポトラッチであり、これが成功して神々は炎に包まれる。
かつ、指環はもとの占有者=ラインの人魚たちに戻るという形で、アクロバット的に(少なくともワーグナーの中では)「ハッピーエンド」が達成された。
だが、これを真似するのは、絶対に無理である。
プッチーニの死後に残された未完のテクストを見て、困ったアルファーノは、「結ばれたトゥーランドットとカラフの前を、リューの遺骸を載せた牛車がゆっくりと進んで行く」というエンディングにしたのだが、これを「ハッピーエンド」というのは難しい。
リューは、神々に対して勝利したブリュンヒルデのように、トゥーランドットとカラフに対しポトラッチによって”勝利した”わけではないし、何よりも大事な「指環」に相当するものが登場しない。
なので、プッチーニは、”リング”に上がる前にワーグナーに敗れたようなものである。
ここは、パッパーノが言う通り、この”地雷野”には踏み込まないというのが、正しい姿勢なのかもしれない。
ちなみに、これ以外にもおかしなセリフが、第3幕の冒頭に出てくる。
大臣たち「名前を!さもなくば血と!」
名を秘めた王子「私に何を望もうと?」
ピン「貴方が言われよ、何をお望みか!求めるは愛ですかな?」
(p64)
ラストでトゥーランドットが言い当てる王子の呼び名「愛」を、ピンが最初に言い当ててしまっているのである。
但し、ここでの「愛」は、文脈上、(吉田鋼太郎さん風に言うと)「『恋』ではなくて、『劣情』のほう」である。
「なんや、言うてしもてるやん!」
なので、ここは「愛」ではなく、たとえば「女たち」(donne)とでもしておくのが良かったのかもしれない。