エスに関するフロイト先生の説明で注目すべきは、エスの「超(非)・歴史性」≒「不死」という性質である。
しかも、フロイト先生の図式だと、エスは、「超自我」という外在的なものをも取り込んでしまう。
つまり、エスは、≒「不死」であるが、閉鎖的・自己完結的なものではなく、外部からの進入も可能である。
あるいは、外部にあるものの方が実は本体なのであって、個々の人間のエスはその”出先”(?)なのかもしれない。
・・・すると、ここで何やら怪しい匂いが漂い始める。
「モーセと一神教」で激しく非難(というか、もはや呪詛)されているのは何よりもパウロであるが、何と、そのパウロの思考と似通った思考が、ここに立ち現れてきたように見えるからである。
それは、永生する(霊の)「いのち」(<第二の生命>中心主義)という思考である。
「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」
ここの「神」を「原父」に、「霊」を「エス」に置き換えて、さらに、
・「神の霊」→ 「原父(モーセ)を超自我として取り込んだエス」
・「キリストの霊」→「父の子(キリスト)を超自我として取り込んだエス」
と補足すれば、「モーセと一神教」でフロイト先生が言わんとしたところがいっそう明らかとなる。
われわれの(個別的)エスは、実は、外部に存在する不滅の(集合的)エス(あるいは「原エス」)に由来するものであり、それゆえ≒「不死」の性質を持つというわけである。
そして、こう考えると、フロイト先生が、生命科学の観点からは誤っているとしか言いようのない仮説を援用してまで、「自然」(エス)>「歴史」(伝承)という不等式を維持しようとした理由が分かるような気がする。
すなわち、私見ではあるが、彼が「エス」において見出そうとしていたのは、生命の根源としての animus(命と壺(5))だったのではないか、それゆえライバルとも言うべきパウロをあれほど激しく攻撃したのではないか、という見方が出来そうなのである。
ちなみに、これをフロイト先生の防衛機制論で言うと、おそらく「投影(Projection)」に該当するだろう。