昭和も後半に入ると、「パックス・コガーナ」にも徐々に揺らぎが見られるようになる。
刑部芳則先生は、昭和30年代後半は「歌謡曲の曲がり角」であり、昭和40年代から「演歌」(「こぶし」などが特徴)と「和製ポップス」(「8ビート」などが特徴)という2つの極を擁しつつ「細分化」が進んで行ったという(前掲「昭和歌謡史」p246~)。
面白いことに、当時主流の「歌謡曲」が今では「演歌」と一括りにされてしまう(「演歌の乱」は一定の成果を収めた?)一方で、当時の「和製ポップス」などの8ビートの曲は「演歌」から除外され、現在の「JーPOP」の源流として位置づけられることである。
なお、「和製ポップス」に最も大きな影響を与えたのはロックン・ロール(ビートルズもここにカテゴライズされる)とされているのだが、これは、語源からしても、初期の演奏形態からしても、「ADM」の一つと見ることが出来るだろう。
古くは既に「東京ブギウギ」(1947(昭和22)年)で8ビートの曲がヒットしているのだが、作曲した服部良一によれば、これは「ブルースから変化した曲」だというから、(前掲p173)、ここには「AADM」の系譜を見ることが出来る。
もっとも、「ADM」のうち、例えばミュージカルも日本歌謡に大きな影響を与えているのだが、中公文庫の「日本歌謡史」ではこの点が余り大きく取り上げられていない。
「朝鮮戦争に従軍後日本に戻ったジャニー喜多川は、自分が住んでいたアメリカ軍関係者の居住施設であるワシントンハイツで少年野球チーム「ジャニーズ少年野球団」を結成する。そしてある日、チームに所属する4人の少年とともに当時大ヒットしていたアメリカのミュージカル映画『ウエスト・サイド物語』を見に行き、多大な感銘を受ける。そこでかねがねショービジネスに並々ならぬ関心を抱き、勉強もしていたジャニー喜多川は、その4人の少年とともにジャニーズ事務所を設立することを決意する。1962年のことだった。4人のグループ名はその名も「ジャニーズ」。そこから現在まで続くジャニーズの歴史は始まった。・・・
一時、ジャニーズのレッスンには歌や演技のレッスンはなく、ダンスしかないということが話題になった。リズム感が養われれば、演技などの基礎もできるといったジャニーズなりの基本方針である。 ・・・
だがそうしたジャニー喜多川流のエンターテインメントは、原則的に舞台を念頭に置いたものだった。繰り返しになるが、ジャニーズの原点は『ウエスト・サイド物語』などのミュージカルであり、それを生んだアメリカショービジネスの世界だったからだ。」
歌謡における「ダンス・パフォーマンス」は、何もピンク・レディーに始まった話ではない。
これを体系的に始めたのは、「レッスンはダンスしかない」という旧ジャニーズ事務所ではないだろうか?
「昭和歌謡史」は、やはり旧ジャニーズ事務所の楽曲を抜きにしては語れないのではないかと思うのだが、この本は2024年8月25日発行なので、もしかすると、数ページ分あるいは十数ページ分がカットされたのかもしれない。