既に述べたように、フロイト先生は、おそらくはエスを救済するために、「記憶の遺伝」という明らかな誤謬に陥ったわけだが、誤謬に陥った原因の一つは、「記憶(痕跡)」という言葉の概念が不明確だったところにあるようだ。
ちなみに、フロイト先生は、別の箇所ではこれを「伝承」(これは個人のレベルではなく集団のレベルで機能するもの)と言い換えたりして、わざわざ混乱を招いているかのようにも思える(前掲「モーセと一神教」p169など)。
どう考えるかだが、この種の問題については、例によって、アントニオ・ダマシオの議論を参照するのが良いと思う。
ダマシオによる単純化した「意識」のモデルによれば、「記憶」は、彼が言うところの「拡張意識」のレベルに存在していることになる(道具概念VS.道具概念(10))。
また、このモデルを見れば、フロイト先生が「エス」と呼んでいろいろな機能を詰め込んできたものの正体は、どうやら「原自己」(Protoself)に近いのではないかと言えそうだ。
但し、「原自己」は、「一人に一つ」しか存在することが出来ない。
なぜならば、「原自己」は、「身体」を基礎として成り立っているところ、「身体」は、「一人に一つ」しか存在しないからである。
以下、引用が長くなるが、「自己」を「自我」と読み替えると、ほぼフロイト理論への応答となっていて興味深い。
「自分についての基準のことを 自己とか自分と言います。 我々の信号処理系の基準としては 揺るぐことのない何か、日々偏ることの少ない何かが必要です。
たまたま 我々の身体は単一です。身体は1つで 2つも3つもありません。これが出発点です。」(9:35~)
「脳皮質を調べ脳幹を調べ、身体を調べると、相互の繋がりが分かりました。この接続において脳幹が身体ととても緊密に結合していて、自己の基盤を提供しているのです。
また大脳皮質は、大量の情報から鮮やかに描きだされる 心の映像を担当します。それこそがまさに我々の心の実体で、普通はもっぱらそこが注目されます。
当然のことで、それこそが、心の中で繰り広げられる映画なのです。
しかし、矢印にも注目してください。見た目のために置かれたわけではなく、非常に強い相互作用があるから置かれているのです。
脳幹と大脳皮質の間の相互作用がなかったら、意識は失われるでしょう。脳幹と身体の間の相互作用がなかったら、意識は失われるでしょう。」(14:10~)
「自己には3つのレベルがあると考えます。原自己、中核自己、自伝的自己です。
前者2つはたくさんの種に共通し、その大半は脳幹およびその種が持っている大脳皮質から生じています。自伝的自己だけは、限られた種が持つものだと思います。
クジラ目と霊長類も自伝的自己をある程度持っています。家で皆さんが飼っている犬もある程度の自伝的自己を所有します。
ここが新しい事柄です。」(15:46~)
「自伝的自己は 、過去の記憶と 自分が立てた計画の記憶を基に 作られます 。体験した過去と予測する未来なのです 。
自伝的自己は、拡張された記憶、推論力、想像力、創造する力、言語を生みました。
そこから文化という手段が生まれ、宗教や正義、商業、芸術、科学、技術も生まれました。その文化の中で我々が 本当に獲得できるものはーここが新しいところですー 生物学により規定されたものだけではないことです。
それは文化の中で育まれたものです。人類の集合の中で育まれたものです。 これはもちろん 文化ー すなわち、その中で生みだされた 社会文化的な調節です。」(16:18~)