きょうを生きて living in a moment アドラムの洞窟

できることに集中すると美しさが生まれる。

その美しさを感じて息を吸おう。

愛に関して さらに

2012-11-02 19:26:05 | 日記
洞察の本の一巻

13p 右欄に愛に関して考えさせる記述があります。

愛と

身体的美しさ
音楽の才能などと比較し、

なぜそれをもっているか分からない特質ではない と説明している。

また、最初の男女に神が与えたのは

愛の幾分かである

と記録しています。

だから、よくエホバの証人が
愛が分からない
とかいっても心配する必要は、ないのです。

また、自分には、愛がないと責めるのも見当違いなのです。

愛は音楽の才能と違って最初から受け継いでいないからです。

洞察は、こう説明します。

最初の男女には、愛の幾分かと
その幾分かの小さな愛を広げ、大きくし、豊かにする能力があると

そして、さらにこう説明します。

人は愛を培うことによってのみ
愛の源である神に見倣う者となれます。


これは、愛に関して素晴らしい助言だと思います。

例えば、初対面のひとに完璧な愛をしめせたら、それは、嘘の愛だと思います。

なぜなら、愛は、培うもので
瞬時に示せる音楽の能力と違うから。

だから、最初

誰かに注意を向け、注目するだけで
ささやかなスタートで大丈夫だとおもいます。

愛を示さなければならい
愛をしめせないとだめ
という白黒の世界ではない。

愛は、最初は、見えないほど小さな
ささやかなはじまりても
培ってゆくうちに、気がついたら
愛の一部を植えた神に見倣うことになる。

だから、

あなたは、隣人を自分自身のように
愛せる。ギリシャ語では、未来形のshallが使われている。

つまり、いまは、愛さなくても
愛せるようにやがてなってゆく。

あるいは、愛せるようになっている。

そういった意味でも
エホバの証人は、こんなにも愛がありますって主張して、現実のストレスを感じるよりも、

毎回集会で愛しあってないところに
出かけると思っていったほうが
どれほどストレスがなく、
逆に感じる時間がもてるのではないかと思います。



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2 コメント

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Unknown (ケイ)
2012-11-02 21:17:49
今回の記事はとても共感できました。
前回の記事はなぜかわからないけど、心に悲しみが広がったので、ついムキになってコメントしちゃったかも。

私はバプテスマ受けた後も何年かはエホバは手厳しい神のようなイメージで、私のことなどそれほど気にかけていないし、イエスの贖いも「みんなのため」のもので「私のため」って認識は持てませんでした。
神の愛があまり感じられないのだから、それを反射させることも無理なわけで・・・

でも今は「神はわたしを愛してる」「贖いは私個人のために備えられてる」と感じられるようになり「神の愛する娘」として、もっと神を愛したい、自分を愛したい、隣人を愛したい、と思えるようになって、まだまだうまくできないけど、毎日「練習」しています。
そんな毎日は楽しいし、喜びにあふれてて、見るもの、食べるもの、すべてに感謝できる感じで。
「神の是認を受けたいから」愛する努力をしているのではなく、「私は神にすでに是認されている。お父さんにもっと近づきたい、見習いたい」って動機です。
人からどう見られるかとか、奉仕報告の数字とか、もう全然気にならなくて、奉仕もマイペースで喜びを持って捧げています。今はそんなクリスチャン生活がとっても楽しいです。
すぐむかついたり、心の中で仲間を罵ったりしてる自分を「あー、またやってる」って笑えるようになったし。

「愛する」ってことに関して洞察を与えてくれた本がエーリッヒ・フロムの「愛するということ」。
フロムによれば「愛する」ってことは自然に湧いてくるものではなく、それは「技術」であり、技術なんだから
「習練と知識」が必要で、それは一生続けていくものだと。
ああ、私も練習すればできるようになるんだ・・・って勇気が出ました。
また、フロムいわく「愛する」ということは一言で言うと「与えること」。
(以下引用) 自分自身を、自分の一番大切なものを、自分の生命を与えるのだ。それは、自分のなかに息づいているものを与えるということである。
自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。
このように自分の生命を与えることによって、人は他人を豊かにし、自分自身の生命感を高めることによって、他人の生命感を高める。もらうために与えるのではない。与えることがこのうえない喜びなのだ。
だが、与えることによって、必ず他人のなかに何かが生まれ、その生まれたものは自分にはねかえってくる。
本当の意味で与えれば、必ず何かを受け取ることになるのだ。
与えるということは、他人をも与えるものにするということであり、互いに相手のなかに芽生えさせたものから得る喜びを分かち合うのである。
与えるという行為の中で何かが生まれ、与えたものも与えられたものも、たがいのために生まれた生命に感謝するのだ。


これからもカメのような歩みでも「愛の習練」続けていこうと思います。

兄弟のブログ、これからも楽しみにしています。
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ケイさんへ (bereshit007)
2012-11-02 21:26:07
すごい文章表現力を持ってますね。
フロムの意見も培うという観点から
似ている視点があるかもしれません。

自分の文章は、極端から極端に移り

途中、反感と不協和音の中で真実を

捜す傾向があるので大雑把にみてやってください。
返信する

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