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井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

ドルドラDrdla:思い出souvenir

2010-12-13 22:42:17 | ヴァイオリン

英語で言いにくい代表例として、fifth's throne(5世の玉座)というのを昔習った。子音が五つ連続するからである。
すると、先日チェコ語には「hrps指」というのがあるというのを聞いた。全て子音の単語,歌にしたらどうするんだろう・・・。

そういえば,敬愛するヴァイオリニストにチェコ人のドルドラという人がいるのを思い出した。子音が4つに母音が一つ,本当にチェコ人はお口の中でモジャモジャ言う民族のようだ。

なぜ敬愛するかというと,子供の頃に読んだレコードの解説文が原因である。

録音という手段がなかった昔は、どんな名手であろうと亡くなってしまったら演奏史の隅に追いやられてしまう。その点、サラサーテやクライスラーは作品を遺したから、そうはならなかった。ドルドラというのも、この「思い出」一曲遺したおかげで、今でも皆の記憶に留まる存在となったのだ。

というような内容だった。爾来、作品を遺すということにこだわり始めた。

それが「琉球頌」につながったので、個人的には一応解決。

一方、この名曲「思い出」、どうも存在感が薄くなりつつあるのが気になり始めた。「知らない」という若い人たちが増えだしたのである。

私が子供の頃は「タイスの瞑想曲」と双璧を成す小品、という存在だったと思うが、今その地位にあるのはエルガーの「愛の挨拶」である。「愛の挨拶」を知らない人は多分皆無だと思うが、1970年代まではなぜか知られざる名曲だった、というと驚く人は多いだろう。

実際、私が大学に入学した頃、「いい曲でしょう?」と言いながら普及につとめたのである。聞かされた同級生、見事に知らなかったのだから。これが、その5年後には、現在とほぼ同じポピュラリティを獲得している、というのも不思議な話ではあるが・・・。

それはともかく「愛の挨拶」は(恐らく)ピアノ曲で、「思い出」はヴァイオリン曲である。それも非常にヴァイオリン的な曲、これが忘れられるとすれば由々しき事態。

その昔、TV番組「オーケストラがやってきた」でも「題名のない音楽会」でもやっていたと思うのだが、この「思い出」を十数本の弓を使って弾く、というのがあった。弾いたのは江藤俊哉さんだったと思う。最初の「ラレファ♯ラ」と弾くと、そのまま弓を投げ、次の弓を取って続きを弾く、というもの。軍手をして投げられた弓をキャッチするのは外山滋さんだったか、徳永二男さんだったか、という一流ヴァイオリニストのお遊びである。

そんなことまでできる、稀代の名曲、それほど難しい訳ではない。ぜひヴァイオリンを弾く皆さんには愛奏していただきたい。


ヤンソンスと言えば

2010-12-07 21:37:41 | オーケストラ

マリス・ヤンソンスのことを言うのが普通なのだろう。最近,どんどん評判を上げている一流指揮者である。

でも私は,ヤンソンスと言えばアルヴィド・ヤンソンス(マリスの父)なのである。クライバーと言えばエーリッヒ・クライバーと言っているのと段々同じになってきて,どこの化石だと言われそうだが,アルヴィド・ヤンソンスは本当に素晴らしい指揮者だと思ったのだ。

四半世紀前の日本のオーケストラは、指揮者次第でガラッと変わるところが多かった。それは今でもそうなのだが、今以上に極端に変化したように思う。(今それほどでもないのは,オーケストラの水準がかなり上がったからと言えよう。)

一番わかりやすいのはピアニシモがどれだけ弱音になるか。ヴァイオリン・パートの後方で弾いていると,これは如実に感じた。名指揮者の場合,水をうったように静まり返って,全ての見通しが良くなる。そうなれば演奏会の内容が半分保証されたようなものだ。

デ=ブルゴスが振った読響,小澤征爾が振った新日本フィルなどというところが思い出されるが,アルヴィド・ヤンソンスが振った時の東京交響楽団が,まさにそれだった。

プログラムの後半、俗に言うメイン曲はチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。指揮者にとってもオーケストラにとってもおなじみの曲で、悪かろうはずがない。

・・・のだが、第2 トロンボーンに若干の問題が生じた。第2主題の直前にトランペットとトロンボーンのパッセージで、第1 奏者と第2奏者が交互に分散和音を吹くところがある。それが、どうしても音色がそろわなかった。それを何とかしようと、ヤンソンスは毎日繰り返させたのだった。

こういうことは当時でも珍しいことだ。ことに、このオーケストラの音楽監督は二回やってダメならさっさとあきらめる人だったから、それに慣れているオーケストラにとっても珍しい体験になる。

しかも、何度やってもあまり進歩が感じられなかったのである。当時20代前半の筆者など、いくらやっても無駄なのでは、と内心思っていた。でもヤンソンスはあきらめなかった。

本番がうまくいったかどうかは覚えていない。多分うまくはいっていないと思う。

だが、コントラバスのある先輩が言っていた。「あれ、途中で止めたら本人腐っちゃうよ」つまり、ぎりぎりまで練習させるのが最善の方法だろう、ということだ。

現在プロフェッショナルの団体では、そのようなことはまず起こらない。でも当時は戦中戦後のプレーヤーの生き残りの皆さんがほんの少し残っていた時代で、まれにこのようなケースもあったということになる。

想像するに本国ソビエト連邦でも、このようなトレーニングをしていたのだろうし、東京交響楽団とは、一旦解散する以前からの付き合いで、特別な義務感もあったかもしれないし、何より東京交響楽団の熱意に応えたいという気持ちが強かったことに起因するとも考えられる。

一方、前半のプログラムはチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。ソリストは、当時新進気鋭のゲルハルト・オピッツ。ドイツのピアニストはエッシェンバッハ以降、この人しかいないというふれこみだった。それは今でもその通りと思うが、それを抜きにして、すばらしい演奏に感動したのだった。

ところが、こともあろうにヤンソンスの方が、あまり得意でないことが露呈してしまった。これもびっくり。

第2楽章にオーケストラが一回だけ和音を「ジャン」と入れるところがある。これが何度やっても「合わない」のである。ヤンソンスが力を入れれば入れるほど合わなくなる。オピッツもいやな顔一つせず、何度となくつきあってくれるのだが、何回やっても近似値が続く。

前述の音楽監督は、合わせることに関して全く問題が生じない人だけに、オーケストラの方も不思議な面持ち。なぜできないのだろう?

他人のみならず、ご自身に対しても繰り返しを要求するマエストロ、不器用なところを持ちながらも、感動的な音楽を作りだす指揮者、筆者はいっぺんで好きになってしまったのである。

その後、ほどなくしてトロンボーン奏者は入れ替わり、何年か後にアルヴィド・ヤンソンスは亡くなられた。

そしてヤンソンスと言えばマリスの時代になっている。マリスの演奏はテレビで聴くのみ、生でないと真価ははかれない。だから、どうのこうの言う資格はないのは百も承知だが、アルヴィドに心酔してしまった筆者としては、どうしてもマリスが良いなどという気持ちにはならないのだ。マリスさん、ならびにマリスファンの皆さん、ごめんなさい。

アルヴィド・ヤンソンス・フォーエヴァー!



スケルツォ・タランテラ~解禁

2010-12-04 23:20:46 | ヴァイオリン
乱丁落丁していたエチュード、ようやく交換品が届いた。届いてびっくり、抜けていたページは4ページもあった。エチュードだと、このようなことにはなかなか気づかない。これを練習させていた4人も「え、4ページもあるんですか・・・」と絶句。
しかし、なかなか有効なエチュードであるこつとは実証されつつある。みんな音がしっかりしてきたから。
さて、前回タイトルに使った「ちょっとたんまのかみとむすけ」を補足説明。これはNHK人形劇「ネコジャラ市の11人」(1970-73)に出てきた登場人物で、E.H.エリックが声を担当していたと思う。
使ってから思ったのだが、そう言えば今、ちょっとたんまなどという言い回し、聞かないなぁ。
ついでに、ちょっとたんまのかみトム介が歌っていた歌を途中から紹介。実は最初を覚えていない。家来を連れていて、それはうつみみどりの声だったと思う。家来が先に歌って、それを引き継ぐ形で歌うのである。
(うつみ)食べたお団子の数は、九百九十九個と半分
食いしん坊たちをごぼう抜き、みごと一位になったのは
(エリック)それは余じゃ余じゃよよよよよ
さぁよーこそ余人じゃありませぬ
お団子ならばまかしとき、ホレまかしとき、ホレまかしとき