時々,問題提起をしてくるピアニストの友人がいる。下記のようなメールをもらった。
最近ヴィターリのシャコンヌを何回も弾いていて考えていることを。タルティーニの悪魔のトリルなどもそうですが、あの手のロマン派編曲が未だに大手を振ってまかり通っているのはいい加減おかしくないか、という声はヴァイオリン界では起きないのですか?
ピアノも数十年前まではリサイタルでバッハといえばブゾーニなどの編曲でしかほぼ弾かれませんでしたし、インベンションなどもツェルニーやブゾーニなどの校訂による版で勉強するのが当たり前でしたが、さすがにどれも今は絶滅しましたよね。
「あの」声楽界でもイタリア古典歌曲のパリゾッティ版は改編が多すぎるし和声様式も違うという声がちらほら聞かれるようになりました。今や原典回帰が行き過ぎではとさえ感じられるこの頃、昔ながらの「演奏効果!」を求めるのは、それはそれでアリなのかなあと思ったりもしますが…。あのシャコンヌは、そもそもヴィターリの作品でもないらしいですが。
はい,その通り。最近では「ヴィターリ作曲と言われているシャコンヌ」という言い方もされるようだ。しかし,ヴァイオリン界はそんなこと,どこ吹く風,誰が作曲でも構わないのである。それにこのことを考えだすと,なかなか難しい問題がある。
まずこの曲には以下の3ヴァージョンがある。
1)オリジナルとされる原稿がドレスデンの図書館に遺されている。これが,どうもVitaliの作ではなさそうだ,というのが現在の有力な説。
2)世の中に最初に紹介したのはフェルディナンド・ダーフィト Ferdinand DAVIDの教則本。ライプツィヒ・ゲヴァントハウスのコンサートマスターであり,あのメンデルスゾーンのお友達だ。あの協奏曲(いわゆる麺魂)が弾きやすいのは,このダーフィトの助言のお陰である。ヴァイオリニストは皆感謝している。
(ついでに言うと,ブラームスにもヨアヒムというお友達がいたが,ブラームスはヨアヒムの助言をあまり聞かなかった。ヴァイオリニストは皆迷惑している。おっと脱線。)
ダーフィトが書いた教則本に「ヴィターリのシャコンヌ」として紹介されている曲がある。
3)上記2)を基にレオポルド・シャルリエ Léopold Charlier (1867-1936) が大胆に編曲した版。
世間で演奏されているのは,最後の3)である。このシャルリエという人物,ついでに調べると,なかなか多才な方で,ヴァイオリンのヴィルトゥオーゾであり,室内楽,音楽院教授,指揮,作曲,評論,講演の活動をこなし,芸術祭の監督として大人気,フランス人の理想とする「完全な音楽家 musicien complet 」である。
筆者の手許には1)に基づくものが2版ある。一つはイタリアのリコルディ,もう一つはドイツのベーレンライター。特にベーレンライター版は,校訂者であるオルガニストのD.ヘルマン氏から直接頂いたものだ。
その厚意を受け,何とか活用の道はないかと,何度か取り出して弾いてみるのだが,いかんせん「面白くない」のである。せめて教材として,とも考えたが,難しかった。
シャルリエ版の、大向こうを唸らす編曲の先入観が邪魔もしているとは思うが、原曲だとゴセックの交響曲並の扱いになるだろう。(ゴセックは、あのガヴォットのゴセックですよ。交響曲を作っていたんですよ。筆者も聴いたことないですが・・・。)つまり、大多数の人には知られない存在になると思う。
そうなるとシャルリエさんの偉大さがクローズアップされてくる。原点回帰なんて、どこの世界の話、とばかりに持てはやされているのが現状。
原点に帰らない編曲の存在は、ヴァイオリン界に限らず、いくつかは思いつく。ジャゾット編「アルビノーニのアダージォ」、レオポルド・モーツァルト「おもちゃの交響曲」、リムスキー=コルサコフ編「ムソルグスキーのはげ山の一夜」。
いずれも共通しているのは、原曲が「つまらない」こと。特に誰が編曲したかわからないL.モーツァルトの「おもちゃの交響曲」なんて、侮辱もいいところの噴飯ものかもしれないのだが、原曲のカッサシオンは、恐ろしくつまらない。だからこの編曲(変曲?)でいいのだ。もし「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」に、おもちゃを導入したら、世界中から石が飛んでくるだろう。
筆者は、シャルリエ版を演奏会用エチュードと見なしている。きっかけは田中千香士先生の一文。「右手の様々な技巧が出てくるので、音楽学校の試験でよく用いられます。」
どの程度「よく用いられる」のかは不明だが、確かにそれらの技巧の習得に役立つので、筆者もレッスンにはよく使う。バロックではなく、ロマン派の音楽として。誰が作ったかわからないのがむしろ幸いしている。そのような意味で、「悪魔のトリル」とは扱いが異なる訳だ。
ヴァイオリン界には、もっと扱いに困る曲がある。その代表が「エックレスのソナタ」。
スタイルは一見バロックなのに、ロマン派が入り込んでいる典型的な疑似バロック。しかもエックレスは渡仏したイギリス人となっているが、慣行版の編者が何者だかわからないからバロックで扱うことができず、かと言ってロマン派で扱っても中途半端。本当は生徒さんに弾かせたくない。が、3大教本全てに載っている言わば必須曲目。おまけにコントラバスやサクソフォーンでも演奏しているから、本家本元のヴァイオリン人が知らないままなのはかわいそうなので、不本意ながら練習させているのが実情。
それに比べれば、このシャコンヌは立派にロマン派の曲として扱えるので、問題は感じない。そう、バロックと思ってはいけないのである。という次第でブゾーニやパリゾッティとは全く性質が違い、誰も「おかしい」などとは思わない。しかも大抵の日本のヴァイオリン奏者はシャルリエを知らない。だって国内版の楽譜には書いてないのだから・・・。(輸入版だってフランス語読みだから読みとばす可能性大。チャーリーじゃないですよ。)
ただ、もう一つ重要な視点がある。人々がヴァイオリンに求めるものが、ピアノに求めるものと大きく違うということだ。それに関しては、いずれ別の機会に・・・。
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