その昔,分裂前の日本フィル時代の話。その最盛期にはコンサートマスターを始め,ボストン響との交換楽員の制度もあったりで,アメリカ人との付き合いが割とあったそうだ。その中で,あるアメリカ人が日本人に言った言葉である。
「お前達は,同じ日本人同士なのに,なぜ管楽器と弦楽器は仲が悪いんだ?」
言われた日本人,考えたこともない話題で絶句する。
「アメリカではな,弦楽器はユダヤ人が多く,管楽器はアングロ=サクソン系の人種が主流なんだよ。だから,どうしてもあまり仲良くはできないんだ。でもお前達,みんな日本人だろう?」
なんてことを語ってくれた先輩が昔いらした。
言われるまで弦楽器と管楽器が仲が悪いなんて,考えた事もなかった。
しかし・・・
練習の合間に食事を取るとすると,弦楽器は弦楽器同士,管楽器は管楽器同士で食事するのがほとんどである。仲が悪い訳ではないのだが,気心知れるのは同じ楽器同士・・・なのか?
少なくとも,管と弦ではかなり違う仕事をしているのは確かだ。大雑把に言って弦楽器は大勢で一つのパートを演奏するのに対し,管楽器はソリストだ。このソリストの発想は弦楽器にはほぼ無い。
また弦楽器は,あまり休みなく演奏し続けるのに対し,管楽器は休みだらけ。音符の数はまるで違う。管楽器が休みなく吹き続けるのは不可能に近いし,仮に吹き続けたとして,聴いている方が心地よいとはとても思えない。管楽器が休みだらけ,これも重要なことである。つまりオーケストラの土台は弦楽器が作り,そこに管楽器が色づけをしているというような存在であることを証明している事実だからだ。
この違う仕事をしているグループが共同作業に向かう時,全く違う発想になるのは,ある程度止むを得ない。
簡単に言って,ソリスト集団の管楽器は良くも悪くも自分を主張してなんぼの世界,責任感が強い分,他人にも責任を当然要求しようとする。
一方,弦楽器は最初から集団行動,意味なく個を主張してはいけないし,良くも悪くも調和を好む。一人ずつの責任感は結構軽め。
これがまたコントラバスとヴァイオリンの責任感は結構違うのである。コントラバスという楽器の特徴に,演奏者本人は,楽器の直接音があまり聞けない位置で演奏しているということがある。言い換えれば,他人の音と比較的混ざった音を聞いていて,さらに音符の数が少ないことも手伝って,かなり状況を客観的に見ている。
直接音を聞けない点では同じチェロ,しかし身体に密着している度合いがバスよりずっと強い分,客観性からは遠のく。
直接音を中心に,骨伝導までミックスされるヴァイオリンやヴィオラに客観性を求めるには無理がある。この楽器を弾きながら,遠くのパートに耳を向けるには,かなりの訓練が必要だ。特にヴァイオリンは「責任感って何の話?」というほど,責任感からは遠い存在。
というのもコンサートマスターが一身に責任を負うので,それで済んでしまうことが多いから,無責任は必然的な流れである。(あくまで,オーケストラの中に入った場合であり,個人的な性格が無責任な人の集団ではない。念のため。)
だからコンサートマスターの責任は大変重い。企業の社長と同じで,オーケストラの能力はコンサートマスターの能力を超えることはできない。後ろにどれだけ優秀なプレーヤーが揃おうと,コンサートマスターの能力以上の音楽にはならないのである。
昔,学生時代,コンサートマスターより正確に弾いてやろうと,かなりがんばった時期があった。お陰?で「隠れコンマス」の異名をいただいたが,そこには「何と無駄な努力を・・・」という揶揄の響きが隠されている。後ろでどれだけ正確に弾いても,全体への影響はほとんどなかったのである。そのことを身を以て知ることとなった経験だ。(ただ,その経験が後の本物のコンマスの時に活きたので,無駄ではなかったが・・・)
弦楽器奏者が本来,このような生き物だと知らずに付き合おうとする管楽器奏者は,大変なメに合うことがある。昨今では,管楽器奏者がオーケストラを作りたい,という動きがしばしばある。その時,この問題は割と早い段階で生じてくるだろう。
オーケストラがたくさん生まれることは歓迎したい。でも,できればオーケストラは弦楽器奏者主導で育っていかないと,高い確率で大きな壁にぶちあたる。大体,低弦以外の弦楽器奏者に客観性は無いも等しいのだから,ヴァイオリン奏者は自分で自分達のことをうまく説明できないのだ。何も言わないから,異論はないのだろうと事を進めると,ある時突然「こんなつもりじゃない」と叛旗をひるがえし,ということになりかねない。
こうやって考えると,オーケストラのヴァイオリン奏者はヌエのようにとらえどころがない存在になってくる。ヴァイオリン奏者はヴァイオリン奏者で,こんな面倒な説明をしないでもつきあえる,やっぱり弦楽器同士に限る,と思うのだろうな・・・。
つまり,ユダヤ人云々は関係ないのである。この問題は案外,根が深い。文化摩擦の一種と言える。その摩擦を昇華して,エネルギーに変えることこそが求められることだろう。