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井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

クロイツェル20番③

2020-06-05 22:19:51 | ヴァイオリン
永遠のミスプリントを指摘しながらレッスンを進めていたら、
「それは出版社にちゃんと報告してくださいよ」
と、生徒さんに言われてしまった。

それで思い出したのがクロイツェルの20番。報告する前に事態を把握しておかねば、と再度楽譜を出して、再検証した。

校訂者を見るだけで、背筋がぞくぞくしてくる。

まずは、Mendelssohnの協奏曲の立て役者、フェルディナンド・ダヴィド。



これはないでしょう、と言いたいくらい、ミスだらけ。もちろんダヴィドが悪いとは限らない。

次にシャーマー社のシュレーダーとペータース社のへルマン。この二つは中身が一緒だった。番号は違うけど。(ペータース版は第19番)



ニ短調の和声的短音階で2小節統一されている。しかし、音楽的ではないなあ。

そしてエチュードの大家、ドント先生。



Oh,la la.あらら、短調と長調のせめぎあいで単調さを防いでいる、かなぁ?
やはりこちらもミスプリントのように見える。

それで、トリはマッサール先生。



ニ長調で統一されている。これが一番すっきりしているから、オリジナルと信じたい。

これら全てから考えると、篠崎版はそれでも良い方だ。私が訂正を入れた楽譜がこれ。


それに、学習者のことを考えて、スラーを大胆に変更している。これは今回初めて気づいた。

この恩恵は、ほとんどの日本人ヴァイオリニストが受けているのではないだろうか。
それを、前回は「盲従」などとひどい言葉を使ってしまった。
面識がないとは言え、師匠の師匠である。
ごめんなさい。

クロイツェルのオリジナルがどのようなものなのかはわからない。しかし、演奏会用の曲ではないのだから、原典でなければならないことより、練習の効果があるかどうかの方が重要だ。
そう考えた時、篠崎版はなかなか良い方に属していると思う。

良いエディションが手近にあることは、大変幸せなことで、大事にしなければと、改めて思ったところだ。

シャルル・ド・ベリオ:協奏曲第7番

2020-04-12 20:42:54 | ヴァイオリン
モーツァルトのヴァイオリン協奏曲が弾けるようになって、次はブルッフかラロか、と行きたいところ。実際行く人も多い。

が、ここには深くて大きい谷がある。

ブルッフの協奏曲、ラロのスペイン交響曲、いずれも速足でかけ上がるアルペジオがある。
ブルッフには三重音の連続、ラロにはハイポジションとの往復、いずれもモーツァルトには出てこない。

この対策として、以前から「大量のアルペジオ練習」をお勧めしていたし、私もそうしていた。

この方法の弱点は、アルペジオ練習の必然性が生徒さんにわからないことである。

やはり、ブルッフほど難しくはないアルペジオが含まれた曲を並行して練習する方がわかりやすい。
そういう曲があまりないから「では作るか」と思って、昨年末から取り組んでいたのだが……。

なるべくテレワーク、になった今、かねてから気になっていた楽譜達を眺め直した。
シュポア、ロード等の協奏曲である。

……私が考えることなど、百年以上前の先人達も考えていたことがよくわかり、とても恥ずかしかった。



タイトルにまず
《CONCERTSTUDIEN No.6》
とある。
イタリア語とドイツ語がチャンポンの造語だが、直訳で協奏曲練習曲、つまりエチュードコンチェルトとでも言ったらわかりやすいだろうか。

下に小さく書いてあるのは「ライプツィヒ王立音楽院の要請に応じて」のようなこと、そして校訂がフェルディナント・ダーヴィト。

つまり、当時は盛んにヴァイオリン作曲家の先生方が、学習者のために練習用協奏曲をせっせと書いていた事がわかる。

ダーヴィトが手を入れた物は、ほぼ必ずアウアーが目を通しているはずだ。そして恐らく全生徒に練習させているに違いない。
というのも、私はアウアーの孫弟子にあたる人に3人も習ったことがあり、私も練習したからである。

しかし、私はこのあたりの協奏曲が嫌いだった。ちっとも良い曲だと思わないし、ヴァイオリンを弾く人以外誰も知らない曲をなぜやらなければならないか、必然性を見いだせなかったからである。

自分が嫌なものは、人にもさせない。道徳的には極めて正しい行動である。

が、これらの楽譜を前にし、私が「実は善き伝統」を絶ちきってしまっていたことに気づかされた。

というのも、曲を次から次にやりたがる人も決して少なくないし、無味乾燥な音階よりもそちらの方が練習して上達するタイプもあることが、今更ながらわかったからである。(何回やっても正確な音階を弾けない生徒さん、しかし曲になると極めて練習してくるのである。)

そうやって改めてみると、標題のベリオの7番、なかなか良い曲だ。適度なアルペジオや音階も織り込まれている。

私はいやいややっていたけど、みんながそうだとは限らない。
そこに早く気づくべきだったが、今からは、これを活用せねば、と強く思ったテレワークの1日であった。


右手の小指の使い方

2019-11-10 10:16:33 | ヴァイオリン
右手首に負担をかけない方が、良い音が出る。特に弓元では、弓の重さだけで音が出る。

むしろ、弓元では重さがかかり過ぎるから、適切に弓の重さをのせる必要がある。そこで小指の出番だ。

小指で弓を少しだけ押し下げれば、あの「ガリッ」という雑音を出さずに済む。つまり、弓元では小指は曲げておく必要がある。

ところが、これができない人が多い。実は初心者だと大して難しくなく、むしろ何年も弾いている人の方が厄介。小指を使ったことがない人に使わせるのは、至難のわざと言っても良い。

さらに、そのような必要はないと公言する一流ヴァイオリニストもいらっしゃるものだから、私も一時は「弾けているからまあいいか」と、徹底はさせなかった時期もあった。

ところが十年ほど前、見事に徹底した右手の使い方をする中学生の演奏に接したのである。あの方法ができるとは大したものだ、一体どうやって、と調べてみると、何と孫弟子だった!

それから猛反省。以後は、また徹底するようにしたのだが、その「妥協していた時期」の生徒・学生が、現在世間で活躍するようになって、私も共演する機会もあり、目の前に「妥協の結果」が提示される事態を招いてしまった。

どんな弾き方だろうと、もう本人の責任、と言いたいところだが、その弾き方のおかげで(音が濁る)、明らかに本人の評価を下げているのは看過し難い。

やれやれ、どう再教育したものか……。

自由に弾くか、型に入れるか

2019-10-04 19:02:00 | ヴァイオリン
まず、型に入れよ、そして型から出でよ。

多分世阿弥あたりから来ている言葉、私は当然だと思っていた。
それはまず、自分には型がないと何も表現できなかったからだ。
たまに思いつきをやっても、大抵直されるので、それなら「下手な考え休むに似たり」で、言われるまでは下手に考えない癖がついた。

これが絶対的に良い方法だと言うつもりはない。
しかし、最初から「好きなように弾いていいんだよ」という先生も、まだいるらしい。それも、立派な学歴を持った先生が、そのようにおっしゃったということを最近聞いた。
その生徒さんが素晴らしい演奏をするなら良いのだが、そうでないとなると、やはり首をかしげてしまう。
「先生の役割は何?」

私は、まず型を教えてあげることだと思うのだが。

クロイツェル20番②「伝統のミスプリント」

2019-04-25 07:40:00 | ヴァイオリン
IMSLPでクロイツェルの練習曲を見つけて、まず驚いたのは、曲数が違うものがあることだ。

ずっと「42の練習曲」だと思ってきたが、「40の練習曲」もいくつかあった。なぜか2曲少ないものもあったのである。

だから20番ではなく、19番となっているものもあった。

そして件の箇所なのだが…

「ほら、やっぱり…」
という、これが正しいと思える版が見つかった。

ところが一方、全音篠崎版と全く同じ内容の「ミスプリント楽譜」も見つかったのである。
篠崎版は、恐らくこれに盲従したので、勝手に間違った(?)訳ではなさそうだ。

さらに、篠崎版とも異なるミスプリント版まで存在した。

こうなると、もう何が正しいのやらわからなくなってくる。ミスであろうが非音楽的であろうが、トリルの練習になれば良い、と思う人も出てきておかしくない。

しかし、ともすると無味乾燥な練習になりやすいエチュード、わずかなことでも「正しい形」であってほしいなあ。