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井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

音楽は文系ではない、だろう

2013-01-20 21:13:57 | 受験・学校

今年のセンター試験で「物理I」の問題、しょっぱなに「ヴァイオリン」と出ているではないか!

「ヴァイオリンの弦の音が音叉の440Hzより少し低かった。0.5秒に1回のうなりが聞こえた。さてヴァイオリンの弦は何ヘルツ?」という問題。

いやはや、うなりを数えたことなんてないし、ましてや1Hz単位低かろうが高かろうが、ビブラートでもかければ誤差にはいらなくなる差異なので、こんなもの聞きとれる訳がない・・・。

というのはヴァイオリン屋さんの言うことで、物理屋さんは当然違う。

試験が終わって早速チューナーを2台出して、1Hz違いのうなりを聞きとろうとしたのだが・・・

全く聞きとれない。

チューナーの信号音(鋸歯状波かな?)に美しいビブラートがかかる感じか。

7Hz差をつけたらようやくうなりを数えることができた。1秒間に7回のうなりである。ここから1Hz単位で差を縮めていったら、4Hz差までは数えられた。それ以下は二つの音が分厚く一体化している感じで、うなりを聞きとるのはかなり難しい。(いや、はっきり言ってできなかった。)

問題に戻ると、0.5秒で1回ならば1秒で2回、つまり2Hz差だから、答えは438Hzなのだろう。ちなみに試験会場では漠然と439.5Hzか、などと考えていたから、そのあたりは呑気な音楽屋さん的思考である。これではセンター試験の点はとれない。

もしかしたら「1秒に0.5回のうなり」という問題だったかもしれない。その時は439.5Hzで正しいはず。

他にも、スピーカーから音を出してメガホンで拾う時、拾い方次第で音が大きくなったり小さくなったり、などという問題もあった。多分位相が反転する音をミックスすると小さくなるから、距離がこうなる時・・・などと考えていられたのは、その昔オーディオに少々かぶれていたころの名残。

そもそも楽器の演奏とは物理の実験をぶっ続けでやっているようなものだ。物理的に「○○な音」を出したければ、必ず物理的な解決法がある。そして、そのルールを知らないとうまくいかないことも多々ある。

ヴァイオリンで言えば、ハーモニックスは駒よりでないと音は出ない。周波数が高くて波長が短いからである。しかし、それを実行しないで「なかなか音が出ないなぁ」と言っている人の多い事多い事。

そんなこんなで経験的に知っている物理の色々はあるけれど、高校の物理を履修すれば、そのような基礎的なことも少しはやるということだ。ということは、私が教える音楽関係の学生も、このくらいの知識は持ち合わせて入学してくるのだな。

ということは無いようだ。音楽志望は高校で文系科目を履修する人がほとんどで、文系では大抵物理を扱わないからだ。かくいう私もそうだった。

これが間違っているのではないか、と時々思う。上述のように、音楽をやるには物理的知識が時々あった方が良い。さらに言えば、楽譜の発想は算数そのもの、歴史をさかのぼれば、リベラルアーツを扱っていた中世の大学では、数学のお隣に音楽が座していた訳だし。

だからと言って理系かと言われても困るのである。文学や美学など、人間の感性に直結した部分も重要な一面である。早い話が、文系と理系に分けて、それで全てだろうと思っている人々と仕組みが困る。

音楽は文系理系、知性と感性、その全てを統合する素晴らしいものであるということを、ここでは強調しておこう。

しかし、最初の「うなり」であるが、実験してみてわかったのは、この実験にはすごく精度の高い耳が必要だということ。音楽で鍛えられた耳でも1秒間に数回のうなりを数えるのはとても難しい。この実験は音楽をやっている人がようやく結果をとらえられるもの。そのようなものを物理の実験と言えるのだろうか?


楽隊のうさぎ

2010-01-16 23:34:10 | 受験・学校

 今年もセンター試験がやってきた。受験生は大変だ。とは言え,これはある意味当然。一生のうちに何回かしかない「がんばり時」なのだから,がんばり倒してほしい(ちょっと変な表現?)。

 ところで監督する方も結構大変なのである。問題を配ったり,運んだり,欠席を数えて報告したり,という仕事が大変なのではない。受験生に目を配る以外は何もしてはいけない時間というのがある。この時間が辛い。当然寝てはいけないし,もちろん読書もできない。ただぼーっとしていなければならないのが,ものすごく疲れる。

 中でも辛いのは,数年前に始まった「リスニング・テスト」。これは身動きができない。音をたててはいけないからである。今年もタイム・キーパーという係に充てられた。去年までは,タイム・キーパーのみICプレーヤーの音声を聞くことができた。今年は音声チェック専門の人員が配置され,タイム・キーパーはひたすら時計と受験生を眺めるのみ。
 それでも今年は少し慣れてきたようで,30分間立ちっぱなしが何とかできるようになった。その昔,先輩から聞いた言葉を思い出しながら・・・「ソリストは立つのが仕事ですってU野先生から言われたよ」

 それ以外の科目では,試験問題の冊子をチラチラ眺めることが辛うじてできる。しかし,へたに読もうものなら劣等感が刺激されるだけ。読まないがマシというものだろう。

 そのような中,今年の国語の現代文は「音楽」を扱っており,こちらとしては一時の安らぎを得ることができたのは幸いだった。中学校の吹奏楽部が夏のコンクールを受けるあたりを描いた,中沢けいの小説「楽隊のうさぎ」の一節である。

 試験が終わってからじっくり読ませてもらった。さすがは文学者,音楽屋さんとは違う文学的な表現が随所に現れるのは当然として,音楽屋さんも納得の叙述になっているところが嬉しい。演奏する人やコンクールを受ける人にしかわからないと思われる特有の心理描写も巧みで共感を呼ぶ。

 例えば「音が音楽になろうとしていた」という文がある。
 私もよく使う表現,「それじゃただの音で,音楽になっていないよ」のように。

 「スゲェナ」「和声理論の権化だ」
 いかにも生意気な中学生が言いそうなセリフ。

 さて,ここで問題です。この二つはどういう意味でしょう?五択です。

 1. 指揮者の指示のもとで各パートの音が融け合い,具象化した感覚を克久(主人公の名)に感じさせ始めたこと。
 2. 指揮者に導かれて克久たちの演奏が洗練され,楽曲が本来もっている以上の魅力を克久に感じさせ始めたこと。
 3. 練習によって克久たちの演奏が上達し,楽曲を譜面通りに奏でられるようになったと克久に感じさせ始めたこと。
 4. 各パートの発する複雑な音が練習の積み重ねにより調和し,圧倒するような迫力を克久に感じさせ始めたこと。
 5. 各パートで磨いてきた音が個性を保ちつつ精妙に組み合わさり,うねるような躍動感を克久に感じさせ始めたこと。

 このように,音楽的には,どれを正解にしてもいいようなことしか書いていない。中学生なんか,意味も解らず「権化」と言っていたに違いない,なんちゃって。よーく,よーく考えたら「これだ!」と思うけれど,さらに厳密に考えると,こっちか,みたいな答え。

 正直言って,高校生の頃は,ここまで考え抜くことはできなかったと思う。それ以外の問題も合わせて80分で答えなければならないのだから,やはり受験生は大変である。

 明日まで「がんばり通せ,受験生!」(これならまともな表現かな?)


インプットと知性の勝利

2007-07-14 22:02:07 | 受験・学校

学内演奏会に続き、ゼミの発表会を開いた。名称は違うけど、演奏するのが4年生というだけで、中身は似たようなものだ。

今年のゼミ生は11人、かなり多い方である。発表会に出るにあたって最低2回は見せに来ること、という条件を年度始めから出していた。にもかかわらず1回も来なかった輩もいるので、それは出演者から外し、計6名の発表となった。

教育大学の4年生は、押しなべてとても良い学生である。教育実習の洗礼を受けて大人になっているし、時間の余裕があるから、しっかり学習して来る。

となれば上出来だが、もちろんつねにそうとは限らない。

前述の教育実習という場は、己の至らなさ加減が、いやというほど身にしみる場である。実習が終わったら、今度こそ身を入れて研鑽を積もう、と考える。

早々にレッスンの申し込みがあった。クラリネットの学生Jである。それはよかったのだが、私の都合で一週間延期させてしまった。そしてその日になると学生の方が都合悪くなり、その後も双方の都合が合わず、実現したのは本番二日前。

その頃、演奏曲目を知ってびっくり、ブラームスのソナタ第2番!ピアノは同級生のOが弾くという。JとOは同じ高校出身で教育実習も同時に受けていたから、同級生というよりは同期の桜の戦友、と言った方がふさわしいかもしれない。

しかしブラームスのピアノパートがどれだけ難しいのか知ってるのか?!本職のピアニストでも、うんうん唸りながら弾くのだぞ!Oがピアノの名手だという話は聞いたことがないが…。

レッスンが始まると案の定、であった。似て非なる音楽、ある先生の表現を借りるなら宇宙人の音楽だった。ブラームスの様式を全く無視していた。またしても「様式の把握」であるが、コーヒーに入れるのは砂糖とミルクの類、塩や柚子胡椒を入れるものではなく、濃さと温度にも、美味しく感じる幅がある。この様式を逸脱してロクなことはない。

仕方ないので、ブラームスにおける強弱とアゴーギクの特徴を中心に話し、実践させてみる。これで、できるようになるのならば、かなり優秀な方だろう。予想通り、あまり変化はない。

考えるにイメージの欠如であろう。ブラームスの曲は何を弾いたことがあるか、聞いたことがあるか質問した。 答:弾いたことがあるのは小品数曲、聞いたことがある交響曲は1番のみ、協奏曲、室内楽は皆無。こりゃあ無理だ。

インプットなくしてアウトプットは有り得ない。インプットがない状態では何を言ってもピンとは来ないのが当然だ。

本番は二日後、それまでにどれだけのインプットができるかわからないが、とにかく交響曲だけでも聞きまくるように指示した。ブラームス漬けになるようにと…。

そして昨日の本番である。「ブラームスのような重量級の作品は一朝一夕ではいかないから、もっと慎重に取り組むこと」と言わなきゃならないだろうな、と思いながら演奏を聞き始めた。

あ、・・・えっ・・・

ブラームスになっていた!強弱とアゴーギクはブラームスの特徴を掴んでいた。ここまで完成度を上げる努力は尋常でないはずだ。それを想像すると目頭が熱くなってきた…。

終わってからOと話した。この二日間、何をしたか尋ねると、夜通しブラームスを聞いていたと、半泣きで話してくれた。

日がな一日聞いたら弾けるのか?そんなことはない。様式上のヒントを手掛かりにOがブラームスを再構築したのである。

再構築には、特徴を抽出して応用するという、知的な作業が必要だ。つまりインプットだけではできない、そのような音楽もある、ということだ。いや、3分以上の長さを持つ音楽には必ず要求される作業であろう。

この知的作業の訓練は、いつ為されるのだろうか?

少なくとも、我が福岡教育大学の授業に、そのような時間はない。私がかつて通った大学にもなかった。遡って斎藤秀雄先生の「音楽解釈」の授業ならば近いことをやっていたのかもしれない。 しかし大多数は「自分でやるもの」と突き放されたものではないだろうか?

今、大学生を見て思う。これができる学生とできない学生、この差は高校までの勉強をどのようにしていたか、そこに起因するような気がする。

高校の勉強が直接役にたつ状況は一部を除いて皆無に等しい。卒業後、因数分解をしたことはなく、ナントの勅令の内容がナントも分からなくて困った、ということもない。

しかし、モノを考える訓練にはなっていたのではなかろうか?今すぐにこれを証明することはできない。だが、学生Oを見て、その知的訓練の素地があっての結果としか思えなかったのは確かである。


念仏効果

2007-07-11 10:39:31 | 受験・学校

 学内演奏会というのを開いた。管楽器とヴァイオリンを主として勉強する芸術コース,1年から3年までの発表会である。学年を追う毎に,演奏がしっかりしてきているのは,非常に全うであり,順当であり,正直安心した。

 しかし学生がみな真面目にやってきたかというと,そうではない。授業にろくに出ないのもいるにはいるので,その発表については最悪の結果を覚悟していた。

 ところが,そんな学生でも下の学年よりはまともな瞬間があったのである。今年のヴァイオリンの3年生には「古典派の様式の把握」を課していた。課題曲はベートーヴェンの協奏曲。これは音階と分散和音だらけの曲なので,様式の把握なしには音楽にならない。かつて「ここは何調の何の和音を使っているの?」ときいただけで絶句し泣き出した学生もいた。しかし和声の動きを知らないことには話にならない曲なのである。知った上でヴァイオリンの役割を理解して音楽を作るのだ。これが一部の学生には意外と難しいらしい。なかなかスタイリッシュな演奏をしてくれないので,今年ははっきり目標に掲げた訳だ。

 そういう説明を授業中にして,演奏を研究する。その説明を聞かないと様式の把握は非常に難しいはずだ。なぜなら,様式こそ教えてもらわないとわからない類のものだからである。(注意深い観察と莫大な時間があれば独学でも可能だが,そういう人は大学に来る必要はない)

 授業に来ないのだから,目もあてられない状況を覚悟していた。実際は・・・

 音程は定まらない,音はフニャフニャ,しかしポイントが逸れていない,つまり様式だけは把握している演奏だった。授業に出てきている学生以上に把握だけはしていたのである。なんじゃこりゃ・・・。

 頭で弾いていたとも言えよう。その学生は,私が教え始めて5年以上たつ。正直まじめとは言い難い。特に最近はシーカレができてからはヴァイオリン離れは顕著。シーカレはいてもいなくても結構。師のたまわく「君たちがヴァイオリンさえちゃんと弾いてくれれば,銀行強盗をやろうが構わない」。その弟子たる不肖,ヴァイオリンをまともにやらない人からは急速に興味が遠のいていくのである。そうなると,どうせ言っても馬の耳に念仏だろう,てな感じにこちらもならざるを得ない。

 ところが馬ではなかったことが演奏によって判明した。馬と人を見抜けなかった自分に愕然ときた学内演奏会であった。念仏も潜在意識に蓄積すると,頭のいい人は,それが実力となって顕在化するのだろう。様式のことは常々言い続けてきている訳で,今年始めて口にした訳ではない。
 これからは念仏の効果をもっと信じるようにしようと思った。それと,馬の仮面をかぶった諸君,早々に仮面を脱いでくれ給え,と願わずにはいられない。

 注)シーカレ:「シ」を後ろに移動させて読んで下さい。