ベッラのブログ   soprano lirico spinto Bella Cantabile  ♪ ♫

時事問題を中心にブログを書く日々です。
イタリアオペラのソプラノで趣味は読書(歴女のハシクレ)です。日本が大好き。

吉川英治の「三国志」・・・忘れがたい名場面

2014年08月17日 | 政治

★ 昔、読んだ吉川英治の「三国志」、忘れがたい名場面。

――ところへ……糜芳(びほう)が満身朱あけにまみれて、追いついてきた。身に立っている矢も抜かず、玄徳の前に膝まずいて、
「無念です。趙雲子龍までが心がわりして、曹操の軍門に降りました」
 と、悲涙をたたえて訴えた。
「なに、趙雲が変心したと?」玄徳は、鸚鵡返しに叫んだが、すぐ語気をかえて、糜芳を叱った。

「ばかなことを! 趙雲とわしとは、艱難を共にして来た仲である。
彼の志操は清きこと雪の如く、その血は鉄血のような武人だ。
わしは信じる。なんで彼が富貴に眼をくらまされて、その志操と名を捨てよう!」


 この日、曹操は景山の上から、軍の情勢をながめていたが、ふいに指さして、
「曹洪、曹洪。あれは誰だ。まるで無人の境を行くように、わが陣地を駆け破って通る不敵者は?」
 と、早口に訊ねた。
 曹洪を始め、そのほか群将もみな手を眉にかざして、誰か彼かと、口々に云い囃はやしていたが、曹操は焦じれッたがって、
「早く見届けてこい」と、ふたたび云った。

 曹洪は馬をとばして、山を降くだると、道の先へ駆けまわって、彼の近づくのを見るや、
「やあ。敵方の戦将。ねがわくば、尊名を聞かせ給え」と、呼ばわった。
 声に応じて、
「それがしは、常山の趙子龍(ちょうしりゅう)。――見事、わが行く道を、立ちふさがんとせられるか」
 と、剣を持ち直しながら趙雲は答えた。

 曹洪は、急いで後へ引っ返した。そして曹操へその由を復命すると、曹操は膝を打って、
「さては、かねて聞く趙子龍であったか。敵ながら目ざましい者だ。まさに一世の虎将といえる。もし彼を獲えて予の陣に置くことができたら、たとえ天下を掌に握らないでも、愁(うれい)とするには足らん。――早々、馬をとばして、陣々に触れ、趙雲が通るとも、矢を放つな、石弩を射るな、ただ一騎の敵、狩猟するように追い包み、生け擒どってこれへ連れてこいと伝えろ!」

 鶴の一声である。諸大将は、はっと答えて、部下を呼び立てた。――たちまち見る、十数騎の伝令は、山の中腹から逆落しに駆けくだると、すぐ八方の野へ散って馬けむりをあげて行く。
 真の勇士、真の良将を見れば、敵たることも忘れて、それを幕下に加えようとするのは、由来、曹操の病といっていいほどな持ち前である。
 彼の場合は、士を愛するというよりも、士に恋するのであった。その情熱は非常な自己主義でもあり、盲目的でもあった。
さきに関羽へ傾倒して、あとではかなり深刻に後悔の臍を噛んでいるはずなのに、この日また常山の子龍と聞いて、たちまち持ち前の人材蒐集欲をむらむらと起したものであった。

 趙雲にとって、また無心の阿斗にとって、これもまた天佑にかさなる天佑だったといえよう。
 行く先々の敵の囲みは、まだ分厚いものだったが、趙雲は甲よろいの胸当の下に、三歳の子をかかえながら、悪戦苦闘、次々の線を駆け破って――敵陣の大旆を切り仆すこと二本、敵の大矛を奪うこと三条、名ある大将を斬り捨てることその数も知れず、しかも身に一矢一石を受けもせず、遂に、さしもの曠野をよぎり抜けて、まずはほっと、山間の小道までたどりついた。
 するとここにも、鍾縉、鍾紳と名乗る兄弟が、ふた手に分かれて陣を布しいていた。
 兄の縉は、大斧をよくつかい、弟の紳は方天戟の妙手として名がある。兄弟しめし合わせて、彼を挟み討ちに、
「のがれぬ所だ。はやく降れ」と喚きかかった。
 さらに、張遼の大兵の猛部隊も、彼を生け擒りにせんものと、大雨のごとく野を掃いて追ってきた。
「――あれに追いつかれては」
 と、趙雲も今は、死か生かを、賭するしかなかった。
 おそらく彼にしても、この二将を斃したのが最後の頑張りであったろう。前後して縉と紳の二名を斬りすてたものの、気息は奄々とあらく、満顔全身、血と汁にまみれ、彼の馬もまたよろよろに成り果てて、からくも死地を脱することができた。
 そしてようやく長坂坡まで来ると、彼方の橋上に、今なおただ一騎で、大矛を横たえている張飛の姿が小さく見えた。
「おおーいっ。張飛っ」
 思わず声を振りしぼって彼が手をあげた時である。執念ぶかい敵の一群は、もう戦う力もない趙雲へふたたび後ろから襲いかかった。


「救えっ、救えっ張飛。おれを助けろっ――」
 さすがの趙雲も、声あげて、橋のほうへ絶叫した。
 馬は弱り果てているし、身は綿のように疲れている。しかも今、その図に乗って、強襲してきたのは、曹軍の驍将、文聘と麾下の猛兵だった。
 長坂橋の上から、小手をかざして見ていた張飛は、月にうそぶいていた猛虎が餌を見て岩頭から跳びおりて来るように、
「ようしっ! 心得た」
 そこに姿が消えたかと思うと、はや莫々たる砂塵一陣、駆けつけてくるや否、
「趙雲趙雲。あとは引受けた。貴様はすこしも早く、あの橋を渡れっ」と、吠えた。
 たちまち修羅と変るそこの血けむりを後にして、趙雲は、
「たのむ」
 と一声、疲れた馬を励まし励まし、長坂橋を渡りこえて、玄徳の休んでいる森陰までやっと駆けてきた。
「おうっ、これに――」
 と、趙雲は、味方の人々を見ると、馬の背からどたっとすべり落ちて、その惨澹たる血みどろな姿を大地にべたと伏せたまま、まるで暴風のような大息を肩でついているばかりだった。

「オッ、趙雲ではないか。――して、そのふところに抱えているのは何か」
「阿斗公子です……」
「なに、わが子か」
「お許し下さい。……面目次第もありません」
「何を詫びるぞ。さては、阿斗は途中で息が絶えたか」
「いや……。公子のお身はおつつがありません。初めのほどは火のつくように泣き叫んでおられましたが、もう泣くお力もなくなったものとみえまする。……ただ残念なのは糜夫人のご最期です。身に深傷を負うて、お歩きもできないので、それがしの馬をおすすめ申しましたが、否とよ、和子を護ってたもれと、ひと声、仰せられながら、古井戸に身を投げてお果て遊ばしました」
「ああ、阿斗に代って、糜は死んだか」
「井には、枯れ草や墻かきを投げ入れて、ご死骸を隠して参りました。その母の御霊みたまが公子を護って下されたのでしょう、それがしただ一騎、公子をふところに抱き参らせ、敵の重囲を駆け破って帰りましたが、これこのとおりに……」
 と、甲よろいの胸当を解いて示すと、阿斗は無心に寝入っていて、趙雲の手から父玄徳の両手へ渡されたのも知らずにいた。
 玄徳は思わず頬ずりした。

あわれよくもこの珠の如きものに矢瘡やきずひとつ受けずにと……われを忘れて見入りかけたが、何思ったか、
「ええ、誰なと拾え」
 と云いながら、阿斗の体を、まりのように草むらへほうり投げた。
「あっ、何故に?」
 と、趙雲も諸大将も、玄徳の心をはかりかねて、泣き叫ぶ公子を、大地からあわてて抱き取った。
「うるさい、あっちへ連れて行け」
 玄徳は云った。
 さらにまた云った。
「思うに、趙雲のごとき股肱(ここう)の臣は、またとこの世で得られるものではない。それをこの一小児のために、危うく戦死させるところであった。一子はまた生むも得られるが、良き国将はまたと得がたい。……それにここは戦場である。凡児の泣き声はなおさら凡父の気を弱めていかん。故にほうり捨てたまでのことだ。諸将よ、わしの心を怪しんでくれるな」
「…………」
 趙雲は、地に額ひたいをすりつけた。越えてきた百難の苦も忘れて、この君のためには死んでもいいと胸に誓い直した。原書三国志の辞句を借りれば、この勇将が涙をながして、
(肝脳地にまみるとも、このご恩は報じ難し)
 と、再拝して諸人の中へ退さがったと誌してある。

<参考>
新聞連載小説として、戦時中の1939年から1943年までほぼ4年間連載され、戦後に単行本として刊行され、絶大な人気を博した。基本的なストーリーラインは中国の歴史小説『三国志演義』に従いつつも、特に人物描写は日本人向けに大胆にアレンジし、今日までの日本における三国志関連作品へ多大な影響を及ぼした。

★ 上記の場面ではないが、諸葛孔明と趙雲子龍の名場面、音声は日本語。
  後半は人形劇で同じ場面、どちらも秀逸。


Confer Zhaoyun ( person + puppet )・・・約4分なのでどうぞ。



 

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