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オバマ米大統領の親がCIAと結びつき、インドネシアで1965年にあった虐殺にも関係したとの情報 櫻井ジャーナル

2016-09-11 21:05:32 | 八百長戦争
オバマ米大統領の親がCIAと結びつき、インドネシアで1965年にあった虐殺にも関係したとの情報 櫻井ジャーナル  2016.09.11
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フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領とアメリカのバラク・オバマ大統領との関係を悪化させる引き金はフィリピン政府が進めている「麻薬戦争」にあるのだが、その背景には1965年インドネシアでスカルノ政権を倒したクーデター、いわゆる「9月30日事件」があると指摘する人がいる。

 オバマは1961年8月、ハワイで生まれたとされている。母親はアメリカ生まれのスタンリー・アン・ダンハム、父親はケニヤ生まれのバラク・オバマ・シニア(とされている)。ふたりはハワイ大学で1959年に知り合い、61年2月に結婚しているのだが、オバマ・シニアにはケニアへおいてきた身ごもった妻と幼い子どもがいた。その当時、アフリカのリーダー候補者をCIAはアメリカへ留学させ、アメリカ支配の手先を養成していたが、オバマ・シニアはそのひとりだ。

 1962年にオバマ・シニアはハーバード大学へ移り、64年に離婚して別のアメリカ人女性と結婚して帰国、CIAの協力者として活動することになる。彼の友人のひとりはケニヤで大きな影響力を持っていたトム・モボヤで、彼もCIAと結びついていた。この人物のライバルだったガーナの初代大統領クワメ・エンクルマは1966年2月、CIAによるクーデターで失脚している。モボヤは1969年に7月に暗殺された。

 母親のダンハムはハワイ大学の東西センター[East–West Center]でインドネシアから来ていたロロ・ソエトロと1965年3月に結婚しているが、この年に東西センターのトップにハワード・ジョーンズ[Howard P. Jones]が就任する。1958年から65年までインドネシア駐在アメリカ大使を務めた人物だ。後にインドネシアでの虐殺を擁護している。

 結婚した直後、ソエトロはインドネシアへ戻る。1966年7月とする記述もあるが、65年7月ともされている。帰国後、政府の地形調査の仕事をしたとされているが、スハルトの下で反対勢力の粛清に加わっていたとも言われている。

 ソエトロが結婚相手を置いて帰国した頃、インドネシアは大きく揺れていた。1965年9月30日にインドネシアでは小集団の若手将校が6名の将軍を誘拐のうえ殺害、ジャカルタの主要箇所を占拠、その武装蜂起を鎮圧するという形でスハルトがクーデターを実行、スカルノ体制を倒すことに成功しているのだ。

 クーデターの切っ掛けを作った若手将校は自分たちがCIAの支援を受けている反乱軍の一部だと放送、スカルノから権力を奪取すると宣言したとする話も流れているが、後に蜂起軍を率いていたウントゥング・シャムスリ中佐は違ったことを言っている。スハルトとCIAが1965年10月5日にクーデターを計画していることを知り、先手を打とうとしたのだというのだ。

 これに対し、ジョーンズは「典型的コミュニストのプロパガンダ」だと主張しているのだが、大統領だったスカルノは将軍殺害に関してコミュニストを非難していない。そのスカルノを排除することに成功したアメリカは粛清を開始、1966年3月まで30万人から100万人を殺したと言われている。現在では、CIAがスカルノを排除するために仕掛けたクーデターだと信じられている。

 前にも書いたことだが、アメリカはスカルノが1955年の総選挙で勝利して以来、スカルノ体制の打倒を企てていた。その年、インドネシアのバンドンで開かれた会議では、基本的人権と国連憲章の目的と原則の尊重、全ての国の主権と領土の尊重、あらゆる人種の平等と全ての国の平等権の尊重、内政への不介入と不干渉など「平和十原則」を打ち出しているアメリカの支配層にとって許しがたい内容だった。しかも、スカルノ政権は外国資産の国有化を始める。

 選挙の際、プロパガンダでコントロールしようとしたが失敗、暴力での打倒に切り替える。1957年から沖縄、フィリピン、台湾、シンガポールなどで戦闘員を訓練、兵站基地も設置した。そして1958年、スカルノが日本を訪問しているときにインドネシアで最初の蜂起が決行される。

 反乱グループの中心は旧貴族階級と地主で、スマトラ島を拠点としていたインドネシア軍の将校が参加していた。さらに学生の懐柔にも力を入れる。例えば、フォード財団は貴族階級出身のインドネシア人をアメリカの大学に留学させて訓練している。育成された「近代的エリート」は、後に「バークレー・ボーイズ」とか「バークレー・マフィア」と呼ばれているようになった。

 1965年9月30日以降、こうしたグループが反対勢力の殺戮でも中心的な役割を演じるが、その際、イスラム教徒もアメリカ支配層の側につき、虐殺にも参加していた。クーデターに先立ち、イスラム系の新月星党はCIAから資金を受け取り、コミュニスト、中国系の人びと、キリスト教徒などを攻撃することになる。この政党の主張はサラフ主義者/ワッハーブ派に近い。

 1967年8月にダンハムはハワイ大学を卒業、10月に息子を連れてインドネシアへ渡って英語を教え始め、その後は金融の仕事を始めるが、CIAと緊密な関係にあるUSAID(米国国際開発局)が背後に存在していた。

 1971年に後の大統領はハワイへ戻り、祖母のマデリン・ダンハムに育てられる。その当時、マデリンはハワイ銀行の副頭取を務め、CIAがフィリピンに君臨していたフェルディナンド・マルコスや南ベトナム大統領だったグエン・バン・チューなどに対するカネの支払いに利用する口座を管理していたという。

 オバマを愚弄する発言をしたフィリピンのドゥテルテ大統領は1988年2月にダバオ(ミンダナオ島の港湾都市)市長に就任しているが、そこではサウジアラビアを後ろ盾とするワッハーブ派の武装集団が活動していた。クーデター直後のインドネシア、あるいは現在のイラクやシリアと同じ問題を抱えていたということである。ドゥテルテはオバマ大統領の子ども時代にイスラム教徒としてモスクで礼拝していたこと、彼の義父や実母、そしてCIAの活動についての情報を持ち、快くは思っていないようだ。



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